小島秀夫が観た『キングコング』

小島秀夫が観た『キングコング』

『キングコング:髑髏島の巨神』 ©2017 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC.,LEGENDARY PICTURES PRODUCTIONS,LLC AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC.ALL RIGHTS RESERVED

 ジョーダン・ボート=ロバーツ監督の『キングコング:髑髏島の巨神』は、これまで試みられてきたキングコング映画のリメイクでも、リブートでも、ましてや続編でもない傑作だった。映画のビジュアルイメージや表層は、『地獄の黙示録』と『キングコング』のミックスだが、実は大胆で野心的な、まったく新しい『キングコング』映画だった。この作品は、キングコング映画を成立させている条件を満たしていない。あえてその条件を外している。だからこそ、傑作になったのだ。

■“驚きの現出”を目指した過去の名作たち

 初期の映画の原型は、アクションとテクノロジーによって成立していた。これは現在に至るまで変わっていない構造である。

 ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』がそうだったように、そもそも映画は誰も見たこともないものを見せるものだった。その驚きを現出させるために、常に最新のテクノロジーが使われる。一方で、キートンやチャップリンのように、生身の俳優によるアクションは、映画のストーリーテリングや驚きを見せるための柱だった(たとえば『マッドマックス:フューリーロード(怒りのデス・ロード)』は、最新のテクノロジーを駆使しながら、セリフも極力少なくし、アクション主体で物語を構成するという、映画の原型への回帰を志向した集大成的傑作だった)。

 1933年に製作された『キングコング』も、テクノロジーとアクションによって成立している。

 誰も見たことのない巨大なモンスターのアクションを、ストップモーションアニメという映画のテクノロジーで見せたのだ。この驚異の映像を見たレイ・ハリーハウゼンや日本の特撮の父である円谷英二が、モンスターメーカーとして映画づくりをこころざしたのは有名である(ハリーハウゼンは、高校時代からの親友だったSF作家のレイ・ブラッドベリとともに特撮映画『原子怪獣現わる』を製作し、これはのちの『ゴジラ』に多大な影響を与えている)。

『キングコング』をひとつの出発点として、特撮怪獣映画、いや全てのSF・ファンタジー映画の技術は更新され、磨き上げられたのだ。

 その後の『キングコング』のリメイクも例外ではない。1976年のジョン・ギラーミン版では、当時はSFXと呼ばれた、アニマトロニクスや実物大のコングのプロップ、着ぐるみ(リック・ベイカーがスーツ・アクターをつとめた)などの技術が使われた。

 2005年のピーター・ジャクソン版では、いわゆるVFX(モーション・キャプチャーやCG)が多用された。オリジナル版の『キングコング』を観て映画を志したピーター・ジャクソンならではの作品で、オリジナル版同様に、1930年代が舞台になっている。

 ともに映画の原型に基づいて、新しいテクノロジーを駆使することでビジュアルのレベルアップを図っている。

■“新しいテクノロジー”の不在は“確信犯的”

 しかし今回の『キングコング』にはそれがない。新しい技術的手法をプラスしてはいない。もちろん、モーション・キャプチャーと手打ちのアニメーションという既存のテクノロジーによってILMがクリエイトしたコングの表現は素晴らしい。だが、最新のテクノロジーでコングを見せることは今作の目的ではない。

 アイディアがなかったからか? 技術的に停滞してしまっているからか? そうではない。ジョーダン監督はそれを確信犯的にやっている。

 これまでのコングが、1933年版を親として進化の系統樹を進んだのに対して、今回のコングは別の進化を辿ろうとしている。それはストーリーとコングが生息する髑髏島の世界観を見ればわかる。テクノロジーの革新ではなく、物語の革新によって新しいコングを生み出したのだ。

■過去3作に共通する“コングの末路”

 1933年版のコングは世界大恐慌の末期が舞台である。本作がヒットしたのは、時代を覆っていた経済的不安のせいだとも言われている。不安を克服するためにエンタテインメントが求められたのだ、と。実際にストーリーもメタ的である。映画監督が新作の撮影のために、無名の女優とともに髑髏島に向かう。そこで巨大な猿、キングコングを見つける。撮影を諦めた監督は、コングをニューヨークに連れて帰り、見世物興行をして一山当てようとするのだ。見世物にされたコングは脱走するが、殺されてしまう。コングはビジネスとしてのエンタテインメントのメタファーである。死んでしまう、つまり消費されてしまうのだ。

 1976年のギラーミン版はどうか。時代は2度のオイルショックのはざまである。石油採掘のために島に向かった石油会社の社員がコングを発見する。しかし油田の石油が商品にならなかったのでコングを連れて帰る。見世物にされたコングは殺される。

 2005年のピーター・ジャクソン版は、オリジナルと同様の時代設定(1930年代)にしたリメイクなので、コングは同じ末路をたどる。

 過去の3作では、未開の地から資本主義の都に連れてこられた見世物(=ビジネス)のコングは消費され、死んでしまうのである。髑髏島では神として生贄を捧げられていたコングは、文明の地で生贄にされる。なぜか? 経済的に不安定で社会不安に満ちた文明の地で停滞した時間を更新し、安定させるためである。

■“最新コング”は“最初から最後まで怪物”

 3度目のリメイクである今作には、この構図がない。

 オリジナル版を含めた過去作で、コングは神と見なされて生贄を捧げられる存在である。今作でもコングは髑髏島における神と呼ばれているが、生贄を要求する神ではない。むしろ生態系の覇者である頂点捕食者(トップレベル・プレデター)として君臨している。神は人間のつくったフィクションだが、頂点捕食者は地球の生態系が選んだ存在だ。だから今作のコングは生贄も必要としないし、人間の女性を巡って三角関係に陥ることもない。これまでのコング映画は、異なった文明の神を、その座から引きずりおろし、西洋の資本主義文明によって制圧する物語だった。コング(神)を人間(文明)の側に堕落させ、調教する物語だった。今作のコングは、最初から最後まで怪物(モンスター)として描かれる。これが「キングコング映画」としての最大で最高のアイディアだ。こんな怪獣像に日本の特撮怪獣映画の影響を見ることができるだろう。例えば『モスラ』や『大巨獣ガッパ』では、未開の島から都市にやってきた怪獣は、生贄にされることなく島に帰っていく。

 コングが文明社会に召喚されるのではなく、文明社会とは異なる自然がむき出しになった髑髏島に、人間が放りこまれる。無力な人間たちは、コングと戦うのではなく、生態系そのものと戦い、サバイバルし、脱出する。コングという異文化を生贄とし、西洋文明の延命をはかるのではない。今作には、過去の『キングコング』が描いたような生贄はいないのだ。

 生贄とは未知なるもののことでもある。未知なるものを征服し調教する。あるいは未知なる異文化と対比することで、文明風刺をすることも可能だ。そのことで西洋文明は活性化する。かつての帝国主義と植民地の関係そのものである。

■グーグル時代に映画で畏怖させるということ

 SFの父とも言えるコナン・ドイルの『ロスト・ワールド(失われた世界)』やジュール・ヴェルヌの『神秘の島』『地底旅行』は、地球上の未開の場所を舞台にした作品を発表している。これらの作品が書かれたのは19世紀の末から20世紀の初頭で、まだ世界に未知の領域が存在していたからこそ説得力を持っていた。

 オリジナルもギラーミン版もピーター・ジャクソン版も、未開の島からコングを連れてきた。今作でも人間は未知の島でコングと遭遇するが、コングは島から連れ出されない。作中の設定こそ、アメリカ軍がベトナム戦争からの撤退を宣言した1973年だが、映画を見ている我々は2017年に生きている。今やあらゆるものがネットに繋がって検索可能になり、Google Earthは地球を覆い尽くそうとしている。そんな状況下で、あえて未知への畏怖を映画で示そうとしたのが今作なのだ。

 未知なるものがやってきて文明やシステムを活性化するのではない。未知なる場所に出かけて行って、個人が活性化され更新される。それは現代の映画が持っている機能そのものだ。

 ジョーダン・ボート=ロバーツは、キングコングという怪獣を新たな進化の系統樹に位置付けることに成功した。と同時に、映画をアップデイトさせたのだ。これは怪獣映画=エンタテインメントの再定義であり、新たな時代の映画の再発見でもある。

■“ハリウッドの目論見”を背負ったジョーダン監督

 この映画には、もうひとつの隠れた挑戦がある。それはジョーダン監督のポジションそのものだ。ハリウッドは業界の活性化のために様々な試みをしている。そのひとつが前回の『ローガン』の記事で触れたように、マーベルやDCによるフランチャイズのユニバーサル戦略である。本作も2014年の『GODZILLA ゴジラ』に続く、ワーナー・ブラザースの「モンスター・バース」の第2弾という位置付けだ。さらに海外作品や過去作のリメイクや、才能ある新人監督の積極的起用などが、戦略としてあげられる。

 本作を撮るまで長編映画の実績が1本しかなかったインディーズ出身のジョーダン監督は、これらの目論見を背負わされた。西洋文明を活性化させるためにニューヨークに連れてこられたキングコングと同じである。これまで多くの監督が、同じ役目を期待されたが、すべてが成功を収めているわけではない。直近では、『スター・ウォーズ』のハン・ソロ主役のスピンオフ作品を手がけていたフィル・ロード&クリストファー・ミラー監督の中途降板が発表された。フィル&クリスは、傑作『LEGO?ムービー』や『くもりときどきミートボール』など作家性の強い作品で評価された監督である。「クリエイティブの相違」を理由に『アントマン』から降板したエドガー・ライト監督の例や、デビュー作『クロニクル』が評価され、マーベルの『ファンタスティック・フォー』に抜擢され、完成にこぎつけたが制作過程で疲弊してしまったジョシュ・トランク監督など、幸せな結末を迎えられなかったケースはいくつもある。

 一方では、長編2作目ながら『ワンダーウーマン』を大ヒットさせた女性監督パティ・ジェンキンス(『モンスター』)のような例もあるのだから、才能ある新人の起用は止められない。

■ハリウッドの生態系に取り込まれない「成功」

 映画業界に限らず、才能ある新人にチャンスを与えるのは、今に始まったことではないし、当然のことだ。しかし、現在のハリウッドではいささか事情が違う。フランチャイズ戦略による映画のユニバース化は、作品の量産が必然であり、それが才能ある新人監督の取り合いを加速させているのだ。才能を育てるというよりも、消費するという傾向になることは否定できないだろう。

 現在でも『スパイダーマン:ホームカミング』にジョン・ワッツ(『コップ・カー』)、『ジュラシック・ワールド』続編にJ・A・バヨナ(『インポッシブル』『怪物はささやく』)など、気鋭の監督が起用されている。彼らの作品がどんな結果を生むか注目したいが、いずれにせよ、ハリウッドが業界の延命と映画の活性化を目指す限り、この流れは止まらないだろう。

 そこには当然ながら光と影がある。ニューヨークのキングコングのようにハリウッドに消費されてボロボロになる者、成功をつかんで次のステップを踏む者。

 ジョーダン・ボート=ロバーツ監督は、現在のハリウッドのシステムに消費されずに、作品を成功させた。髑髏島にとどまり、ニューヨークに来なかったキングコングは、彼自身のことでもあるのだ。彼はハリウッドの生態系に取り込まれず、髑髏島というインディーズの生態系を生かすことに成功したのである。

INFORMATION

『キングコング:髑髏島の巨神』
7月19日リリース/デジタルレンタル配信開始
【初回仕様】ブルーレイ&DVDセット(2枚組/デジタルコピー付)¥3,990
デジタルセル先行配信中
ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント

(小島 秀夫)

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