【ロッテ】最後の近鉄戦士・栗田雄介が歩んできた波乱万丈の野球人生

【ロッテ】最後の近鉄戦士・栗田雄介が歩んできた波乱万丈の野球人生

©梶原紀章

■社会人チームの廃部、そして突然のドラフト指名

 この季節になると、どうしても2004年の夏の事を思い出してしまう。あの時、プロ野球は再編問題に揺れていた。大阪近鉄バファローズとオリックスブルウェーブが合併に向けた話し合いを行っているとの報道に端を発しプロ野球界は大きく揺れた。選手会によるストも含めた様々な動きが巻き起こり、それを乗り越えてプロ野球は新時代へ向けて激しく動き出した。

 そんな時代の最前線で翻弄された男が千葉ロッテマリーンズに今も在籍している。栗田雄介打撃投手兼チームスコアラー。当時はバファローズのルーキーだった。03年ドラフト最後の7巡目指名で入団。近鉄バファローズがドラフトに参加をした最後の年の最後に指名した選手であることから「近鉄最後の選手」と言われている。

「いろいろな事が忘れられないですね。まさか、自分が入団をした球団が一年で消滅をするなんて思ってもいませんよ」

 栗田はそう言って遠い過去になりつつある当時を懐かしそうに振り返る。元々、プロ入り出来るとは思っていなかった。所属をしていた岩手の社会人チーム・宮城建設が入社一年で廃部。途方に暮れていた時に知人の紹介もあり近鉄の入団テストを受験した。「最後の力量試しというか、運試しでした」。他にも日本ハムファイターズのテストも受けていたが、こちらはあっさりと不合格の連絡が入った。そんな中で藤井寺球場での試験に挑んだ。梨田監督も見守る中でのピッチング。ただ、特に合否を告げられることもなく、「なにかありましたらお電話をします」と事務的な受け答えをされただけだった。そして、その後は音沙汰もなく時が流れた。

 ドラフトの日に自宅でボッとしていると突然、電話が鳴った。「7巡目で指名をしましたから」。思わず、「エエ!」と驚きの声を上げてしまった。テスト後、何の連絡もなかったためテストを受けたことすら忘れている状態だった。契約の席上で与えられた背番号は「68」。近鉄歴代の名監督である西本幸雄氏、佐々木恭介氏などが背負っていた番号に今度は腰を抜かした。

「たまたまテレビで近鉄の過去の特集をやっていて、西本さんや佐々木さんの偉大さを認識していた。これはえらい番号をもらってしまったと震えました」

 社会人チームの廃部から一転、シンデレラストーリーが始まるかと思われたが、今度はルーキーイヤーが始まった矢先に衝撃の現実が襲い掛かる。寮でテレビをつけると合併問題が持ち上がっていると報じられていた。「どういう事?」。それが素直な感想だった。なにがどうなっているのか、入団したばかりの若者にはまったく分からない。そのうち選手に集合がかけられて全容がなんとなく分かってきた。

「社会人チームも一年で廃部。まさかプロに入って一年で球団が消滅することになるとは夢にも思わなかった。こんなことがあっていいのかと思った」

■用意してもらった“最初で最後の”一軍登板

 そんな騒動のさなか、一軍の打撃投手が骨折。栗田は一軍の打撃投手役として一軍本体に帯同することになる。だから、間近で主力選手たちの苦悩、合併反対に対する活動を目にすることになった。スライダーが得意だったが、当時、近鉄を率いていた梨田昌孝監督から「その投げ方だとカットボールの方がいい。腕を少し下げてサイド気味にカットを投げると打者も嫌がる」とのアドバイスも受け打撃投手の傍ら必死にアピールを繰り返した。一年目のドラフト7巡目ルーキーは合併騒動の中で必死に野球をするしかない。そう思うしかなく、日々を過ごした。

 プロ初登板がないままシーズンが終わろうとした時、突然に一軍登録をされた。04年9月27日のオリックス戦(現ほっともっとフィールド神戸)。そのシーズンの最終戦でベンチ入りをした。それは近鉄バファローズ最後の試合であることも意味していた。

「いろいろな感情が入り乱れる独特の雰囲気でした。ボクを拾ってくれた球団の最後の試合でなにか恩返しをしたい。そう思ってマウンドに向かいました」

 五回、3番手としてマウンドに向かうと涙が溢れそうになった。この舞台はつかみ取ったものではなく、用意してもらったものであることを強く感じていた。選手であるにも関わらず、打撃投手を務め、頑張った事への首脳陣の気配りを痛いほど感じられた。近鉄バファローズがテスト生でドラフト最後の7巡目で指名してくれた自分のためにその歴史の最終戦で用意してくれたマウンド。それは今まで見たどのマウンドよりも神聖なものに感じた。1回を投げて打者5人、被安打2、1三振、1失点。0に抑えることは出来なかったが梨田監督の教え通りにサイドからカットボールを思いっきり投げ込んだ。

「結果は悔しかった。近鉄での最初で最後の投球で結果を出せなかった。拾ってくれた人たち、チャンスをくれた人たちに恩返しをすることは出来なかったと思います」 

 試合には敗れ、ベンチで涙する選手、関係者がいた。たった一年だった。それでもこのチームの事が誇りに思えた。一生、この光景を忘れたくないと目に焼き付けた。分配ドラフトではオリックスに指名をされた。寮にいると次から次へと携帯が鳴り、行き先を告げられる。それは不思議な光景だった。自身は社会人時代を岩手で過ごしたこともあり、楽天を望んでいた部分もあったが一年目は基本的にオリックスの流れもあり残った。ただ故障もあり、その一年後には戦力外を通告される。台湾プロ野球を経験後、地元千葉のマリーンズの入団テストを受けるも不合格。打撃投手として採用され今に至る。結局、一軍での登板は04年、近鉄バファローズ最後の試合、1試合のみで現役を引退した。

「今まで沢山の人に支えてもらった。だから今後は支える側として頑張りたいと思いました。選手のやりやすい環境作りを考えてやろうと思いました」

■「あの時の辛さ、悲しさ、寂しさは忘れない」

 現在は打撃投手としてはもちろんスコアラーとしてもチームを支えている。試合中はスタンドからスコアをつけ、カメラをまわし選手とチームのために目を光らせる。そんな日々に充実感とやりがいを感じている。

「近鉄があったから今の自分はいます。あの一年、ベテランも若手も首脳陣も裏方もみんなで近鉄を守りたいという想いで野球をして、活動をした。そのみんなのまとまった強い力は今まで感じたことがないものでした。みんなで一緒にチームのために戦い尽くした一年はボクの最高の宝です。あの時の辛さ、悲しさ、寂しさは忘れないし、若い子にも伝えていきたいと思います」

 プロ野球のために働ける日々。誰よりも所属チームと一緒に歩める日々の幸せを感じながら、働き、マリーンズのために尽くしている。そんな栗田がフフフと照れながら話をしてくれた。「みんなにそれは嘘だと言われるのですが、千葉に住んでいた子供の時、近鉄の帽子を被っていました。ファンだったわけではないのですが、あのマークが大好きだった。めちゃくちゃカッコいいじゃないですか。たった一年だったけど、子供の時に憧れたあの帽子を被れたのは嬉しかったなあ」

 今でも一年間プレーをした近鉄バファローズのユニフォームは大切に保管をしている。そして時折、そのユニフォームを見る。すると、やっぱりあの一年が思い出される。濃く熱く、そして激しい一年だった。そして自分が近鉄戦士であることの誇りに満たされる。だから周囲から「近鉄、最後の選手」と言われるのは嬉しい。もう存在しない古巣への感謝の気持ちと懐かしい思い出を胸に今はマリーンズのために精一杯、自信をもって働く。

梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ広報)

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(梶原 紀章)

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