終われない21世紀型映画からの逃亡 小島秀夫が観た『ローガン』

終われない21世紀型映画からの逃亡 小島秀夫が観た『ローガン』

(c)2017Twentieth Century Fox Film Corporation

 本作は『X-MEN』でも『ウルヴァリン』でもなく、まぎれもない『ローガン』という名の、1本の映画である。

 当たり前のことを言っていると思うだろうか? 1本の映画とは、ひとつの物語であり、当然、そこには始まりと終わりがある。『ローガン』にはそれがある。

『ローガン』は、21世紀の映画(特にヒーローが登場するエンタテインメントのジャンル映画)をめぐる状況下で、「1本の映画」として成立した特別な作品なのだ。殊更にそれを指摘しなければならないほどに、現代の映画をめぐる状況は変化している。

■21世紀型映画とは何か?

「スター・ウォーズ」「マーベル・シネマティック・ユニバース」「DCエクステンデッド・ユニバース」、キングコングやゴジラが共存する「モンスターバース」、トム・クルーズの『ザ・マミー』を皮切りに始まる「ユニバーサル・モンスターズ・ユニバース」など、ハリウッドの大作シリーズは、軒並み「終わらない」「永遠に続く」世界を志向している。いわゆる「シェアード・ユニバース」型と呼ばれる21世紀型の映画シリーズである。

 さらに、『スプリット』を公開したばかりのM・ナイト・シャマランまでもが、つい先日、『アンブレイカブル』と『スプリット』の続編の製作を発表した。ただの続きではなく、2作品を融合させた一つの続編を作ると言うのだ。鋭利な刃物で切断したかのような鮮やかな物語のエンディングを見せて我々の度肝を抜いてきたあの名手シャマランまでも、ユニバース化する=終わらない映画エンタテインメントに挑もうというのである。

 ウルヴァリンこと“ローガン”が登場するX-MENシリーズも、マーベルコミックの原作で、独自のユニバースを形成している。2000年にヒュー・ジャックマンがウルヴァリンを演じた『X-MEN』が発表されて以来、2017年の本作まで、足かけ17年、計9本の作品が作られている。このX-MENユニバースにおいて、不老不死の身体をもつウルヴァンリンは、「終わらない」「永遠に続く」という「シェアード・ユニバース」の世界観を体現する象徴的なキャラクターだ。

■映画が「摂取」できる時代

 キャラクターが世界(ユニバース)を永遠にループする。そのような原則で縛られた世界では、それを構成するひとつひとつの作品(映画)は、従来のようなオーソドックスな物語の構造が解体されてしまう。そこでは映画は、ユニバースを構成するピースと化し、物語の始まりも終わりも他のピースと接続するためのものになる。マンガ週刊誌の連載作品や、『ウォーキング・デッド』などのTVシリーズの各話と同じポジションを1本の映画が担うことになる。物語は全体の一部であり、常にクリフハンガーが用意され、次の物語への興味を持続させる役割をこなすことになるのだ。

 つまり、1本の映画には、もはや明確な始まりも終わりもなくなってしまう。

 これには映像をめぐる環境の激変も大いに関係しているだろう。ネットに接続した携帯端末やタブレットで、いつでもどこでも簡単に映像作品を見ることができる。フルコースのディナーではなく、サプリメントやドラッグの錠剤を飲むように“映画”を摂取できる時代なのだ。そこでは物語は断片化せざるを得ないし、刺激的にならざるを得ない。映像が溢れるネット環境で、人は映像の中毒になり、依存症になる。

 これが21世紀で求められているエンタテインメント映画の最新形態なのだ。

■「老い」という限界、居場所を奪われたヒーロー

『ローガン』は、ユニバースを構成する断片でありながら、1本の作品として独立するという離れ業をやってのけたのだ。これを特別と呼ばずしてなんと呼ぼう。それゆえに、この作品はずっと残る映画になった。終わらない、終われない物語を終わらせる、このアクロバットのおかげで、逆にマーベル史上、永遠に残る映画になった。

 クリエイターたちは、ローガン=ウルヴァリンというキャラクターにアクロバチックな仕掛けを施した。不老不死のウルヴァリンに、老いという限界を設定したのだ。
映画の冒頭で、ローガンは不老不死の能力が衰え、己の生きる意味(世界を救うために戦う)も見失っているさまが描かれる。能力が衰えたローガンは、リムジンの運転手としてメキシコの国境で、日々を送っている。老いてテレパスの能力をコントロールできなくなったプロフェッサーXも、一緒だ。この世界では、ミュータントの大半が死滅し、彼らは世界や時代に取り残されてしまっているのだ。ローガンにも、かつてのような居場所がない。スーパーヒーローが存在するユニバースが奪われてしまっているのだ。

 私は、かつて2008年に『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATORIOTS』(以下『MGS4』)で、老いたソリッド・スネークを登場させている。スネークは冒頭で「戦争は変わった」と呟く。スネークのコードネームもオールド・スネークに改められている。SOLIDから「S」と「I」、つまり「IS」=存在することを奪われたOLDスネークというわけだ。スネークもローガンも世界から居場所を奪われている。
存在を奪われた者の行き着くところ、それは彼の物語の終わりであり、彼が去る物語である。私は、『MGS4』で、その「終わり」を描き、なおかつMGSサーガが終わらないというアクロバットを試みた。

■運命の乗り越え方

『ローガン』も、同じ挑戦をしているように思われる。終わる=死ぬことを運命づけられた人間は、どのようにしてその運命に抗い、勝利しようとするのか。

『MGS2』では、子を成す能力のないソリダス・スネーク(ソリダスに限らず、クローンのスネークたちは遺伝情報を残せない)は、ミームによって、次の世代に自分の存在を託そうとする。『MGS3』ではザ・ボスからビッグボスへの存在の継承として、死という運命の超克を描いた。

『ローガン』も同じ考え方で、運命を乗り越えようとする。

 ローガンはある日、ローラという謎の少女をカナダとの国境近くにあるノースダコタまで送り届けて欲しい、という依頼を受ける(ローガンはメキシコの国境からカナダの国境を目指す。アメリカにはローガンの居場所はないとでもいうようだ)。ローラはある研究の成果として、超常的な能力を授かっていた。ローラを奪還しようとする組織の追撃を避け、命がけの戦いに挑む。

『ローガン』では『MGS』シリーズ同様に、主人公の限界(運命)は、次の世代へバトンを渡すことによって乗り越えられる(ボロボロになったローガンが、オールド・スネークのように、自分の首筋に注射器を刺すシーンまであるのだ!)

■『MGS』と『ローガン』 名前を受け継ぐ物語

『MGS』シリーズと『ローガン』との共通点は他にもある。スネークもローガンも、ともに本名を名乗らない点である。彼らは、我々と同じように、固有の名前(本名)を持った、この世界で唯一の存在であるのに、受け継ぐことが可能な「もう一つの名前」をもつ。そのため『MGS』シリーズでは、複数のスネークが登場し、次の世代へのバトンを継承することができた。個人の限界(運命)を超えて、ユニバースを持続させ、彼らの使命を継承させる仕掛けが「スネーク」という名前なのだ。それはただのコードネームではないのだ。

 ローガン=ウルヴァリンもまた、スネークの名前と同じ役目を果たす。ウルヴァリンはコードネームだが、ローガンも本名ではない。戦闘に身を投じていない時に名乗るのがローガンである。彼がかりそめの日常、かりそめの「人間」として振る舞うときの名前がローガンなのだ。今作のタイトルが『ウルヴァリン』ではなく『ローガン』なのは、彼が次世代に託そうとするバトンが、ただの戦闘の駒としての役割ではなく、一人の人間としてのバトンであることを意味している(『MGS2』の雷電が、最初は駒(ポーン)として扱われていたのに、人間ジャックとして目覚めることと同じだ)。

 ローガンという名前は、連想の翼をさらに広げてくれる。

『ウルヴァリン:SAMURAI』のサウンドトラックに「ローガンズ・ラン」という楽曲がある。これは1976年に公開されたディストピアSF映画のタイトルだ(邦題は『2300年未来への旅』)。この映画は、人口爆発を制御するために、ドームと呼ばれる都市で寿命を管理される人々を描いている。市民は30歳になるとある儀式を受け、永遠の存在となるとされていた。主人公はローガン5という名で呼ばれ、その儀式から逃れようとする者を処刑する「サンドマン」という名と役割を与えられている。このローガンも、本名を持たない。ローガン5はこの世界に疑問を持ち、逃亡を図る。30歳を超えた人間は存在しないと教えられていたローガンは、しかし都市の外でオールドマンと呼ばれるひとりの老人に出会う。都市という世界を維持するために、人々の生命が断絶されていたことを知ったローガンは、外部との繋がりや時間との繋がりを回復する。『ローガン』で描かれるローガンたちの逃亡(ローガンズ・ラン)は、まさにX-MENユニバースの外部への逃亡でもあり、ローガン=ウルヴァリンが本当の意味での永遠を獲得することなのだ。

■なぜ『ローガン』に『シェーン』が登場したのか?

 終わらないユニバースの中で、生を描くとはどういうことだろうか。物理的に永遠に生き続ける姿を描くことだろうか。そうではないだろう。死なないことと、生きていることとはイコールではない。死ぬことは終わりとイコールではない。次の世代に自分の存在の証、存在の痕跡を渡す。それが生き残る、ということだ。終わらない物語を終わらせることで、初めて生と死の本当の意味が見えてくる。

『ローガン』は、それを描くことに成功した。この作品は、911以後の「正義」の定義を書き換えた『ダークナイト』と同様に、シリーズに残る痕跡を刻んだ。

 この成功は、ヒュー・ジャックマンが17年間の長きにわたってウルヴァリンを演じ続けたからこそ可能になった。最初からやろうと思っても意図的には容易にはできないことであろう。

 ヒュー・ジャックマンという生身の役者の存在と同じく、『ローガン』に成功をもたらした要因は他にもある。それは、17年間にわたって築き上げてきたX-MENというユニバースそれ自体の存在である。

 前述の通り、2000年にブライアン・シンガー監督によって『X-MEN』が発表された。半ば偶然だろうが、ミレニアムの期待に人々が沸き立つ時代に、新人類が活躍する映画が公開されたのだ。これがユニバースの始まりである。翌年の911同時多発テロを経て、2003年に『X-MEN2』が公開、以降、『ファイナルディシジョン』(2006年)ウルヴァリンの単体作品である『ウルヴァリン』(2009年)、マシュー・ボーンによるプリクエルにしてシリーズ最高傑作の『ファースト・ジェネレーション』(2011年)、『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013年)、『フューチャー&パスト』(2014年)、『アポカリプス』(2016年)と製作され続けてきた。ミレニアムへの期待の直後の同時多発テロ。新世紀の未来も、アメリカの正義も単純には信じられなくなる価値観の揺らいだテロの時代。2002年の『スパイダーマン』では、ピーター・パーカーは自身の能力に悩み、2008年には従来のヒーロー像を大きく逆転させた『ダークナイト』が公開されている。終わらないテロとの戦いの時代に、ヒーローたちは未来だけでなく、自分の過去に立ち返り、存在意義と己の使命を省みるようになった。ヒーローの内面にも回帰するユニバースが生まれたのだ。こうして物語は「終わらない」だけでなく、「終われなく」なる。

 そんな時代に『ローガン』は、過去に回帰するだけでなく、未来にバトンを渡すという物語を描こうとしたのだ。それは実は、古典的な成長物語の構造を持っている。作中で名作『シェーン』の引用がなされるのはそのためだ(少女ローラが作中で見ている映画が『シェーン』である)。農民を守る流れ者のシェーンがローガンであり、ラストに去っていくシェーンに「シェーン、カムバック」と呼びかける少年ジョーイがローラである。シェーン(ローガン)は決して戻ってこない。しかし、ジョーイ(ローラ)の「カムバック」という叫びのこだまは、永遠に響き続ける。ジョーイの中にシェーンが宿り、彼の成長を予感させたように、ローラの中にローガンは永遠に残るのだ。

■最後の抵抗と挑戦

 この「カムバック」の響きは、映画の最後の抵抗であり、挑戦なのかもしれない。
なぜならゲームというエンタテインメントは、すでに映画的なストーリーテリングを超えて、プレイヤーの数だけ物語を発生させるというストーリーテリングを獲得しているからである。「終わらない」ことを志向するのではなく、「終われない」ことに自縛されるのでもなく、「終わる必要がない」物語形式が、ゲームにはもはや可能なのだ。さらにゲームは、映画以上に依存性を誘発できる。「終わらない」「依存型」のエンタテインメントがゲームであり、市場=ユーザーはそれを求めている。

 この先、映画というエンタテインメントはどこにいくのだろうか。再生(カムバック)なのか、新生なのか。あるいは、ゲームが切り開いた「終わらない」「依存型」の領域だろうか。ただひとつ言えるのは、(ヒュー・ジャックマンの)ローガンは終わったが、X-MENのユニバースは終わらないということだ。しかし、ローガンの残した爪痕は、ユニバースの表層だけでなく、奥深くにまで刻まれ、消えることはないだろう。その爪痕が新しい芽の土壌になることもあるだろう。あえて終わることによって、永遠に残る。

『ローガン』は、終われないマーベル・シネマティック・ユニバースの、独立したひとつの物語として、終わらない無限の宇宙(ユニバース)をその中に閉じ込めたのだ。

『LOGAN/ローガン』 6月1日(木) 全国ロードショー 20世紀フォックス映画配給 ?2017Twentieth Century Fox Film Corporation

(小島 秀夫)

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