台湾の仲良し少年4人組。30年後、その中の1人が全米を震撼させる殺人鬼に。超弩級青春ミステリ誕生。──「作家と90分」東山彰良(前篇)

台湾の仲良し少年4人組。30年後、その中の1人が全米を震撼させる殺人鬼に。超弩級青春ミステリ誕生。──「作家と90分」東山彰良(前篇)

©鈴木七絵/文藝春秋

■父親が主人公のモデルだった『流』。今度は僕と同年代

――新作『僕が殺した人と僕を殺した人』(2017年文藝春秋刊)、直木賞受賞作『流』(15年講談社刊)のような青春小説かと思ったら、また違う展開で驚きました。『流』の主な舞台は1970年代の台湾・台北でしたが、こちらは1984年が主な舞台。でも物語は2015年のデトロイトから始まります。全米を震撼させた連続殺人鬼“サックマン”が逮捕され、面会に訪れた男が過去を振り返る。彼は30年前、台北の町で“サックマン”と共に少年時代を過ごしていた――。この物語の出発点がどこにあったのか非常に気になります。

東山 台湾を舞台にした小説は『流』だけで終わらせるつもりはなかったんです。『流』の17歳の主人公は僕の父親がモデルでしたが、今度はもう少し自分に近い目線にしようと考え、1984年に13歳という、僕と2歳くらいしか違わない主人公にしました。なので自分で知っている時代の空気を織り交ぜつつ書きました。『流』ははからずも読んでいただいた方から、戦争に言及した小説としての感想を多くいただきましたが、今作はもっと純粋に娯楽作品として書きました。

『流』は父の実体験の話も多いですが、今作はほとんどが僕の想像です。でも一部分、実際に起きた事件もありますね。僕の記憶が間違っていなければ、毒蛇が200匹くらい脱走した事件は本当にあったことです。

――『流』と登場人物は異なりますが、おじいさんたちが主人公のユンに「迪化街で布屋をやっていた兄弟分が10年前に殺された」という話をしますよね。これは『流』のお祖父さんのことですよね?

東山 あ、気づいてくれましたか(笑)。どちらも僕が知っている街を舞台にしていますが、『流』が1984年くらいに終わり、こちらが1984年に始まるのでちょっとだけシンクロさせています。子どもたちの天敵、ファイヤーバードに乗った胖子(パンズ)も出てくるし、果物トラック売りの人も出てくる。本当はもうちょっとシンクロさせたかったんですけれど、あまりやっても嫌らしいので。これくらいだったら許してもらえるだろうかという。

――4人の少年たちの輝ける青春の日々だけでなく、月日が経ってその中の1人がアメリカで殺人鬼になるという構想はどのようにして生まれたのですか。

東山 影響を受けた映画や本がいくつかあるんです。たとえば『スリーパーズ』という映画は、これも4人の少年の物語で、ちょっとしたいたずらで事故を起こして4人とも少年院に入るんです。そこで性的暴行を受けた子たちが大人になった後、1人は新聞記者、1人は検事、2人はマフィアになる。マフィアの2人は自分たちを暴行した看守を偶然見つけて殺してしまって捕まり、残りの2人がどうにかして彼らを無罪にしようと策を練る。最初に発想としてはああいう感じのものがありました。

――1984年というと、東山さんはもう台北から福岡に移られた後ですよね。

東山 大学を卒業するまで夏休みはいつも台湾に帰っていたので、記憶にはよく残ってるんです。主人公のお兄さんが些細なことで喧嘩になって殺されますが、1984年に実際にこれと近いことが僕の身に起きたんです。台湾では月を指したら耳を怪我すると言われているんですが、僕は信じていなくて月を指したんです。その年の夏休みが終わる数日前、友人らと食事していて、店のトイレに行ったら酔った男性が用を足していたので、待ちながら何気なく口笛を吹いたんですよ。後からその男が絡んできたんです。「さっきのはどういう意味だ」って。大人が子どもにおしっこさせる時に口笛をぴゅーぴゅー吹いて誘導するのと同じことをされたと思ったみたいで。友達の手前カッコ悪いこともできず言い返したら、その人が怒ってビールのジョッキを投げつけてきたんですよ。それが耳に当たって、カーンと割れて、40針縫う羽目になりました。新聞に載りましたよ。「少年Aが酒場で乱闘」って(笑)。その経験って、ずっと小説を書いていても全然使い道がなかったんですけれど、あ、ここで使ってやろうと思って。

――40針……!!! さて、『流』は大家族の話というイメージでしたが、本作は核家族化が進んでいますよね。主人公、ユンのお兄さんが東山さんと同じような不幸なきっかけで亡くなり、そこからお母さんは精神的に病んでいく。今回、出てくる少年たちの家族はみな問題というか、事情を抱えていますね。それで、ユンは友達を助けるために、ある計画を立てる……。

東山 そこはたぶん『スリーパーズ』の影響です。子どもたちはみんなわりと明るく元気に暮らしているんだけれど、中にはお父さんがお母さんを殴るのをずっと見ていて、自分も殴られて入院した子もいる。

 僕が経験しなかったことの憧れもありますね。仲間のために命を張るということへの憧れがある。そんな憧れをなんとか昇華させたかったのかもしれませんね。

■深い闇が存在するにはそれだけの強い光が必要。13歳の季節はキラキラと……

――殺人鬼が捕まった、ということは物語の最初に明かされるので、少年時代のパートに関して読者は、「この中の誰かが殺人鬼になるんだ」と思いながら読むことになりますね。大人になってからのつらい現実を知っているからこそ、彼らの13歳の季節がとてもまぶしく思えます。

東山 『流』の場合は、とにかく自分がイメージする青春のキラキラしたまぶしいものを全部織り込みました。主人公が17歳だから恋もするし失恋もするし喧嘩もするし、仲間のためにやくざの組に飛び込むこともする。キラキラした光がさすからこそ、ちょっとした影も落ちていたと思うんです。この『僕が殺した人と僕を殺した人』、つまり『僕ころ』はその逆でいこうと思いました。『流』がポジだったら、これはネガでいこう、と。彼らの計画が意外な結果となり、大人になって1人が殺人鬼になるという。奇跡は起きません。本当に闇が深いんですが、その深い闇があるということは、当然それだけの強い光がなくちゃコントラストをなさない。それで、台湾パートの青春部分は、思いつく限りのキラキラ感を織り込もうとしました。

――主人公の年齢は13歳がよかったのですか。

東山 そうですね。14歳、15歳になると女の子絡みのことも書かなくちゃいけないけれど、13歳ならまだ男の子の関係だけを描いていればいいかなと思いました。

――1984年といえば、オーウェルの『一九八四年』を連想しましたが、実際作中に出てきますね。

東山 そうなんです。僕は小説を読んだ時、すごく好きな言葉や印象に残った言葉があるとメモしておくんです。というのも、自分の中に好きな言葉が残っていって次第にそれが自分で考えたものなのか誰かの言葉なのか分からなくなる時があって。人の言葉を自分のもののように書いたらいけないのでメモしているんです。オーウェルの『一九八四年』を読んだ時は、作中にも引用した「正気かどうかは統計上の問題ではない」という言葉の意味が理解できなかったんですよ。でも『僕ころ』を書き終わった時、ああ、あの言葉はこういうことじゃないかって自分なりに腑に落ちたものがあったんです。それで、少し加筆しました。

――ラストまで書き切った時、どんな感触がありましたか。

東山 最初に書き上げた時は、まだ物語が全然伸びきっていない実感があって。それで長い間寝かせたんです。1話書いて1話連載というのではなく、ほぼ半分以上書いてから連載を始めたんです。それで、連載している間にもちょっと寝かせる期間を設けました。その結果、台湾のキラキラした時代に比べて、アメリカのパートが決定的に弱いと思ったんです。それでまたいくつかエピソードを加えました。そこで、たぶんようやく物語が伸びきったので、こうして本にさせてもらったんだと思っています。

■東山作品の強くて、美しくて、痛快な女性たちのモデルは?

――いつか父方のお祖父さんのことを書きたいと思っていて、その前に練習としてお父さんのことを書いたのが『流』だった、と前におっしゃっていましたよね。

東山 祖父の話もいずれ書きたいと思っていますし、その前にもっと年齢を下げて、たとえば現代の子どもが主人公の物語というのも書きたいなと思っていて。それも、今とはまるっきり別の、一歩引いた、熱くない文体で。というのもこの本を書いている時に、編集者からナイポールの『ミゲル・ストリート』という本を教えてもらったんです。小野正嗣さんと小沢自然さんが訳された本で、カリブ海のトリニダードの少年の目線で、ミゲル・ストリートにいる人たちのことを描いている。僕は最近読んで、この感じで書きたいって思ったんですよ。細かい描写は一切せず、その人がどういう洋服を着ているとか、どういう顔つきなのか分からなくて、すごく近しいのに一歩引いているような……。そんな感じで台湾を描いてみたい。その時はおそらく廣州街という、僕がよく知っているところから離れて別の場所を舞台にすると思います。

――若い世代を書く時に、台湾を舞台にしたほうが書きやすいというのはありますか。

東山 台湾のほうが書きやすいかどうかは分かりませんが、マジックリアリズムというのがすごく好きで。台湾は確かに信心深いところがあって、そういう表現をする余地が残されている気がします。日本でそれを書くと、読者はもう日本のことをよく知っているので、どこか嘘っぽく読めてしまうかもしれない。国境を越え、日常とはちょっと違った場所を舞台に設定することで、マジックリアリズム的なものが書きやすくなる。

――『流』でも不思議なことが起きましたよね。台湾の作家、呉明益さんの『歩道橋の魔術師』でも不思議なことが起きたし、台湾にはマジックリアリズム文学があるのかと。

東山 確かに神仏をおろそかにしない人が多いですね。『僕が殺した人と僕を殺した人』の中でも占いで物事を決める場面が出てきますが、僕の家族も例えばお墓参りに行ってそろそろ帰っていいかとご先祖様に聞く時に、コインを2枚出して放って、それが表と裏に分かれてご先祖様の許可をもらえるまではとりあえずその場に残っています。

――ところで、『流』に出てくる女性たちはみんな気が強くて痛快ですが、彼女たちもモデルがいるのでしょうか。他の作品、たとえば『ラブコメの法則』(14年刊/のち集英社文庫)は福岡を舞台に女系家族に生まれた青年のラブコメで、こちらも女性たちがみんな美形で個性的で強くて。

東山 本当に僕にああいうおばさんたちがいるんです。ずっと親戚だと思っていたけれど、実は赤の他人だったというおばさんが(笑)。祖父母があちらのお父さんお母さんと友達で、小さい時からそのおばさんの家に遊びにいっていたんですが、5人姉妹なんですよ。だから大きいおばさん、2おばさん、3おばさん、4おばさん、5おばさんって呼んでいました(笑)。3おばさんが男らしくて、悪いことをどんどんさせてくれる。小学校5年生くらいの時にオートバイの乗り方を教えてくれて、中学生くらいで「車を運転してみろ」って。2おばさんはすごく美人で、高校の同級生にブリジット・リンという、アジアが誇る台湾の美人女優がいて、僕は憶えていないんですが、彼女がデビューする前の高校生の時に、2おばさんと彼女と僕の3人で映画を観たらしいです。

■物語が勝手に終わるまで自分の都合では終わらせない

――それにしても、『流』と『僕が殺した人と僕を殺した人』の間に、中央公論文芸賞を受賞したディストピア小説『罪の終わり』(16年新潮社刊)があると思うとすごいふり幅ですね。これは文明が崩壊した後のアメリカ大陸が舞台で、人と牛を掛け合わせた2本足で歩く牛が登場するなど奇妙な世界が描かれる『ブラックライダー』(13年刊/のち新潮文庫)の前日譚となる作品です。

東山 実は『罪の終わり』は『流』が出る前に脱稿していたんです。『ブラックライダー』の後に『流』を書いて、『流』を寝かせている間に『罪の終わり』を書き始めたので。

 これまでも一生懸命書いてきたんですけれど、やっぱりどこかに邪念があったと思うんです。物語が伸びていく方向ではなくて、たとえば映画化しやすい方向に展開させてみるとか。けれども本を出してくれるところがまだあるうちに、余計なものをとっぱらって書こうと思ったんです。書いていて分岐点に差し掛かった時に、こっちにいった方が映像化しやすいというのは取り除き、物語が本当に伸びていきたい方向に、僕が導くんじゃなくて、僕が連れていってもらう。それで物語が勝手に終わるまで自分の都合では終わらせない。それはこの『僕が殺した人と僕を殺した人』でもできたと思います。

――初めて物語が伸びる方向に任せて書き切ることができたのが『ブラックライダー』だったと。

東山 そうです。『ブラックライダー』は3章から成るんですけれど、最初の計画では1章の西部劇だけで終わろうと思っていたんです。書き終わった後に、いや、この物語はここで終わっていないと思い、残りを書いたんです。これを書いてふっきれて、その後は売れなくてもいい、書きたいように書くと思えるようになりました。『ブラックライダー』は自分を変えてくれた物語だと思っています。

――最初に引用されている、スティーヴン・クレインの詩が、この物語が誕生するきっかけだったとうかがっていますが。

東山 それまでもマッカーシーの『ザ・ロード』とかを読んで、ディストピアものを書いてみたい気持ちはあったんですよね。ゾンビものも昔から好きだし。でも、自分にはハイテクな未来は表現できない気がしていました。それで、その詩に出合った時に、「あっ、これ」となって。ちょっと西部劇っぽい詩だったんですね。荒野とか砂漠とかいう言葉が出てきたので。そこから、スチームパンク的な、文明が滅んで原始的な社会に戻って、また馬と拳銃がものをいう世界だったら書いていけるんじゃないかと思いました。

――じゃあその時に『罪の終わり』の構想もできていたんですか。

東山 全然なかったですね。『ブラックライダー』を書いていて、黙示録の四騎士というのが出てきた時に、黒は出したからあと3人いるなと思っていて。この世界観は書いていて本当に楽しかったので、それで『罪の終わり』では白騎士というのを出しました。この作品では、黒騎士の名前の由来が、白騎士に敵対する人間を黒騎士と名付けたという設定にしているので、その白騎士の話を書いたんです。将来的にまた何かひらめくものがあったら、ペールライダーとレッドライダーを書きたいな、なんて思ったりしますね。

――『罪の終わり』は罪で罪を浄化する救世主みたいな存在が現れる。モラルを問いかける深い内容だったので、そこが出発点かと思いました。

東山 今となっては曖昧ですが、でも確かに価値観を相対化したかったというのはありましたね。アメリカが舞台なので究極の価値観というとキリスト教になりますよね。人間が本当に追い詰められた時に、キリスト教を守って餓死するのか、それに反して人肉を食うのか。人肉を食うのは自分のためだけじゃなく、もしかしたら家族を守るためかもしれない。そういう、当たり前の生活をしていると試練にさらされない信仰とかモラルが試練にさらされた時に、綺麗ごととして持っているモラルや価値観を持ち続けられるのだろうか、という疑念は常に抱いていたと思います。

東山彰良(ひがしやま・あきら)
1968年台湾生まれ。5歳まで台北で過ごした後、9歳の時に日本に移る。福岡県在住。2002年、「タード・オン・ザ・ラン」で第1回「このミステリーがすごい!」大賞銀賞・読者賞を受賞。2003年、同作を改題した『逃亡作法 TURD ON THE RUN』で作家デビュー。2009年、『路傍』で第11回大藪春彦賞受賞。2013年に刊行した『ブラックライダー』が「このミステリーがすごい! 2014」第3位、第5回「AXNミステリー 闘うベストテン」で第1位となる。2015年、『流』で第153回直木賞受賞。2016年、『罪の終わり』で第11回中央公論文芸賞受賞。他著に『ラブコメの法則』『キッド・ザ・ラビット ナイト・オブ・ザ・ホッピング・デッド』『ありきたりの痛み』など。

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※「人生とはもともとグロテスクなもの。自分を汚いと思ってしまう人にそう肯定してあげる小説って優しいと思う。───東山彰良(後篇)」に続く

(瀧井 朝世)

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