「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図

「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図

『慟哭の谷』文春文庫 650円+税

「マユ。マユはどこだ!」8人の死者を出したヒグマによる惨劇「三毛別事件」の幕明け から続く

 “三毛別ヒグマ事件”を扱った傑作ノンフィクション『 羆嵐 』吉村昭(新潮文庫)を超える恐怖がそこには綴られていた――作家・増田俊也氏による『 慟哭の谷 』の解説を全文公開。

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? 本書は北海道開拓時代に起きた三毛別ヒグマ事件――1頭の巨大ヒグマが1週間にわたって開拓部落を襲い、7人を食い殺して3人に重傷を負わせた凄惨な事件を、克明かつ詳細に綴った記録である。

 事件は、冬眠に失敗して餓えた凶暴なヒグマが、開拓部落の一軒の家を襲ったことから始まる。預かり子の幹雄は一撃で撲殺され、阿部マユが血まみれにされて熊に咥えられ山に連れ去られた(後に大半が食された無残な死体が土中から発見された)。

 この事件を受け、最終的に北海道警のほか、陸軍歩兵連隊、消防組、青年団など、官民合わせ延べ600人、アイヌ犬10数頭、鉄砲60丁もの大討伐隊がこのヒグマに挑んでいく。しかしヒグマは吹雪と暗闇にまぎれ執拗に開拓部落を襲撃し、1人、また1人と人間を食い殺す。万策尽きた人間たちは殺された仲間の遺体を囮にしてヒグマをおびき寄せるという最終手段に出たが、ヒグマはそれをあざ笑うかのように人間たちを翻弄していく。いったいどうしたらあの悪魔を倒せるのか――。この稀有なモチーフとリアルな描写で、本書は日本文学史に永劫語り継がれるであろう大傑作ノンフィクションとなっている。

 私自身、この事件をモデルにして書いた『 シャトゥーン ヒグマの森 』(宝島社)という小説で10年ほど前に作家デビューしている。新人賞受賞を目指す作品で、なぜこの事件をモチーフにしたのかというと、人間による過去のどんな殺人事件を調べても、この三毛別ヒグマ事件の前にかすんでしまったからだ。シリアルキラーによるどんな猟奇的な連続殺人事件も、このヒグマによる食害の凄惨さに比べたらかすんでしまったからだ。

■北海道大学ヒグマ研究グループ(略称クマ研)の存在

 戦前の高専柔道の流れをくみ旧帝大の7校だけに伝わっている寝技中心七帝柔道をやるために私が北海道大学へ入学したのは、1986年(昭和61年)、20歳のときのことである。

 自伝的小説『 七帝柔道記 』(KADOKAWA)にかつて書いたように、きっかけは愛知県立旭丘高校時代に名古屋大学柔道部員に入部勧誘を受けたことだった。

 あれを読んだ方に「どうして名古屋大学ではなくて北海道大学を選んだんですか」とときどき聞かれるが、その理由こそ、北海道大学ヒグマ研究グループ(略称クマ研)の存在にあった。

 このクマ研は1970年代、北海道大学の学生たちによって設立された任意団体だ。簡単にいってしまえばサークルのひとつなのだが、この団体が長い間かけて世界のクマ研究界に果たした功績は計り知れない。農学部、水産学部、理学部などのさまざまな学部を横断し、当時ほとんど知られていなかった野生ヒグマの生態をフィールド調査中心に行っていた日本唯一の団体だった。

 私が2年間の浪人生活の間に参考書より繰り返し読んでいたのが、井上靖が高専柔道にかけた青春を綴った自伝的小説『北の海』(新潮文庫)と、この北大ヒグマ研究グループの共著『エゾヒグマ〜その生活をさぐる』(汐文社)である。

 執筆者一覧を見ると当時のクマ研のメンバーが10数人並んでいる。この名前を私は浪人時代に繰り返し見ては、いつかクマ研が2冊目の本を出すときにはここに自分の名前が記されるのだろうかと胸を高鳴らせていた。当時の北大は入学時に理系文系など大まかな区分けで教養部に所属し、そこで1年半過ごしたあと希望の学部学科に進むシステムだった。しかしクマ研のメンバーのうちの少なからずがヒグマに没頭するあまり留年を繰り返して教養部に長期滞在していたのも、ヒグマの魅力を間接的に知る証となった。

 この本の執筆者一覧のうち何人かの名前と当時の所属をここにピックアップしてみよう。・間野 勉(教養部)・園山 慶(教養部)・山中正実(水産学部発生学遺伝学教室)・宇野裕之(農学部応用動物学教室)・松浦真一(水産学部浮遊生物学教室)・坪田敏男(獣医学部家畜臨床繁殖学教室)・綿貫 豊(大学院農学研究科応用動物学教室)

 この人たちはいま何をしているのか。

■書籍で憧れた人は、現在もヒグマ研究に関わっていた

 私のなかで浪人時代の青春の記憶と現在が?がったのはつい数年前のことだ。別件で知床半島のことを調べていて、たまたま山中正実さんが知床財団統括研究員としていまもヒグマの研究をしていることを知り、会ったこともないのにメールで「僕は山中さんたち当時のクマ研に憧れて北大に入りました」と送ったら返信が返ってきたのだ。30年近く前に書籍で憧れた人が、現実にいて、現在もヒグマ研究に関わっているということに感動した。

 そして実はヒグマに近い職業に就いているのはこの山中正実さん(現在は斜里町立知床博物館館長)だけではなかった。ためしにネットで検索してみると、間野勉さんは北海道環境科学研究センター主任研究員兼野生動物科長、園山慶さんは北海道大学大学院農学研究院准教授、宇野裕之さんは北海道環境科学研究センター道東地区野生生物室長、松浦真一さんは北海道新聞社編集委員、綿貫豊さんは北海道大学大学院水産科学研究院教授、坪田敏男さんは北海道大学大学院獣医学研究科教授、全員がヒグマの研究や保護、その生態の啓蒙などに携わることができるポジションにいる。

 こうして彼らがヒグマに近い仕事に就いているのは実はたいへんなことである。たとえば何百人もいる北大柔道部OBのうち卒業後も柔道や格闘技の仕事に就いているのは、中井祐樹(現在日本ブラジリアン柔術連盟会長)と山下志功(プロ修斗世界ライトヘビー級元王者)の2人しかいないのだから。読者の皆さんも自分のまわりを見まわしてみてほしい。大学時代は同好の士と集まってそれぞれ音楽をやったりスポーツをやったり探検をやったり政治活動をしていたはずだが、大学時代のサークルの世界をそのまま仕事にしている人はほとんどいないだろう。みな卒業時に夢を捨て、自分の背丈にあった日常に還っていくのだ。

■なぜヒグマにこだわり続けるのか

 そんななか、なぜクマ研の人たちは、これほどまでにヒグマにこだわり続けるのか。

 それは間違いなく畏怖である。

 成体で最大500キロに近い圧倒的な大きさからくる畏怖だ。

 ここまで断言するのは、私自身がヒグマに惹かれたもまたこの大きさにあったからだ。圧倒的な大きさからくる人間には抗えない存在感をこの生き物は持っている。ライオンもトラも、成獣でせいぜい250キロ、その倍近い体を持っているにもかかわらず、いまも北海道ではヒグマが悠々と人間の生活圏を歩いている。だから、北海道に住む人たちが感じるヒグマの存在感と、内地の人間たちが想像で語るヒグマのイメージには大きな乖離がある。クマ研に入ったメンバーたちがヒグマにのめりこんでいったのは、北大に入学して初めて北海道の地面に立ったとき、この地続きに巨大なヒグマが何千頭も歩いているという興奮に打ち震えたからであろう。クマ研発足のきっかけは学生たちの「野生のヒグマを直に見てみたい」という憧れから始まっていた。

 柔道部とクマ研の2足のわらじを履こうと思って北海道大学に入学した私はしかし、柔道部の練習が思っていた以上に過酷で、体力にも時間にも余裕がなく、クマ研に入ることができなかった。柔道部在籍時に2度留年した私は引退時4年目のときに書類上はまだ2年生だった。すでに24歳、卒業する気も卒業できる見込みもなさそうだったので北海タイムス社に就職してそのまま大学を中退した。これでヒグマとは縁遠くなるはずだった。

 だが、後に編集局長に就く老記者のSさん(当時論説委員)との縁で私のヒグマ熱は再燃する。なにかの打ち上げ飲み会で横に座ったSさんがしきりにヒグマのことを話すので聞くと、実はこのSさんは、北海道のマスコミ界で“ヒグマ記者”と呼ばれている人だった。「俺はクマ研の設立時にも外部委員のような形で関わってたんだ」

 Sさんは破顔して話し続けた。

 私のような若い人間がヒグマに興味を持っているのが嬉しくてしかたないようだった。飲み会がお開きになっても2人でススキノの安酒場に場所を移して朝までヒグマ談義は続いた。このときSさんから「絶対に読んだほうがいい」と薦められたのが吉村昭さんの『羆嵐』(新潮文庫)、三毛別ヒグマ事件を取材して書いた記録小説である。

 朝9時ごろススキノで別れた私は書店で『羆嵐』を買ってそのまま会社に戻り、休憩室のソファに横になってそれを読みはじめ、一気に引きずりこまれた。吉村さんの乾いて簡潔な文体が、静かにひた忍び寄るヒグマの生態に合って、まさに自分が襲われている感覚にとらわれ、読み終わったときにはシャツが大量の汗で重くなっていた。

 それ以来、私は仕事の合間に資料室でヒグマによる過去の人身事故について調べるようになった。その過程で本書『慟哭の谷』に出合い、ノンフィクションの迫力に震えた。『羆嵐』を超える恐怖がそこには綴られていた。

 少し内容を引いてみよう。

■「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」

《熊はオドの腰の辺りに激しく咬みかかり、尻から右股の肉をえぐりとり、右手に爪傷を負わせた。「うわあ!!」

 体が引き裂ける痛みにオドは絶叫した。

 この叫びに思わず手を放した熊は、今度は恐怖に泣き騒ぐ親子のいる居間に戻った。ここで熊は明景金蔵を一撃の下に叩き殺し、怯える斉藤巌、春義兄弟を襲った。巌は瀕死の傷を負い、春義はその場で叩き殺された。この時、片隅の野菜置場に逃れていた母親斉藤タケは、わが子の断末魔のうめき声に、たまらずムシロの陰から顔を出してしまった。執拗な熊はタケを見つけ、爪をかけて居間のなかほどに引きずり出した。タケは明日にも生まれそうな臨月の身であった。「腹破らんでくれ! 腹破らんでくれ!」「喉食って殺して! 喉食って殺して!」

 タケは力の限り叫び続けたが、やがて蚊の鳴くようなうなり声になって意識を失った。

 熊はタケの腹を引き裂き、うごめく胎児を土間に?きだして、やにわに彼女を上半身から食いだした》

 まさに地獄である。

 北海道民は開拓時代からずっと、ヒグマと戦い続けていた。死者3名・重傷者2名を出した札幌丘珠事件(1878)、死者4名・重傷者3名を出した石狩沼田幌新事件(1923)、パーティー5人のうち3人が殺された福岡大ワンゲル同好会事件(1970)など、毎年のように悲惨な事故が起きている。

 内地の人は「それは昔の話ではないのか。それにヒグマ事故は高い山や知床など、人があまり行かないところで起きているのではないか」と思うかもしれない。しかし実際には、平成に入っても190万都市の札幌市内だけで年に100件以上のヒグマ出没騒ぎがあり、襲われて死ぬ者もいる。

 この『慟哭の谷』は、深い山の中の、昔の話ではない。いまも読者が北海道旅行に行って、ほんの数歩、国道沿いの藪の中に入っていけば、そこにある現実である。だからこそ、私たち読む者の喉元に凄まじい恐怖を突きつけるのだ。

(増田 俊也)

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