病的なまでに「癒し」を求められる時代……音楽は何を失ってしまったのか?

病的なまでに「癒し」を求められる時代……音楽は何を失ってしまったのか?

『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』(岡田暁生 著)

 クラシックやジャズ、ゲーム音楽が好きな私にとって、iTunesは生活必需品である。過去の名盤に格安でアクセスできるのは本当にありがたい――とは言うものの、なけなしの小遣いでCDを買っていた時代のほうが、音楽をもっと集中して聴いていた気もする。良い音楽はネットに無数にあるのに、今や音楽を聴く本当の快楽を失ってしまったようだ……。

 そんなことを考えながら本書を手にとった。著者が言うように、インターネットの普及とともに音楽の創作・受容環境は一変した。それは百数十年前の録音メディアの登場にも匹敵する、まさに革命的な変化である。しかし、アナログ時代の記憶を手放さない著者は、その変化のあり方に強い違和感を抱く。

 それはボカロやAIに対してだけではない。二一世紀の音楽はデジタル環境に溶け込んで快適なBGMに変わり、リスナーも病的なまでに「癒し」を求めるようになった。癒し系音楽は一様にスローテンポで、攻撃的な不協和音もなく、「金太郎飴」のように発展のない音が周期的に流れるばかりだ(それはオカルト的な疑似科学とも親和性が高い)。この画一化された「音」が、まるで健康サプリのように広く受容されている。

 その一方、大きな世界像を背負ったカリスマ音楽家はもはやいなくなり、過去の大指揮者も高品質の癒し系音楽「アダージョ・カラヤン」に回収されてしまった。音楽を聴くのに能動的な主体性も集中力も要らない、身構えずに環境音として聞き流し、ときにうっとりすればいい――そんな受動的な気分がすっかり人心に染みわたっている。だが、それは著者が言うように、『一九八四年』のような管理社会の悪夢への第一歩だろう。

 この点で、本書は音楽論であるだけでなく、文明論であり人間論でもある。音楽のサプリ化を批判するあまり、ところどころ「音楽とはパターン破りだ」というわかりやすい主張に傾くのは気になるが(グレン・グールドが言ったように、作曲家や演奏家の創意は横紙破りよりも精妙さに宿るのではないか?)、モーツァルトやカーゲル、マイルス・デイヴィスから、現代のテオドール・クルレンツィス、ティグラン・ハマシアンらにまで目配りしながら、音楽のもつ「ヤバさ」をジャンル横断的に論じる著者の書きぶりは、小気味よくシャープである。

 思うに、二一世紀には〈聴く主体〉を自覚的にセットアップしなければ、人生を揺さぶる真に豊かな音楽体験は得られないだろう。環境への全面降伏は耳を殺し、音楽を殺す。だからこそ、著者はAIの作るウェルメイドな音に呑み込まれる前に、未知の「規格外」の音楽を探そうと読者を誘う。このゲリラ戦のすすめは、二一世紀社会そのものに対する批評にほかならない。

おかだあけお/1960年、京都府生まれ。音楽学者。京都大学人文科学研究所教授。専門は19世紀から20世紀初頭の西洋音楽史。2009年『音楽の聴き方』で吉田秀和賞。『西洋音楽史』など。

ふくしまりょうた/1981年、京都府生まれ。文芸評論家。立教大学文学部准教授。『復興文化論』でサントリー学芸賞を受賞。

(/週刊文春 2019年6月27日号)

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