「拾われた男」松尾諭  #4  「下井草の事故物件で自分の悲鳴に泣いた日」

「拾われた男」松尾諭  #4  「下井草の事故物件で自分の悲鳴に泣いた日」

(c)NHK

 おばけを見たことは一度もなかったけれど、子供の頃からとても怖がりだった。

 小学生の時、ゲゲゲの鬼太郎が実在するという話が校内を賑わした。鬼太郎は日本全国津々浦々に姿を変えて出没し、尼崎には爪が異様に長い鬼のような形相の老婆に化けて、夕方になると労災病院の裏の墓地に現れるとの事だった。病院と墓地の間の道は、避けては通れぬ通学ルートで、いつも恐ろしくて墓地の前を駆け抜けて帰った。ある日の登校時、その墓地の角のゴミ捨て場に小学生たちが群がっていた。そこには大量のビニ本と、しぼんだ小さな風船のようなものが数え切れない程捨ててあった。当時はその風船がなんなのか分からなかったが、汚らしく禍々しいものに見え、なんだか恐ろしく感じた。そしてそれは鬼太郎が捨てたという事で落ち着いた。

■中野の不動産屋で「事故物件です」

 北青山のアパートを出るべく、友人に勧められた中野の不動産屋へ。事情を理解してくれた不動産屋の女性は、すぐに入居できる物件をいくつも提示してくれたが、どれも微妙に条件からずれている、と言うより家賃が高かった。ちなみに条件は中野駅周辺で風呂トイレ付き、家賃が4万円前後だったが、少々都合がよすぎたようだ。やはりすぐに見つかるものではないのかと諦めかけたとき、壁に貼ってある物件情報に目が止まった。築十年27平米1DK風呂トイレ別エアコン完備南向き角部屋、そして賃料7万5千円に斜線がひかれ5万円と訂正されていた。あまりにも条件が良すぎるので問うてみたところ、訳ありの物件だと言う。訳あり、というのは、

「事故物件です」

 聞くと、そこに住んでいた若い女性が、数年前にその部屋で病死したのだそうだ。詳しいことはよく分からないが、突然死だったらしい。ただし、今は不動産屋の知人の同業者の方が1年近くそこに住んでおり、おかしな事はなにも起こっていないのだそうだ。

 とは言え若い女性が、アパートの一室でひっそりと死を遂げた、そんな恐ろしい部屋に住む事ができるような人間ではなかったはずなのに、しかも内見もせずに即決したのは、杉田へのあてつけがあったからなのか、それとも家賃が2万5千円も安い事に目がくらんだ関西人の性からか。 

 今住んでる人が転居する一週間後にすぐ入居できるようにお願いし、室内クリーニングをなしにしてもらう代わりに敷金をタダにしてもらった。

 引越すまでの一週間のうちに、杉田には悟られぬようにこっそりと荷造りをして、内見はできなかったが、外観だけでも、と新居の下見に行った。西武新宿線の下井草駅徒歩3分とあったが、実際には10分弱の場所にあった。アパートとアパートの間の奥まったところにそのアパートはあった。名前はスカイハイツ、二階建てである。建物に囲まれてはいるものの、ベランダは南向きで、日照も悪くはなさそうだ。あわよくば住んでる方に中を見せてもらおうかと思ったが、残念ながら留守のようだった。

 翌週、不動産屋から鍵をもらい、その足で部屋を見に行った。元住人が不動産屋という事もあってか、部屋はとてもきれいに掃除されていた。クリーニングが入っていないせいで、その特有の真新しさを感じさせる匂いはなかったが、少し人のぬくもりが残っているかのようでホッとした。陽が気持ちよく差し込み、窓を開ければ風が優しく通り抜けて行った。文句のつけようがない素晴らしい物件だったが、ひとつだけ気になることがあった。この部屋には、鏡がひとつもなかった。なかったと言うより、本来あったであろう場所から取り外された形跡があるのだ。シンク脇の壁、トイレ、そして風呂場、鏡があったと思われる場所にはうっすらと長方形の跡が残っているだけだった。

■彼女はどうして亡くなったのか、どうして鏡が取り外されていたのか

 一人きりの生活は快適ではあったが、やはり夜は寂しかった。そして本当は怖かった。だからテレビも照明も点けたまま毎晩を過ごした。霊感は全くなかったけれど、すこしでも怖い想像をすると一睡もできない夜もあった。気付けば独言も増えていた。特にトイレで用を足す時はずっと喋っていた。

 そんなある日の深夜、ウトウトしていると、何かが走り回るような音が部屋中に響いた。もしかしたら夢を見たのかとも思ったが、子供が駆け回るようなその音は生々しく耳にこびりつき、もしかしたら深夜に帰宅して朝早くに出かける毎日を送る隣人が子供を連れてきたのかとも思ったが、その音はたしかにこの部屋の内から聞こえた。目を強くつぶり、何かがいる、という事を否定するように努めたが、そんな抵抗も虚しく再びけたたましく音が室中を駆け巡った。やはり間違いなく何かがこの部屋にいる、しかし動けなかった。身近にいるその何かの存在を確認することがとてつもなく恐ろしかった。

 数年前にこの部屋で女性が息を引き取った事、彼女はどうして亡くなったのか、どうして鏡が取り外されていたのか、どうして子供の足音なのか。それらを考えれば考えるほど体中の毛穴が開き、恐怖にくいしばる奥歯がキシキシと小さな悲鳴をあげた。そして何かはまた駆けた。次の瞬間、恐怖の限界を感じた本能が反射的に、雄叫びとも悲鳴ともとれるような大声を上げた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 あまりの大音声に自分自身も驚いて、気付けば泣いていた。泣いている事に気づくと涙が止まらなくなった。一人きりの寂しさと怖さが堰を切ったように。どうしてこんなに怖がりなんだ、どうしてこんな部屋を借りたんだ、どうして東京に出てきたんだ。情けなくて悔しくて、怖くて寂しくて不安で、色んな感情が大声と一緒に溢れ出た。そして眠れぬ夜が明けた。

■そしてついに彼が姿を現した

 翌日は友人の家に泊まり、その翌日は彼を家に泊めた。何かは現れなかった。次の日、新宿の神社で御札とお守りを買った。その日の夜、そう遅くない時間にまたあいつが駆け回りだした。前回気が付かなかったが、音は天井から聞こえてくる。二階建ての二階の部屋の天井から聞こえる足音、恐怖は一層高まり、またも動けなくなった。しかしこの時はその恐怖以上に怒りと悔しさが湧き上がった。

「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 近所迷惑も考えずに体全体から発した大声が功を奏したのか、音はピタリと止んだ。とは言え心は休まらず、また眠れない夜を過ごす覚悟をした。それから数時間後、再び緊張が走った。それはこれまでのような大きな足音ではなく、小さなカタカタと言う音だった。音は押入れの上の天袋から聞こえるようで、恐る恐るそちらを見てみると、天袋の戸が小刻みに震え、少しずつ戸が開かれようとしていた。そしてついに彼が姿を現した。

 それは全長20センチほどの大きな鼠だった。彼はこちらを気にする様子もなく、長押にそって部屋を一周してまた天袋の中に戻って行った。その間こちらは、相手がこの世のものだったという安堵よりも、我が家に巣食う小さな猛獣だった事に別の恐怖を感じ、身動きもできず、声を出すどころか呼吸さえ止めたほどだった。そして眠れぬ夜が明けた。天袋の奥を確認してみると、天井部分に大きな裂け目ができていた。すぐさま近所のホームセンターに行き、毒餌や忌避剤を片っ端から買い込んで、天井裏に放り込み、ベニヤで裂け目を塞いだ。彼がその後、どこかへ逃げたのか、天井裏で朽ち果てたのかは知る由もないが、それっきり現れる事はなかった。

 脅威は去ったが、怖がりが治ったわけではなく、相変わらずテレビも照明も点けたまま眠ってはいたが、その後この部屋で、本当の地獄を見ることになるのはまた別のお話で。

(松尾 諭)

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