小4の時小6の男子に決闘を申し込んだあの頃の自分にむらむら――犬山紙子「むらむら読書」

小4の時小6の男子に決闘を申し込んだあの頃の自分にむらむら――犬山紙子「むらむら読書」

©犬山紙子

 ずっと隠してきた、私にとって1番恥ずかしいこと。それは夫と2人の時にだけ自分のことを下の名前にちゃん付けで呼んでいること。こんな告白しなくていいならしたくない。

 でも古谷田奈月「風下の朱」を読んで私はこのことを書かなきゃなあと思った。この物語は自分の性とどう向き合うのか、主人公や野球部の女性を通じて多種多様に描かれていると受け取った、そして読後「じゃあ私自身性とどう向き合ってるんだろう」とぐるぐる考えてしまった。だからちょっと書いてみます。

 幼稚園児の頃、自分が「女」だと認めたくなくて自分のことを「僕ちゃん」と呼んでいました。男の子の「僕」に女の子の「ちゃん」。男でもないし女でもない。小学生になって「僕ちゃん」とは言わなくなったけど気持ちは変わらず。男子とたまに決闘したり、腕相撲しては男子を負かしていました。そして「年上の男子に勝ったらかっこいいじゃん」と小4の時小6の男子に決闘を申し込むも即座に腹を蹴られ撃沈。それ以降男子に決闘を挑むことはなくなったのです。あの頃の私は自分が「男」になりたかったと思っていたけど、今考えたらそれは違う。女でもなく男でもなく強い人間でいたかったけど、心構えができる前に「女」だと言われて戸惑っていたのです。「えーでも女って男より力も弱いし体格も小さいじゃん」って。

 比較的遅い、中学2年生で生理が来て安堵した時の気持ちも忘れません。好きな男子がいたからです、今度はまだ女じゃないということが嫌だったんです。そんな中通学電車で痴漢に日々あっていて頭が混乱。混乱したまま10代20代を過ごし、アラサーになると「女の幸せとは」セクハラを受けまくった。

 そんなこんなで私は結構「性」に振り回されて生きてきました。世間があまりにも私たちに「女」であることに意味を持たせてくるから。本当は淡々と自分の性と接したかった。それは環境が整っていないと難しいことなのかもしれないし、個人差もあるでしょう。

 今私はありがたいことに環境が整いつつあります。「女」であるまま強い人間になれることもわかったし、大好きな夫は私のこと褒める時「かっこいい」って言ってくれる。私はきっと夫の前で混乱していた少女時代をやり直しているんでしょう。あの時もちゃっとしてしまった気持ちを解きほぐしたいんだと思う。夫はそんな私を気持ち悪いと言わず受け止めてくれて、それだけで私は癒されている。そして今こうやって考えて私が女であることに整理がついてきた。読んで良かったです、心底。

(犬山 紙子/文學界 2019年6月号)

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