『いだてん』神回「#人見絹枝に泣いた」日本女子初メダリスト、24年間の生涯とは

『いだてん』神回「#人見絹枝に泣いた」日本女子初メダリスト、24年間の生涯とは

『いだてん』で人見絹枝を演じるダンサー・菅原小春

 NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』は先週から第2部に入った。きょう7月7日放送の第26回「明日なき暴走」では、1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピックを、日本女子で初めてオリンピックに出場した陸上選手の人見絹枝を中心に描くようだ。同回の演出を手がけた大根仁は雑誌の連載コラムで、いわゆる「神回」というフレーズは陳腐で好かんとしながらも、この回にかぎっては《ハッキリ言って神回です!!》と太鼓判を押していた(※1)。ツイッターの『いだてん』公式アカウント(※2)も放送前から「#人見絹枝に泣いた」というハッシュタグをつけてPRしており、ますます期待が高まる。

■もともとは軟式テニスをしていた人見

『いだてん』では人見絹枝をダンサーの菅原小春が演じている。初登場は第22回(6月9日放送)で、第1部の主人公・金栗四三(演:中村勘九郎)が東京府立第二高等女学校(通称・竹早)の教え子たちを連れて、岡山高等女学校(岡山高女)で開催されたテニス大会に参加したときのこと。そこで竹早の生徒たちを完膚なきまでに叩きのめしたのが、岡山高女から出場した人見であった。このとき、金栗とともに生徒を引率した竹早の教員・増野シマ(演:杉咲花)は、恵まれた体格と身体能力を持つ人見に陸上競技の素質を見出し、東京に戻ってからあらためて彼女に陸上への転向を勧める手紙を書き送っている。その後、シマは関東大震災で行方不明となるのだが、ドラマでは女子スポーツの普及を目指したシマの意志を、人見が引き継ぐ形で陸上に転向するというふうに描かれていた。

 人見が岡山高女でテニスをしていたのは史実である。だが、彼女が東京の女学校の教師に勧められて陸上に転向したというのはあくまでフィクションだ(そもそもシマは架空の人物である)。

 人見絹枝は1907(明治40)年1月1日、岡山県の自作農の次女として生まれた。県立岡山高等女学校に入学したのは1920(大正9)年のこと。この高女時代に人見が熱中したのが、校内で盛んに行なわれていた軟式テニスである。始めるきっかけは、入学後まもなくして、県内庭球大会で先輩たちが女子師範学校に敗れるのを見て、自らリベンジを果たしたいと思ったことだ。1本1円30銭のラケット(白米1升が59銭だった当時としては高価なものだった)を母親に買ってもらい、テニスを始めた彼女は、2年生で本選手になると、その年の県内庭球大会で優勝、先輩たちの雪辱を果たした。

■17歳のとき、三段跳びと槍投げで世界記録

 岡山高女ではまた、体育の授業で走り幅跳び・三段跳び・槍投げ・砲丸投げなど陸上競技の各種目の指導が行なわれ、人見はいずれの競技でも日本記録レベルの記録を出した。最終学年の4年生になっていた1923年11月には、体育教諭の杉田常四郎に懇願されて、岡山県女子体育大会に出場、走り幅跳びで4メートル67という非公認ながら当時の日本女子の最高記録を出して優勝する。これがのちに彼女が陸上競技に進出する動機となる。

 1924年春、岡山高女を卒業後、人見は和気昌郎校長と杉田教諭の熱心な勧めにより、上京して二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学する。もっとも、同塾の創設者である二階堂トクヨ(『いだてん』では寺島しのぶが演じている)には、スポーツ選手を養成するという考えは皆無だった。人見は二階堂の教育方針に失望し、一時は退学も考えたという。だが、この年の秋、彼女が岡山県から直々に同県の女子体育大会への出場を要請されたと知り、二階堂も考えを一転する。10月に行なわれた同大会において、人見は三段跳びで10メートル33の世界記録を出した。女子体育の発展のためにはトップアスリートの養成が不可欠だと気づいた二階堂は、このあと人見に陸上競技の練習を正式に許可する。

■「大阪毎日新聞の記者」と「アスリート」、二足のわらじ

 1925年3月に二階堂体操塾を卒業した彼女は、京都市立第一高等女学校に1学期だけ勤務したのち、体操塾の研究生を経て、大阪毎日新聞社に入社した。以後、人見はアスリートとして活躍するとともに、運動部記者としてもヨーロッパ各地のスポーツ事情などを取材して伝え、そのなかで日本の女子スポーツ振興のための提言も行なっている。

 人見は生涯に3度、世界の檜舞台に立った。最初は1926年8月、スウェーデンのイエテボリで開催された第2回国際女子競技大会に日本からたった1人で出場したときだ。同大会は、まだオリンピックが女子にほとんど門戸を開いていなかった時代にあって、国際女子スポーツ連盟(FSFI)会長のアリス・ミリアの提唱により、1922年、第1回女子オリンピックとして始まった。第2回大会を前に、2年後の1928年のアムステルダムオリンピックで女子の陸上競技5種目が試験的に採用されることが決まり、これを機に女子オリンピックから改称。人見はこの第2回大会で、走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝するなどの活躍を見せ、その名を世界に知られるようになった。

■アムステルダム五輪「本命競技」100mでまさかの惨敗

 続くヨーロッパ遠征となったのが、きょうの『いだてん』で描かれるアムステルダムオリンピックである。このとき採用された女子種目(100メートル・800メートル・走り高跳び・円盤投げ・400メートル)には、人見がもっとも得意とする走り幅跳びはなかった。それでも出場すると決めたからには、自信の持てる種目をつくらねばならない。そこで彼女が選んだのが100メートルだった。ここから100メートルでのオリンピック優勝をめざして努力を重ね、オリンピック予選を兼ねた1928年5月の全日本陸上競技選手権では12秒2の世界新記録を出して日本代表に選ばれる。

 だが、思わぬ結果が待っていた。アムステルダムオリンピック開会式の翌々日の1928年7月30日、100メートル予選を通過して準決勝に進むも、4位とまさかの惨敗を喫したのだ。呆然自失となった彼女は、その晩、宿舎に戻ってベッドのなかで泣けるだけ泣いた。だが、出発時に「成功しなければ2度と日本の土を踏むまい」と覚悟を決めていただけに、このままでは日本に帰れないと、翌朝、監督の竹内広三郎に800メートルへの出場を申し出る。まだ一度も経験のない種目だけに、竹内は猛反対したが、涙ながらに訴える彼女についに折れた。幸い、800メートルにも予備としてエントリーしていた。ただ、それは100メートルで勝ったあと、その勢いで800メートルを走れば6位にはなるだろうというぐらいの気持ちで申し込んでいたものであった。

■800mのゴール前「何も覚えていない」

 8月1日、800メートル予選に出場した人見は、「予選通過を第一に考えて力をセーブするように」との竹内監督の助言に従い、自分の前にいる選手にぴたりとついたままゴールし、無事に決勝進出者9名に入る。翌8月2日、三段跳びの織田幹雄と南部忠平、槍投げの住吉耕作とともに宿舎から自動車でスタジアムに向かった。

 決勝の号砲が鳴ったのは午後2時半。人見は抽選でトラックの一番内側の第1コースになったのを幸いに、一気に先頭に躍り出る。ここから第2コーナーを回ると誰かを先に出して、予選と同じくその後ろについて走り、ラスト100メートルで追い抜くつもりでいた。だが、人見は次々と抜かれて6番目となる。全選手がほとんど差がないまま400メートルを1周し、最後の1周に入った。第3コーナーに差し掛かるまでに、2番目と3番目の選手のあいだに入り込むと、すぐ後ろを走っていたトンプソン(カナダ)と互いに体をぶつけ合うほどの接戦となる。どうにかトンプソンを引き離したが、このあいだに、先頭のラトケ(ドイツ。当時の同種目世界記録保持者)は15メートルも先に、続くゲンツェル(スウェーデン)は4メートルほど前方にいた。2人を追いかけにかかったとき、人見にはこれ以上走るだけの耐久力を失っていた。だが苦しいなかで、竹内監督の「練習していないあなたはきっと誰よりも足が疲れてくるに決まっている。しかし、そのときは手を振ることを忘れるな」との教えを思い出し、精一杯手を振る。第4コーナーを回って、ちょっとよろめきながらもゲンツェルを抜くと、人見の目は見えなくなり、それから先は何も覚えていないという。

■日本女子初のメダリスト誕生の瞬間

 人見は力走を続けて先頭のラトケに追いつくと、ゴール直前で死闘を繰り広げた。2分16秒8の世界新記録でゴールに飛び込んだラトケにわずかに及ばず、2分17秒6でゴールイン、自らフィールドに敷いておいた毛布をやっと探り当てると、そのまま倒れ込んで意識を失う。フィールドで競技中だった織田と南部はすぐ飛んで行って人見を助け起こすと、三段跳びのピットまで連れていって休ませた。このあと、意識を取り戻した彼女は、スタジアムの3本のマストの左に掲げられた日章旗を見て、《ああ、これで幾分の責任を果したのだ! よく走れた! もう思うこともない》と止めどもなく涙を流した(※3)。日本女子初のオリンピックメダリスト誕生の瞬間である。これに続けて織田も日本勢で初めて金メダルを獲得した。

 アムステルダムから帰国した人見を待っていたのは、全国各地より依頼された講演会・講習会だった。あまりのハードスケジュールに彼女はしだいに激しい疲労に襲われ、練習する気力を失くし、ついには引退も考えた。翌1929年の年明けには、FSFI会長のアリス・ミリアへの手紙のなかで、「アムステルダムから帰国後、体の調子がよくなく、来年のプラハでの第3回国際女子競技大会では会えないことを淋しく思います」と苦しい胸のうちを訴えた。これに対しミリアからは驚くほど早く返事が届き、「多くの人々は、あなたの技術がいま最高に達せんとしていることをよく知っています。いまこのスポーツ界を退くなどということは大きな罪であると思いませんか」「もとの元気さでプラハへぜひとも姿を見せてください」と叱咤激励される。これに人見は再び奮起した(※4)。

■講演会ラッシュの無理がたたり、24歳で息を引き取る

 3度目のヨーロッパ遠征となった1930年のプラハでの国際女子競技大会には、若い5名の選手たちの主将兼マネージャーとして出場した。そこで人見は走り幅跳びで優勝するなど1人で12点を獲得し、リレーチームではさらに1点追加して、日本を参加18ヵ国中4位に位置づけた。このあと、各国との対抗競技大会のためヨーロッパ各地を転戦して帰国の途に就く。だが、プラハに着く前にひいた風邪を押して全力を出し切った彼女は、すっかり憔悴していた。それにもかかわらず、帰国後はまたしても休む暇もなく講演会で各地を飛び回る。その無理がたたり、人見は1931年3月、とうとう病床に臥し、半年も経たない8月2日、大阪市内の病院で息を引き取った。まだ24歳の若さであった。

■人見のあと、日本から女子陸上のメダリストは64年間出なかった

 人見の死から33年後の1964年、東京オリンピックが開催された。このとき、聖火が岡山を通る際、父・猪作は「絹枝よ、これがオリンピック聖火だ」と両手に抱いた娘の遺影に語りかけたという(※4)。

 アムステルダムオリンピックのあと、800メートルは女子にはあまりに過酷すぎるとの理由から1960年のローマオリンピックで復活するまで中止された。日本の女子陸上選手から人見に続く五輪メダリストが出るまでにはさらに時間がかかり、1992(平成4)年のバルセロナオリンピックまで待たねばならなかった。この大会の女子マラソンで2位に入賞した有森裕子は、岡山高女出身の祖母から1年先輩の人見のことをよく聞かされていたという(※5)。奇しくも有森がメダルを獲得した8月2日(日本時間)は、人見がアムステルダムで銀メダルを獲った日であり、そして命日でもあった。

※1 『テレビブロス』2019年8月号
※2 大河ドラマ『いだてん』公式アカウント(@ nhk_td_idaten)
※3 織田幹雄・戸田純編著『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(山陽新聞社)
※4 勝場勝子・村山茂代編著『二階堂を巣立った娘たち――戦前オリンピック選手編』(不昧堂出版)
※5 有森裕子『アニモ』(メディアファクトリー)
このほか、小原敏彦『KINUEは走る 忘れられた孤独のメダリスト』(健康ジャーナル社)なども参照しました

(近藤 正高)

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