「岡村さん、『めちゃイケ』…終わります」 片岡飛鳥が“22年間の最後”を決意した日

「岡村さん、『めちゃイケ』…終わります」 片岡飛鳥が“22年間の最後”を決意した日

フジテレビ・チーフゼネラルプロデューサー片岡飛鳥氏

 フジテレビ・チーフゼネラルプロデューサー片岡飛鳥氏のロングインタビュー第2回。今回も人気のテレビっ子ライター・てれびのスキマさんがじっくり聞きます。(全11回の2回目/ #1 、 #3 ?公開中)

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■岡村は最後の「オファー」だと思っていなかった

<2016年に『めちゃイケ』の“宿題”だった山本圭壱との再会も果たし、「思い残すことがない」と感じた片岡飛鳥は遂に『めちゃイケ』のエンディングに向けて動き出した (#1) 。
『めちゃイケ』の終わり方は会社(編成)の意向ではなく、片岡飛鳥自身からの申し出だったという。そして始まったのが「終活」ならぬ「シュウ活」だった。>

 2016年から『めちゃイケ』のエンディングを意識し始めたんですけど、これはシークレットで進めるものですから、自分の頭の中だけで考えてたんです。でも、たったひとりだけ相談した人がいて、『とぶくすり』時代から一緒にやってきたチーフ作家の伊藤正宏さん(※1)。数少ない僕よりも年上のスタッフなんです。実は最近こんな風に考えているんだって言ったら、伊藤さんもびっくりしながらも受け止めてくれて。で、2人だけの極秘会議で「番組は生き物だから」って前提で話しているうちに“終活”なんだよな、これはと。でも死ぬっていうゴールを目指す“終活”ではなくて面白い「シュウ活」にしなきゃいけない。それならこういうイメージで……というのを半年間くらい話し合って、形が見えてから編成のトップにだけ、Xデーの演出として説明を済ませました。

 なぜXデーかというとエンディングに向けたスタートがどのタイミングになるかがとても大切だったんです。視聴率も内容も含めて、なんとなく元気がないように見える『めちゃイケ』が「シュウ活します」というのは誰が見ても想定内ですよね。だからこそ、秋にやった岡村隆史の「オファーシリーズ」(2017年10月14日放送「第15弾 三浦大知とダンス編」)が残り半年のエピソード・ゼロになったんです。もちろん岡村自身は最後のオファーになるとは思っていませんでした。

■「やっぱり『めちゃイケ』面白い!」が大事な条件

 ずっと人気企画と言っていただいていたオファーシリーズは、僕と岡村が若い頃から向き合ってきた企画。でも岡村の長期休養や僕の人事異動もあって2008年の秋にやったテニス(2008年10月4日放送「第12弾 松岡修造とテニス編」)を最後に僕は演出から手を引いていたんです。でも、もう一回、大人のタレントと大人のディレクターとしてやろうって。岡村からしたら、久しぶりに僕がオファーシリーズに戻ってきたと思っていたでしょうし、僕もいろいろ昔を思い出しつつ、お互いちょっと興奮してましたね。だから、収録も楽しかった。それに、何より大知くんとか周りのダンサーが『めちゃイケ』世代ど真ん中で、リオ五輪の閉会式で踊るような超一流の人たちがオファーシリーズに出ることを心から喜んでくれた。もう現場のムードが最高に良かったんです。番組を長く続けているとこういうギフトもあるんだなあって思いました。

 これは見る側も同じで『めちゃイケ』を昔から好きだった人たちが「やっぱり『めちゃイケ』面白い!」とか「岡村、今でもすごいじゃん!」と感じられることが「シュウ活」をスタートするための大事な条件だと思っていたんです。だから、それが叶えば世間に「シュウ活」を発表しようという思いがあったので、もし思わぬ事故で怪我したり、ダンスを失敗して不本意な出来だったとか、そういうことが起きてたら「やっぱり、このタイミングじゃないな」と思い直したかもしれないですね。

■「岡村さん、『めちゃイケ』…終わります」「えっ……」

 結果はご存知かもしれませんが、岡村は史上最大の頑張りを見せて、ライブは大成功した。ダンスのクオリティはもちろん、「EXCITE」に出てくるニセショッカーのブラックスカルまで(笑)。本当に素晴らしかったです。それでスペシャルの直後「47歳でも俺はまだまだできる」って満足感いっぱいの岡村に突然『めちゃイケ』の終了を伝えに行ったわけです。当日は大知くんやダンサーたちへのオンエア後のフォロー企画みたいなのがあって、ブラックスカルのマスクを被った岡村がロケ終わりにロケバスに帰ってくると、その日のロケには参加していなかった総監督の僕が待っていて……。岡村は「何かある!」というのをすぐに察知した。

 僕は一応、オンエア後の反響なんかをインタビューしてるんだけど、彼はたぶん心の中で「飛鳥さん、本当は何しに来たんだ?」と(笑)。僕は僕で長い時間考えて決意して岡村に会いに来たはずなのに、言葉にできたのは長い雑談のあとで、

「岡村さん、『めちゃイケ』…終わります」
「えっ……」

 今日までこのシーンはちゃんと見返せてないです。ただ自分にしか出来ない役目だと思って話しました。きっと動揺した岡村も、それを最初に聞くのが自分の役目と思ったのかもしれません。

■意外だった加藤浩次の「マジで?」

 で、そのあとはメンバー一人ひとりに岡村と番組の終了を伝えに行ったんですけど、みんながみんな、オファーシリーズ大成功直後の知らせにびっくり。全員酸いも甘いも知ってるベテラン芸能人なのに固まってました。加藤浩次なんて肝の据わった大人の男ですから、「なるほど、しゃあねえな」とか言うかと思ったら、あいつが一番「え?」って動揺して「マジで? マジですか?」と。たぶんですけど『めちゃイケ』をずっと見てくれていた人たちも同じようなリアクションだったはずで、まずはみんなの記憶に残る「シュウ活」のスタートになった。ただメンバーは混乱しながらもこちらの思いを理解してくれました。それは1993年に『とぶくすり』から始まって、『めちゃモテ』を経て『めちゃイケ』へと何度も始まりと終わりを繰り返してきた中で、番組が終わったからといって、この関係性までが終わるわけじゃないって無意識に感じたこともあるのかなと。濱口が唯一、報告を笑い飛ばしたのも彼なりの意志に見えました。「いろいろあるけど、ここは笑っとこ」みたいな。

「シュウ活」をしようと思った時に、最終回は、岡村のウソ結婚式でのみんなの祝辞で終わっていくというところまで、自分では想像していたんですけど、この日のリアクションを見て、これからの半年間、メンバーがどんなことを感じるんだろう。それをそのまま「テレビ」にしていけば『めちゃイケ』なりのエンディングノートになるはずだと思ったんです。この極秘ロケの時点でオンエアまで10日くらいかな?……まあ最終的に世間に発表したのは我々じゃなくてたむけんでしたけど(笑)。(※片岡からプライベートのメールで『めちゃイケ』の終了を伝えられた芸人のたむらけんじがなぜか感極まり、正式発表ではないスクープ記事に対し、SNSで「事実でした、涙があふれる」と拡散し大騒動になった。)

■「ディレクターに俺はなる」と思った高校時代

<そうして約半年間にわたる「シュウ活」という名のカウントダウンで盛り上げ、最終回は完全新録の5時間を超える「祝活スペシャル」。ビートたけしや明石家さんまも登場し、最後はメンバー全員の祝辞で『めちゃイケ』はおよそ22年間の歴史の幕を閉じた。
 フジテレビの演出家として、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(1990年)、『とぶくすり』(1993年)、『めちゃ×2モテたいッ!』(1995年)、そして『めちゃイケ』(1996年)と、お笑い畑を歩んできた片岡飛鳥。彼はそもそもどんな経緯でテレビの世界に身を投じたのだろうか。>

 子供の頃からテレビは大、大、大好きでした! 基本的には僕らの世代はドリフで育った。あえて大ファンとして敬意を込めて呼び捨てにしますけど、“志村”、“加藤”、最高だった(笑)。でも、高校に入学した1980年に『THE MANZAI』が始まった。もう「何、これ?」ですよ。漫才は知ってる。でもそれとは明らかに違った。ローマ字で「MANZAI」というのか…って。で、高2で『オレたちひょうきん族』、高3で『笑っていいとも!』が始まる。“志村”、“加藤”に続いて、“たけし”、“さんま”、“タモリ”にやられるんです。だから結局、「楽しくなければテレビじゃない」のフジテレビにしてやられたんでしょうね。16〜18歳というカルチャーに対してもっとも敏感だった時期に、ドドドっと刺さって来た。

 それで17歳の秋に親に「テレビのディレクターになる」って言った記憶があります。当時、僕はまあまあ進学校に通っていたんですよ。当然のようにみんな勉強しなきゃって雰囲気だったんですけど、テレビが面白すぎてテレビに夢中だったからテレビを見る時間が削れないんですよ。うちは別に裕福でもない中流家庭だったんですけど、何もいらないからビデオデッキだけは買ってくれって頼んで、その頃何十万円もしたんじゃないかな? どんなお金持ちの友達よりも先に留守番録画の環境を持っちゃって、ますますテレビが止まらない。1回見て終わればいいのに、2回も3回も見ちゃう。うちの親もそんなに勉強しなさいって言うタイプではなかったんですけど、さすがに後ろめたくはあったんです。

 でも、ある時発想を換えてみたら、パーッと目の前が晴れたんです。「あ、これを仕事にすればいいじゃん!」って。そしたら大学はどこに行こうが、最終的にテレビ局に入るのが大切になるわけで「テレビを見ること」=「勉強」になる、と。当時は『ひょうきん族』で、のちに僕の大師匠になる三宅恵介さん(※2)たちが「ひょうきんディレクターズ」としてテレビに出ていて、あ、こういう人たちがテレビ局にいて、面白い番組をつくっているんだってことを知って、どんどんテンション上がって「ディレクターに俺はなる」って思ったんです。ワンピース的に(笑)。

■テレ朝の面接で「うちの局で好きな番組は?」「ないです」

 ところが大学に入ったあとで、テレビ局に入るために特段の努力をしたかというと……早い話が大学生活のほうが楽しくなっちゃったんです。もちろんテレビは見続けてましたけど、いわゆるマスコミ研究会に入るとか、テレビ局でバイトをするとか、そういうのは面倒くさくて。4年生になってフジテレビの就職セミナーみたいなのもあったんですけど、「お前、あれ申し込んだの?」って友達から言われるまで、その存在も知らなくて申込みが間に合わないってくらいダメな就職活動だった。ようやく慌てながら、テレビ局は全部受けるんですけど、日テレもTBSもテレ朝も全部一次面接で落ちるんですよ。4日間くらいの間にスゴいテンポで立て続けに落ちた。その時は「こんなにやりたかった仕事なのに……」って、それまでの人生で一番落ち込みましたね。ちょっとだけ死のうと思った(笑)。

 もちろん第一志望はフジテレビでした。ただ他の局の面接でも「僕はフジテレビに入りたくて」って言ってたんです。テレ朝で「うちの局で好きな番組は?」「ないです」って(笑)。当時は今ほどバラエティも多くなかったし、嘘をつかないで正直にしゃべっているほうが自分が出るだろうし、それを見て「いいね」と思ってくれる大人じゃないと人生のお見合いとしてはダメなんじゃないかって。今考えたら「久米宏さんのニュースステーションです!」とか言ってた方がいい学生ですよね。そりゃ一次で落ちる(笑)。

 でもテレビ東京には内定をもらったんです。当時テレ東は制作部門を委託していたから役員の方に「うちに来るのはいいけど、ディレクターにはなれないよ」と言われて。僕は勉強不足でそういう会社の仕組みもよくわかっていなかったから「いや、僕はディレクターになります」って言い張って(笑)。まだフジの試験が続いていた時期に内定式があったので、それにも出たんです。その頃、内定を断ると学生はお茶をぶっかけられるって聞いていたから、フジに受かった後、恐る恐るお断りの挨拶に行ったら、人事部長の方が「キミはフジテレビに入ったほうがいいと思う」って言ってくれたのが忘れられないですね……うん、ものすごく感謝しています。

■入社して『ひょうきん族』最後のADに

<当時、フジテレビのトップに君臨していたのは鹿内春雄。創業者一家の2代目として80年に35歳の若さでフジテレビ副社長に就任(85年、会長に)。父・信隆が行った路線とは逆の改革を行い、低迷していたフジの大改革に成功。「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズと共にフジテレビを業界のトップに導いた立役者だ。ところが88年4月、片岡がフジテレビに入社してわずか2週間あまりで急逝する。>

 フジテレビの最終面接は当時まだ42歳の鹿内春雄さんが中央にドーンといて、その周りを年上の役員たちが囲んでる。春雄さんがほぼ1人で質問して、それを周りの役員が聞いているんです。春雄さんは男の色気というか、大人の迫力でものすごい存在感がありました。今でも覚えてるのが、春雄さんが僕をじっと見据えて「お前はさあ、一匹狼タイプだろ?」って聞くんです。ヤバいと思った僕が慌てて「いえいえいえ、僕はすごくチームワークとかが好きです」って答えたら、みんながどっと笑ったんです。で、リラックスできた最後に「今はナンボのものでもないですけど、あの日フジテレビに入れて良かったと思われる人間になります」って言ってみたら春雄さんが「おう、わかった」って。他局では全然上手くいかなかったお見合いがたまたまハマったんだと思います。亡くなった春雄さんには伝えられないんですけど、そこから30年のテレビ人生が始まったんですから、大感謝ですよ。

 面接中も入社してからも僕はずっと「ひょうきん族で仕事をしたい」って念仏のように言い続けていたんですけど、願いが叶ってADに配属してもらえた。僕が入ってから1年後に番組が終わるので、結果として『ひょうきん族』最後のADでした。

 入社直後に『ひょうきん族』でADをやって、その後『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』でディレクターになって、『めちゃイケ』で自分の番組をつくって、1988年4月1日の入社から30年ぴったりの2018年3月31日にそれが終わった。数えてみると30年中26年、土曜夜8時をやらせてもらっている。それは本当にテレビの世界においてありがたいことだったと思いますね。だから『めちゃイケ』の最終回に、たけしさんとさんまさんに出て頂いたのは、この30年間が地続きになっているような気持ちになりました。

#3 「早く紳助さん連れて来いよ!」 『ひょうきん族』で片岡飛鳥が怒鳴られ続けた新人時代  へ続く
#1 『めちゃイケ』片岡飛鳥の告白「山本圭壱との再会は最後の宿題だった」

毎週土曜日連載(全11回)。#4、#5は4/6(土)に配信予定。
(予告)
#4 「飛鳥さん、起きてください!」『いいとも』8000回の歴史で唯一“やらかした”ディレクターに
#5 「160cmもないでしょ?」『めちゃイケ』片岡飛鳥と“無名の”岡村隆史、27年前の出会いとは

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※1 伊藤正宏…1963年生まれ。『とぶくすり』、『めちゃ×2イケてるッ!』、『料理の鉄人』、『クイズ$ミリオネア』、『空から日本を見てみよう』など数多くのバラエティ番組の構成作家を歴任。現在は『ポツンと一軒家』などを担当。
※2 三宅恵介…1949年生まれ。『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんディレクターズ」のひとり。クレジットは「三宅デタガリ恵介」。『あっぱれさんま大先生』や『明石家サンタ』など明石家さんまの番組ディレクター・プロデューサーを歴任。

聞き手・構成=てれびのスキマ(戸部田誠)
写真=文藝春秋(人物=松本輝一)

(片岡 飛鳥,てれびのスキマ)

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