松尾諭「拾われた男」 #24「ついに地獄のキスシーンがはじまる」

松尾諭「拾われた男」 #24「ついに地獄のキスシーンがはじまる」

松尾諭さん出演情報 BSテレ東『やじ×きた 元祖・東海道中膝栗毛』 毎週(土)21時〜放送 ©BSテレ東

【前回のあらすじ】

 とある映画の撮影現場で出会った憧れの映画監督と意気投合し、彼の作品への出演が決まり、嬉々として台本を読むと役者人生で初のキスシーンがある事に激しく動揺し、キスの事ばかり考えて現場に行くと、それまで温厚だった監督が烈火の如く怒り出した。そこからキスに至るまでのカットを何度も何度も、罵詈雑言を浴びながらに繰り返し、精根が尽き果てた事すら忘れて、ふいに心と身体がふわりと軽くなったように感じたテイク23。

◆ ◆ ◆

「カット!OK!」

 スタートからカットまでの記憶はなく、監督の張りのある「OK」を聞いてその場にへたり込みそうになった。だが撮影が終わったわけではない。現場はすぐに次のカットの準備に動き出した。マキコの唇を奪うカットである。

 監督からは、カラオケを歌いながらマキコにちょっかいを出し、歌い終わり、席に戻ると見せかけて、不意に振り向いて勢いよく彼女の唇を奪うように指示された。動きの確認をしてテストへと移る。ピンク映画で多くの唇を奪った経験のある大先輩からは事前に、テストではキスはしてもしなくてもいいと聞いていたので、キスはしなかった。テストは監督の怒声を聞く事なく一度で終わり、監督は熱を込めて声を飛ばした。

「よし!次、本テス!!」

 本テスと言うのは、読んで字のごとく、本番のようなテストといった意味なのだが、そこで思考がつまづいた。テストではキスはしないが、本テスではどうなのだろうかと。本番のようにするのなら当然するべきなのだろうが、本番のようでもテストである以上、やはりキスはしないのではないのだろうか、そうこう悩むうちにスタートの声がかかり、逡巡しながらもそれまで通りカラオケを歌い、曲が終わって席へ戻ると見せかけて勢いよく振り返ってマキコの唇に顔を寄せ、テストよりも間近の距離で止めた。結局のところしなかったと言うよりできなかった。

「バカヤロー!!!」

 再び地獄の扉が開いた。一緒に楽屋で映画の話をした気の良いおじさんは最早にどこかへ行き、すっかり鬼と化した監督は言い訳をする根性なしの役者に「本テスなんだからキスするのが当たり前」などと言いながら阿保だの馬鹿だのと罵倒の言葉を吐きに吐き、怒りの治らないままに「次、本番!」と投げ捨てるように号令をかけた。

 その前のカットですでに汗だくになっているところに、またしても監督の雷に打たれ、さらに、美人女優にキスをするという重圧で、汗腺は馬鹿になっていた。本番前の直しに来たメイクさんが、その止まらない汗に手を焼いていると「そんなやつの直しなんかしなくていいよ!」とまたも監督の怒声が飛んだ。

■「遠慮せず思い切ってやってくださいね」とマキコ

 頭の先からつま先まで水から上がったように濡れたまま、本番のカチンコが打たれた。一生懸命にマキコの髪や腕を撫でながら全身全霊でカラオケを歌いきり、席へ戻ると見せかけて振り向きざま、勢いよく彼女の唇を目指した。が、勢い余って彼女の顔を通り過ぎてしまい、回り過ぎた体がバランスを失った。それでもなんとか持ち直し、再び彼女の唇へと向かったが、勢いはなくなり、唇の皮と皮とがなんとか触れる程度の、とても中途半端なキスになってしまった。

「バカヤロー!!!」

 監督の怒号が響いた。

 勢いよく振り返り、小さな顔の小さな唇を狙うのは簡単ではなかった。しかも緊張のせいで身体が言うことを聞かないものだから、本番2テイク目はまたも行き過ぎ、鼻の横あたりにキスをし、テイク3は回転が足らず、妙な体勢でおかしなキスをした。その都度監督に罵られた。

「遠慮せず思い切ってやってくださいね」

 彼女は恐らく思いやりを持ってそう言ったのだろうが、その場にあっては彼女の心の声が否定的な意味にしか聞こえなかった。

『何回やるのよ?』

『どんくさいわね』

『あんたみたいな汗でビショビショのデブと何回もキスしたくないのよ!』

『気持ち悪い!!!』

 泣きそうになりながら迎えたテイク4。折れそうになった心で振り返った、尻切れ蜻蛉のようなキスは、唇にすら届かなかった。もはや監督の怒号すら飛ばず、現場には冷たい空気が流れていた。苦しくて逃げ出したかった。

 妻にキスシーンがあると話した時「あんな綺麗な人とキスできていい仕事だね」と軽口を言われたが、このどこがいい仕事なものか。罵られ汗まみれになって、なぜ一人だけこんな苦しい思いをしなければならないのか、そう思うと、ついには腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってきた。

 テイク5。カラオケを歌ううちに、腹の底からどんどんと力が湧いてきた。歌い終わってマイクを置いた。

『ぶん殴ってやる』

 そんな思いで放たれたキスは、まっすぐに彼女の唇へと吸い込まれた。

■怒りに任せたキスの行方は……

 当たった。思わず歓声を上げたくなるのをぐっと堪えてカットの声を待った。

「カット」

 監督は残念そうに言った。

「ダメだよ目つむっちゃ」

 何の事かしばらくわからなかったが、監督は主演女優さんに、キスをされた時に彼女が目を閉じていた事を言ったのだった。たしかに台本のト書きにもキスをされた瞬間「目を見開き」と書いてあったのだが、きっと彼女はものすごい勢いで迫り来る、拳のような唇に思わず目を閉じてしまったのだろう。

 テイク6、見事に的中。だが、監督はまたも不満気なカットの声を発した。今度は彼女の目の見開きかたに注文をつけた。

 テイク7、命中。気持ちにも余裕ができたのか、唇から彼女の唇の柔らかさや温かさが伝わった。監督は少しキレのいいカットをかけたが、少し間をおいて、悪くはなかったが、押さえでもう一回だけやろうと言った。

 テイク8。苦しかったキスシーンは、もはや唇の感触を味わえるようにすらなり、最後だから思い切り味わってやろうと唇を狙うと、ほんのわずかに逸れてしまった。

「オーケー!!!」

 監督のその日一番の声を聞いて、唇が的を外した事がバレてなかった事にほっとした。すると、そのキスを最も近くで見ていたカメラマンが言った。

「お前、いまちゃんと当たらなかっただろ?」

 バレた。

「バカヤローーーーー!!!!」

 怒られた事よりも、下心を出してしまった事が恥ずかしかった。

 9テイク目にしてようやくそのカットはOKとなった。身体がとても軽くなった。お次は、マキコがいきなりキスをした男を突き飛ばし、男はカウンターに激しく身体を打ち付ける、というカットだった。監督はそこで、カウンターに背中からぶつかって、さらにカウンターに乗っているビール瓶を手前に落として欲しいが、できるか、と聞いた。カウンターにぶつかって、その勢いで奥に瓶が落ちるなら分かるが、手前に落とすのは簡単な事ではなかったが、たいした根拠もなく「できます」と返事した。

 テストで軽く動きを確認してから迎えた本番。マキコに「何すんのよ!」と両手で強く胸を突き飛ばされ、カウンターに激しく腰を撃ちつける、その瞬間に、右手でちょこっとカウンターの上のビール瓶を手前に倒した。ドタンやガシャンの音が現場に響く。

「オッケーー!!!!」

 監督はキスシーンの時よりも張りのある声を発した。

「すごいなお前、やっぱり持ってるな」

 そう言って差した床には、ビール瓶が塔のように割れて逆さまに突き立っていた。

■「とてもいい経験したわよ」

 そこで少し遅めの昼休憩となり、待機場所でロケ弁を掻き込みタバコを吸っていると、ママ役の大ベテラン女優さんが言った。

「あなた幸せね。今日日あんなに監督に怒って粘ってもらえる現場なんてないわよ」

 昔の映画の現場は怒号が飛び交い、彼女もよく怒られ、何度も「もう一回」と粘られたそうだが、最近はそんな事がなく物足りないと言った。

「とてもいい経験したわよ」

 羨ましそうに言った彼女も、昼食後の撮影で監督の「もういっかい」を十回ほど浴びていた。

 数ヶ月後、映画が完成して試写会へ行った。自分の出ているシーンは恥ずかしくて直視はできなかったが、思っていた以上に汗でびしょびしょだった。試写が終わって監督に挨拶すると、監督は満面の笑みで褒めてくれた。

「お前、よかったぞ」

 怒られてばかりの人生で、数少ない褒められた経験だった。それからは、妻以外からは怒られる事も褒めらる事もない生活を送る事になるが、数年後、褒められた覚えなんてほとんどない父から、涙ながらに褒められたというのはまた別のお話で。

つづく

(松尾 諭)

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