「もし2人が共演していたら……」監督が明かす、幻に終わった宮沢りえと貴花田の“青春映画”

『ぼくらの七日間戦争』宮沢りえと貴花田の映画共演は幻に 菅原浩志監督が明かす

記事まとめ

  • 宮沢りえが映画デビューを果たした『ぼくらの七日間戦争』の菅原浩志監督に話を聞いた
  • 太った役の男の子を探して苦労し藤島部屋で中学生だった貴花田に会ったが見送ったそう
  • 宮沢に会った瞬間に起用を決めたが角川春樹社長は「この子だけ代えろ」と言ったという

「もし2人が共演していたら……」監督が明かす、幻に終わった宮沢りえと貴花田の“青春映画”

「もし2人が共演していたら……」監督が明かす、幻に終わった宮沢りえと貴花田の“青春映画”

10代の頃の宮沢りえ ©共同通信社

 “平成”という時代を代表する女性の一人が、女優の宮沢りえさん(46)であることに異論はないでしょう。

 彼女が、映画デビューを果たしたのが、1988年(昭和63年)に公開された『ぼくらの七日間戦争』でした。当時、三井のリハウスのCMには出演していたものの、女優としてはまだ無名でした。そんな彼女を起用したのはなぜなのか。監督の菅原浩志さんに話を聞きました。

◆◆◆

――宮沢りえさんをキャスティングした経緯を教えてください。

菅原 当時、角川春樹事務所の社長から「ぼくらの七日間戦争」を原作に映画が出来ないか打診され、自分で脚本を書き映画化が決定し、それから主人公になる中学生11人を選んだのですが、なかなかいい子がいませんでした。当時の子役は、劇団で訓練されすぎていて、セリフが時代劇みたいな子たちばかりだったんです。子役と言えば時代劇に出る役ぐらいしかなかった時代でしたから。そこで、とにかくたくさんの中学生に会おうと、合計で1万2千人の子をオーディションしました。私の初監督作品でしたので、気合もかなり入っていました。

――かなり多くの方にお会いになられたのですね。

菅原 11人を選ぶのに、けっこう時間をかけました。「日比野朗」というちょっと太った役の男の子を見つけるのはかなり苦労しました。親の健康管理が良くなっていた時代なので、太った子がいないんですね。そこで食べ放題のレストランの前で張り込んで、コロコロした男の子が出てきたら声を掛けたりもしました。仕舞いには「相撲部屋なら太った子がいるはずだ!」と思って、紹介して貰って行ったのが藤島部屋でした。その時に会ったのが、なんとまだ中学生だった貴花田でした。ただ、顔つきがあまりにも闘志の塊だったので、とても普通の中学生に見えないなと思い、見送りました。りえと映画で共演していたらどうだったんでしょうね(笑)。

――もしかしたら映画が運命的な出会いの場になっていたかもしれませんね。

菅原 そうなんです。太った役の男の子も苦労の末、決まったんですけど、最後まで主人公の「中山ひとみ」役が決まりませんでした。あるとき、当時所属していた事務所の社長さんに紹介されて、りえに会ったんです。いまはなき赤坂プリンスで、“りえママ”こと宮沢光子さんも一緒でした。

■角川春樹氏が「この子だけ代えろ」と

――初めて会ったりえさんにはどんな印象を受けましたか?

菅原 まだ三井のリハウスのCMに出る前でしたので、その場で初めて見たわけです。当時、彼女は14歳でしたが、よくもまぁこんなに何色にも染まらず、よくぞ、14歳になるまでこんなにも透明感を保って育ってくれたものだと感激しました。「ああ、ここにいた、やっと出会えた」と思いました。会った瞬間に起用を決め「映画に出ない?」とすぐに言っていましたね。彼女には演技経験もなかったし、おそらく女優になりたいという気持ちもなかった。中学時代の思い出作りに映画に出ようという考えだったと思いますが、それが逆に良かった。作られた演技ではないものが引き出せたのですから。

 ただ、その後で困ったことがありました。キャスティングを決めた後、角川社長に写真を見せて、「この子たちでいきます」と言ったのですが、角川社長が「いいんじゃないか。でもこの子だけ代えろ」と。それがりえでした。

――それは衝撃的ですね。

菅原 角川社長は、薬師丸ひろ子さんや原田知世さんを見つけ、映画も大ヒットさせた実力者。飛ぶ鳥を落とす勢いでもの凄い力を持っていた。でも私の中には、この映画の主人公は絶対にりえしかいないという確信がありました。1万2千人会ってやっと決めた子ですから。かなり角川社長にも強く言われましたが、「この子でいきます」と食い下がったら、「わかった。好きにやれ」と。だからなのか、当時は映画を撮ると角川書店から主演の子の写真集が出ていたのですが、りえの写真集は出ませんでした。

――実際、撮影ではどうでしたか?

菅原 撮影前に子供たちを連れて熱海で合宿をしました。修学旅行みたいですよね。発声練習をしたり、リハーサルをしたり、みんなでご飯を食べたりして、一緒に役作りをしていきました。ただ、りえは彼女なりに演技ができないもどかしさや、悔しさ、葛藤があったんでしょうね。ボロボロ泣いていた姿が印象的でした。それはそうですよね。やったことがないのですから。

 ただ実際の撮影では一変しました。私は演出で「ここで泣いて」とか「怒って」とか指示はしません。「君たちがこういった状況に追い詰められたらどうする?」と問いかけて、その反応を待つ。その反応がりえは素晴らしく良かった。こちらが熱量を持ってぶつかっていくと、そのままスパーンと返ってくる。全身全霊で期待に応えてくれました。学級委員としてクラスの皆に囲まれて責め立てられるシーンが一番緊張していましたが、見事にやり遂げました。

■ハサミを持ったりえママ「好きに切っていいよ」

――お母さんの宮沢光子さんは現場に来ていましたか?

菅原 ずっと現場にいましたね。ただ、自分の娘を守ろうという気持ちだけでなく、この映画はどうしたら良くなるのだろうと、作品のことをしっかりと考えてくれていた人でした。映画の中で、りえ演じる中山ひとみが体育の先生に足をつかまれてジーンズが破けて、彼女の生の足が見える、というシーンがあったんです。ジーンズが破けた後の長さをどれぐらいにするか悩んでいたら、光子さんが衣装さんときて、「監督、好きに切っていいよ」とハサミを渡したのです。あんまりお尻が見えるほど短くなるのもよくないから、一番足が綺麗に見える長さで切ってもらいましたが、光子さんは「もっと短く切ってもいいのよ」と言っていました。作品の出来栄えを第一に考えてくれていてありがたかったですね。

――お母さんのプロデューサーとしての能力はこのときから既にあったんですね。

菅原 映画の撮影後もよくお会いしていたのですが、「若くて美しい時期は本当に短いのよ」とよくおっしゃっていた。それが後に『サンタフェ』という写真集になったのかなと思いました。決して、儲けようとか、売ろうとかそういうことではない。娘の一番綺麗なときを残してあげたいという親心だったと思います。才能のあるすばらしいお母さんで、あまりにも早くに亡くなったのが残念でならないですね。

――映画はヒットし、宮沢さんもその後、女優としての階段をのぼっていきました。

菅原 この世界に入るきっかけにもなった作品を作ったものですから、まず第一に彼女には幸せな人生を歩んで欲しいという気持ちが強いです。映画女優であれ、舞台女優であれ、自分の行きたい道を選んで行ってもらいたい。それが女優の道であれば、私も嬉しいです。

――今後、宮沢さんとお仕事をすることは考えていらっしゃいますか?

菅原 私が映画を作る時は、まず作品があって、それに合う役者さんにお声掛けをする。そのため『ぼくらの七日間戦争』以降は、タイミングもあわず彼女にオファーする機会もなかったのですが、いまのりえに合う作品があったら、ぜひ仕事をしてみたいですね。

◆◆◆

 宮沢りえさんは1973年に生まれ、「一卵性親子」とも称された母・光子さんと共に歩んできました。1989年(平成元年)、16歳で連続ドラマの主演を果たし、人気絶頂の1991年11月に発売された『サンタフェ』は150万部を超すベストセラーとなり、社会現象に。貴花田関(当時)との婚約と破局、映画のドタキャンなどすったもんだもありましたが、2003年に『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞。蜷川幸雄さんや野田秀樹さんら名演出家らとの出会いもあり、その後、彼女は舞台・映画女優としての道を進んで行きました。昨年はV6の森田剛さんとの結婚でも話題になり、今年9月公開の蜷川実花監督の『人間失格』にも出演しています。

 彼女はいかにして現在の地位に登りつめたのか。菅原さんほか、野田秀樹さん、瀬戸内寂聴さん、篠山紀信さんら、彼女に関わってきた人物たちの証言で半生を辿った、ノンフィクション作家・石井妙子さんによる特別読み物「彷徨える平成の女神」は、月刊『文藝春秋』5月号に掲載されているので、ぜひそちらも併せてお読みください。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2019年5月号)

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