黒柳徹子が語る、昭和のテレビのとっておき秘話 #1

黒柳徹子が語る、昭和のテレビのとっておき秘話 #1

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黒柳徹子さんが語る昭和のテレビの話。若き日の現場から共演者とのエピソード、紅白司会の話など、とっておきのお話を伺った。
(出典:文藝春秋2016年1月号)

■女優になったきっかけは“人形劇”

 二〇一五年は戦後七十年という節目の年でした。私のように長年、放送の仕事に携わってきた者にとって、実はもう一つの節目でもありました。NHKが日本でラジオ放送を始めて九十年を迎えたのです。その記念すべき年に、私は文化功労者に選んでいただきました。記者会見では「テレビを文化だと認めてもらえたと思うと本当にうれしい」と話しましたが、あれは準備していたコメントではなく、本当にスッと口から出た実感でした。

 私は“テレビ女優第一号”と言われるように、テレビ放送が始まった一九五三年にNHKに入りました。ちょうど二十歳の頃です。

 それから六十二年間、ずっとテレビにかかわってきましたが、この仕事に携わるようになるのは、特別な目標があったわけではなく、実は偶然の積み重ねでした。

 NHKに入るまでは、オペラ歌手になりたいと思って音楽学校に通っていました。それに、女はお茶やお華を習って、お嫁にいくのが当たり前の時代。私もいずれ結婚して、お母さんになるのだろうと思っていました。

 そんな頃、たまたま音楽学校の帰りに、銀座の交詢社で子ども向けの人形劇を見かけ、あまりに素晴らしくて感動しました。子どもたちもよろこんでいて、「こういう人形劇ができて、絵本を上手に読んであげられるお母さんになろう」と思ったんです。

 それから家に帰って母に、どこで勉強すればいいかと相談すると、「新聞に出ているんじゃない?」と言われ、NHKがテレビ放送を始めるにあたって俳優を募集するという広告を見つけました。「ここなら人形劇や絵本の読み方を教えてくれるかもしれない」と思って応募しました。NHKはこの一日しか募集を出していないそうです。このとき六千人の受験者がいて残ったのは十三人。まわりには綺麗な人ばかりで、筆記試験もできなくて、合格したときは「嘘でしょ」と思いました。

 私の父は、NHK交響楽団のヴァイオリニストでした。俳優の試験を受けると言ったら、「みっともないからやめろ」と言われるのはわかっていました。だから黙って受験したのですが、最終面接で面接官に気付かれてしまった。その場で「お父さんに相談した?」と聞かれ、「父に言うと『そんな、みっともないことしちゃいけない』と言われるから黙って来ました。父はみっともないと思っても私は入りたいです」と答えたら爆笑されました。

 でも当時テレビは全国で八百六十六台しかなく、一台を五人で観ても、全国で五千人ほどしか視聴者がいなかった。テレビ女優といっても、「みっともない」と思われるような時代だったんです。

■テレビで生きる決心をするきっかけになった、ある人の言葉

 その後、私がテレビの世界でやっていこうと決心できたのは、ある方のお話がきっかけでした。

 NHKに入って間もない頃、テレビ放送の開始にあたって、米NBCから技術指導に来ていたテッド・アレグレッティさんという方の講演を聞いたのです。

「テレビジョンは、山奥の結婚式や知られざる戦争まで、多くの人に伝えることができる。だから世の中がよくなるか悪くなるかはテレビにかかっている。永久的な平和も、テレビをうまく使えば、きっと実現するものと自分は信じている」

 戦争の悲惨さが記憶に新しい頃ですから、アレグレッティさんがいった「永久的な平和」という言葉は胸に残りました。人形劇や絵本の読み方を習いに行った私も、このときにテレビの仕事は意義あるものだと思うようになったのです。

 NHKに入った最初の一年間は、ほとんど仕事がもらえませんでした。理由は、個性が強すぎたから。当時はラジオもテレビも、今から思うと、ずいぶんゆっくり話していました。私が早口で話すものですから、「そんなに早くしゃべるな」「個性を引っ込めろ」と毎日叱られていました。そう言われても、個性の引っ込め方がわからないので、同期生の中でいちばん個性がなさそうな人に台本を読んでもらって、その通りに口真似していたんです。

■“話し方”でバラエティーやドラマに次々と抜擢

 一九五四年に始まった「ヤン坊ニン坊トン坊」は、初めて大人が子どもの声を演じたラジオドラマで、私にとっても初の主演番組でした。NHK内でオーディションがあって、トン坊の役に合格したのです。その時、脚本をお書きになった飯沢匡(ただす)先生に「私の個性が邪魔だとよく言われますので、なるべく個性を引っ込めて一生懸命やります」と言ったら、飯沢先生は「君のその個性が欲しいからお願いしてるんで、そのままでいてください。直しちゃダメですよ」とおっしゃったんです。このときは本当にうれしかったですね。あの一言がなければ、私はNHKを辞めていたでしょう。

 ちょうど二年目に入った頃、世の中が急に「個性化時代」と言われるようになったのです。

 そうしたら、私の話し方は個性的で面白いと評価され、バラエティーやドラマに次々と抜擢されるようになります。テレビ人形劇「チロリン村とくるみの木」(五六年)、「ブーフーウー」(六〇年)、ラジオ・ホームドラマ「一丁目一番地」(五七年)、テレビドラマ「お父さんの季節」(五八年)。この「お父さんの季節」で私は渥美清さんと夫婦の役を演じました。

 テレビ放送が始まって数年の頃は、テレビ局の機材も現在とはまるで違いました。たとえば照明はドラム缶ほどの大きさがあり、高熱を発して、髪の薄い落語家さんの毛が縮れたという話があったほど(笑)。渥美さんと喫茶店にいるシーンでも、観葉植物から湯気が上がるんですよ。運ばれてきたサンドイッチも見る見るうちに干上がって反り返ってしまう。渥美さんは何食わぬ顔で食べていましたが、私は喉を通らなくて困りました。

 現在の照明は、もちろんそんな高熱は発しませんし、ドラム缶ほどあった照明も、ライター程度のコンパクトなものになっています。この六十年あまりで本当に技術は進歩しました。しかし番組の中身、ソフトのほうはどうかといえば、どこまで進歩したのか疑問です。みなさん努力されているとは思いますが、テレビの創成期を知る者としては、なんだか昔のほうが一生懸命だったようにも思いますね。

 今の人たちも頑張っているのに、その違いはなぜ生まれるのだろうと考えると、視聴率というものが関係しているように思います。昔は視聴率を意識しなかったから、現在のように「この内容ならウケるだろう」といった上から目線の感覚はなかった。自分たちが本気で面白いと思える番組を一生懸命につくれば、視聴者の方たちにもよろこんでもらえるという考えだけだった。自分たちも楽しみながら、しかし妥協を許さない姿勢が昔のテレビ局にはありました。そんな姿勢によって、長年みなさんの記憶に残る番組がつくれたのだと思います。

■森繁さんの「一回どう?」

 当時のテレビ界は、活気と自由さに満ちあふれ、数え上げればキリがないほどのスターが携わっていました。

 歴史上の人物みたいに感じますけどエノケン(榎本健一)さん、私が「母さん」と呼んでいた沢村貞子さん、クレイジーキャッツ、森光子さん、有島一郎さん、フランキー堺さん、淡路恵子さん、古今亭志ん朝さん、永六輔さん、坂本九ちゃん……。森繁久彌さんなど大先輩ですから、二十歳そこそこの私は「森繁先生」と呼ばなくてはいけないのに、初めから「森繁さん」でした。沢村貞子さんや森光子さんも本来なら「先生」です。

 それでも対等に口が利けたのは、みんな同じスタートラインから手をつないでヨーイドンと走りだしたという気持ちだったからです。これまでにないものを手探りでつくるのに、誰か一人でも威張ったらうまくいかない。新しい世界が開けるという意味で、浦賀沖に黒船が来たときと同じ感じかな、と思ったものです。

 初めてお会いした頃の森繁さんは、四十歳を過ぎたばかり。有名な「一回どう?」は当時から言われましたから半世紀以上もつづいたことになります。若い頃は、意味がわからなくて「何を一回なんだろう」と考えました。「たぶん、キスのことかな」と思ったら、それを見透かすようにある日「一回どう?」と言ったあとに「キスじゃありませんよ」をつけ足すんです。ああ、わかったと思って、こういう大人は気をつけなきゃいけないと本気で警戒しました(笑)。

 最後にお会いしたときもそうです。一緒に仕事が終わって外に出ると、森繁さんが車の後部座席に一人で座っていました。私がドアの天井に手をかけて「どうしたの?」と声をかけたら、私の腕をつかんで車のなかにぐーっと引っ張り込んだんです。九十歳を超えているとは思えないほど強い力で。私が「なぁに?」と尋ねたら、「ねぇ、一回どう?」って。「今度ね」と答えたら、「君ね、今度今度って、ずっと今度って言ってるよ」とものすごく強い力で手を握るんです。「だって、そうだもん」と答えたら、「君がクシャクシャになったら僕、嫌ですよ」とおっしゃるから、「私だって、嫌ですよ」と答えました(笑)。それが森繁さんとの別れになったんです。

 これだけの錚々たる方々と自然な関係でいられたのは、この時代にデビューしたからこそ。私は本当にラッキーでした。

■二十五歳で初めて紅白の司会

 実は五十七年前、当時の最年少となる二十五歳で紅組司会をしたのも私でした。一九五八年の第九回のことで、三波春夫さんやダークダックスが初出場でした。それまでの紅組司会といえば、丹下キヨ子さんや水の江滝子さんといったちょっと怖いおばさまばかり。まだ駆け出しの私が抜擢されたのは、テレビ放送開始から五年がたって、NHKが新しさを出そうと考えたせいかもしれません。

 あの頃はまだNHKホールはなくて、紅白は有楽町の東京宝塚劇場で開かれていました。歌手の皆さんがそれほど紅白を重要に思ってなかった時代で、大晦日の晩は同じ有楽町の日劇などに出演し、終わった後に宝塚劇場にと掛け持ちする方が多かったんです。

 ところが、その年はどういうわけか、紅白の会場が新宿のコマ劇場でした。日劇からは遠いし、掛け持ちする方がいつ到着するかもわかりません。おかげで、司会者は最悪の目に遭いました。

 歌う方がいないのに番組は始まりました。白組司会は経験豊富な高橋圭三さんでしたけど、お互い舞台の端と端にいて声も届きません。いまの紅白は、「これでもか」というほど大勢のスタッフが司会の周りにいて、正面の電光掲示板にはセリフが次々と流れるくらいサポートしていますけど、そのときはもう、この世に独りぼっちみたいでした。

 そのうち外からウウ〜〜〜とサイレンが聞こえてくる。パトカーに先導されて出演者を乗せた車が到着したのです。劇場の入り口から「女来ました! 女ア〜」って声が響く。私が「誰が来たんですか?」と尋ねても「それはわかんねぇ」。とっさに客席に向かって「ただいま到着しました。ちょっとお待ちください」なんて場をつないだら、丸髷を結ってお引きずりの着物姿で誰か入ってくる。でも名前がわからないんです(笑)。仕方なく「次はこの方です、どうぞ!」とステージに送り出しました。あとでディレクターに「どなたですか?」と尋ねるような調子です。

「男来ました!」「女来ました!」と到着するたびに歌うのです。到着が途切れると、ディレクターに「女来てないから、何か言って!」と命じられる。台本もへちまもあったものじゃありません。いまだったら面白い話もできますけど、二十五歳では客席の皆さんを笑わせる話も思いつきません。終わり頃になってやっと歌手の人数も増えて賑やかになり、紅組の勝利で幕を閉じました。

 歌手がいない紅白歌合戦の司会なんて、経験した人はいないでしょう。あとでNHKの芸能局長に「おまえ、いい度胸してんな」と褒められましたけど、今思い出しても、悪夢のような紅白でした。

◆#2に続きます

出典:文藝春秋2016年1月号

黒柳徹子(女優)

(黒柳 徹子)

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