私は「文春砲」が嫌いだ

私は「文春砲」が嫌いだ

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■「文春砲」に興味なし

 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 週刊文春お得意の「文春砲」、これが嫌いである。正確に言えば、嫌いというより興味関心がない。週刊文春を買って読むということは滅多にない。

 なぜ関心がないかというと、ひとつには取り沙汰されている人物の多くを僕が知らないからである。「○○が未成年に淫行!」「××が不倫の泥沼!」というような見出しが電車の吊広告に出ている。○○や××は芸能人や政治家であることが多いのだが、ほとんどが僕にとって見たことも聞いたこともない人々だ。

 テレビというものを観ないので、○○が当代きっての有名タレントであっても、イメージがわかない。××が政治家の場合、こういう記事に出てくる政治家は大したタマでないことが多く、どんな人だかわからない(「安倍首相が不倫の泥沼!」だったら、ちょっと読んでみたい気もするが)。

 仮に「戸倉隆が未成年に淫行!」「松山和男が不倫の泥沼!」という言葉が吊広告に躍っていたとする。こうした記事をカネを払って読みたいという人はいるだろうか。

 ご存知ない方もいるだろうから念のために申し添えておくと、戸倉隆氏は僕のバンド仲間のギタリストで、松山和男氏は僕の所属するバンド、Bluedogsのドラマーである。もちろん仮の話であって、戸倉氏は未成年に淫行したことはない(と思う)し、松山氏は何があっても不倫などしないタイプだ。何が言いたいのかというと、これとまったく同じ理由で、僕は文春のスクープ記事に興味を持てない。

■どうでもいい

 もうひとつの理由はさらに強固である。文春砲は不倫だ淫行だ泥沼だと書きたてるのだけれど、僕に言わせれば「そんなこと、どうだっていいじゃねえか……」なのである。

 たとえば、しばらく前の話になるが、ベッキー氏をめぐる騒動。僕が例外的にこの件に関心を持ったのは、彼女の家(ご実家)が僕の自宅から徒歩15秒圏内にあるからである。テレビでベッキー氏を観たことはないが、近所の小さな女の子が後にテレビの人気者になったということは知っていた。

 文春の記事そのものは読んでいないが、インターネットで流れてくるニュースを見ると、「そんなこと、どうだっていいじゃねえか……」というような話ばかり。人気者の有名税といえばそれまでだが、別に犯罪をしたわけでなし、こんな私的なことをやいのやいの言われるベッキー氏が実に気の毒であった。

 ただ、あえてベッキー氏サイドに苦言を呈せば、「センテンス・スプリング」、これは言葉遊びとしてちょいとセンスが悪いと思う。春がスプリングなのはいいとしても、文のほうはセンテンスよりもリテラチャーにしてほしかった。文藝春秋創業者の菊池寛の精神を汲めば、「リテラチャー・スプリング」のほうがしっくりくる。いずれにせよ、その程度の「どうでもいい話」である。

■ジャーナリズムではない

 しかし、である。だからといって「週刊文春はケシカラン!」とか「ジャーナリズムの風上にも置けない!」とか言うつもりは毛頭ない。

 こういう人は根本的なところで勘違いをしている。週刊文春はジャーナリズムではない。エンターテイメントである。テレビやラジオやインターネットで流れてくる歌舞音曲やスポーツ、その他もろもろの娯楽コンテンツと同じエンターテイメント。それが週刊誌というメディアにパッケージされた文字情報という形をとっているに過ぎない。そもそもジャーナリズムではないのだから、ジャーナリズムの風上にも置けないのは自明の理だ。風上には置かない方がいい。

 週刊誌は商業出版のど真ん中。だとすればフツーに暮らしている人に向けて娯楽、あっさりいえば「憂さ晴らし」を提供しようとするのは自然の成り行きである。

 文春砲がぶっ放すスキャンダルやスクープは週刊誌エンターテイメントのど真ん中だ。有名人の滑った転んだを面白がる。これは人間の本性であり、古今東西不変にして普遍の太く硬い需要である。エンターテイメントとしての週刊文春が太い需要に向けて文春砲を連発するのは是非にあらず。当然にして当たり前の話だ。

 週刊文春をジャーナリズムと勘違いして声高に正論を叫ぶ人々は、AKB48を観て、「ちゃらちゃら歌って踊っているだけで、あんなのは芸術じゃない!」と言っているに等しい。そもそも芸術ではないのである。やっているほうもひたすらエンターテイメントを提供しようとしているのであって、芸術だと思ってやっているわけではない。

 僕は週刊文春を読まないし、AKB48も観ない。興味がない。もちろんフツーの人として、僕もエンターテイメントを必要としている。しかし、エンターテイメントとしては、文春砲やAKBよりも東映の任侠映画の方がずっとイイ。とりわけ「緋牡丹博徒」シリーズが大スキである。藤純子(富司純子)が演じる「緋牡丹のお竜」には痺れにシビれる。文春オンラインに掲載されている「春日太一の木曜邦画劇場」もお気に入りである。おかげさまで東映作品への食欲が増進する。

 言うまでもないが、これはエンターテイメントについての僕の好き嫌いであって、普遍的な良し悪しではない。文春砲が嫌いだったり関心がないのであれば、見たり読んだりしなければいいだけの話である。

 にもかかわらず、文春砲に「ケシカラン!」と言う。結局のところ、こういう人は週刊文春を読んでいるのである。スキャンダルにはそれだけ人間の本性を直撃する力がある。

 僕にしても、知らないタレントやチンピラ政治家の不倫スキャンダルは「別にどうだっていいじゃねえか……」でスルーするけれども、しばらく前の小沢一郎氏のスキャンダルは面白かった。若いころからあれだけ豪腕を振るった海千山千の黒光りした政治家がああいうヘンテコなことをする。それが面白い。

 週刊文春が文春砲で提供しているエンターテイメントは、ジャンルで言えば「ノンフィクションの人間ドラマ」である。人間のおかしさや愚かさや哀しさや醜さや不思議さをストレートに抉り出す。ここまでは小説や映画と同じなのだが、文春はファクトでこれをやる。しかも歴史書と異なって、同時代のファクトである。で、抉り出して終わり。話が短い。人の世である限り、文春砲の種は尽きない。さっさと次に行く。考察を深めたり、そこから骨太の教訓を引き出すようなことは決してしない。徹頭徹尾エンターテイメントだからだ。

■「フルスイング主義」に賛同する

 週刊文春編集長の新谷学氏が書いた『「週刊文春」編集長の仕事術』(ダイヤモンド社)という本を面白く読んだ。文春砲は好きになれないが、新谷氏と週刊文春編集部の商売に対する姿勢は嫌いではない。むしろ大いに賛同する。人間エンターテイメントの「面白さ」(だけ)を追求する。迷いがない。そのためには全力であらゆる手間隙をかける。氏の言うところの「フルスイング主義」である。

 それもこれも、新谷編集長はとにかくそういうことが三度の飯よりも好きなのである。僕はそういう仕事はいくらカネを積まれてもやりたくないが、これもまた好き嫌いの問題である。自分の好きなこと、自分で面白いと思う仕事でフルスイングする。これは仕事に対する構えの王道だと思う。

 いつの時代もフツーの人々は私生活の友としてのエンターテイメントを必要としている。エンターテイメントに飢えていた終戦直後、紙不足の制約の中でも次々に雑誌が創刊され、飛ぶように売れた。

 それも今は昔、雑誌エンターテイメントにはこのところずっと逆風が吹き続けている。週刊文春の直接の競合相手は週刊新潮を始めとする他の週刊誌だが、エンターテイメントとして見れば、最大の敵は言うまでもなくインターネットである。正確に言えば、インターネットは競合というよりも代替。かつての代替の脅威はテレビだったが、文字情報(と画像・動画の合わせ技)を扱うインターネットは雑誌エンターテイメントにとって数段強力な代替となる。スマートフォンという日常生活に添いまくりやがるデバイスがそれに拍車をかける。

 客観的な情勢をみれば、週刊誌にとって悪い話ばかり。それでも新谷氏と編集部はあくまでもフルスイングの姿勢を崩さない。時代とメディアは変われども、ようするに作って売っているのがコンテンツであることには変わりはない。コンテンツが面白ければそれでイイ。だからわき目も振らずひたすら面白いコンテンツづくりに邁進する。この姿勢が実にイイ。東映任侠映画の大スター、鶴田浩二の歌のセリフにある「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます……」を髣髴とさせる。

 これをお読みの方々の中には、雑誌のように追い風ゼロ、吹きつけてくるのは逆風ばかりという業界で仕事をしている人もいるだろう。逆風をお嘆きの貴兄に申し上げたい。環境や情勢をみれば悪い話ばかりでも、嘆いているだけでは何も始まらない。顧客にとって価値があるものを作って売る。その結果として対価を得る。これが今も昔も変わらない商売の本質である。

 客は環境や情勢にカネを払っているわけではない。商品にカネを払っているのである。逆風の中でも、独自の価値があるものを作れば、十分に商売になりうる。時代の変化に殺されてしまうというが、ようするに商品に本当の価値がなかっただけの話である。

■週刊文春のしぶとさ

 雑誌というメディアが今後とも衰退基調にあるのは間違いない。しかし、文春砲を中核とする週刊文春はわりとシブトイのではないかというのが僕の考えである。その理由は、提供しているものがファクトにおいてリッチな文字コンテンツだということにある。

 同じ週刊誌でも週刊ポストや週刊現代は低調だと聞く。いずれもエンターテイメントだが、提供するエンターテイメントのジャンルが文春とは異なる。ここに低調の原因があると思う。

 一時期隆盛を誇ったポストや現代は、主として男性読者向けに「カネ・出世・女」を機軸としたエンターテイメントを売ってきた(広告で見る限り、最近はこれに「健康」を絡めることが多くなっている。例えば「死ぬまでセックス」とか。この辺に読者の高齢化を感じてしみじみとする)。

 これはこれで今も昔もこれからも変わらない人間の本性直撃のコンテンツであり、文春にしてもカネ・出世(とその鏡としての凋落)・女は得意中の得意なのだが、いかんせんポストや現代は独自取材によるファクトが薄い。売りは「袋とじグラビア」(誰が考えたのか知らないが、インターネットの登場以来の情報の流通コストの低下に対抗する、実にストレートで清々しい打ち手)のような、文字や文章に依存しない情報となる。これが悪循環をもたらす。女性のおっぱいを見るのであれば、インターネットの方がずっと便利だ。ますます雑誌はネットに代替されてしまう。

 一時は雑誌の主流の一角を占めていた写真週刊誌がほとんど廃刊になったのも、同じ理由だろう。商品価値の中心にあったのは、文字通りの「写真」。単に画像をさばくのであれば、インターネット・メディアにかなうわけがない。

 手間隙をかけた取材で集めたファクトに基づく文章で面白がらせる。ここに週刊文春の強みがある。『「週刊文春」編集長の仕事術』を読んで知ったのだが、一口に取材といっても、その背後には、情報源を探し、コンタクトをし、信頼してもらえる関係をつくり……、と長々としたプロセスがある。最終的に提供する価値はどうしようもないほどエンターテイメントなのだが、そこに至るプロセスはやたらに手が込んでいる。

「価値においてはシンプル、プロセスにおいては複雑」、これが儲かる商売の原理原則のひとつである。その典型はトヨタである。「ハイブリッドで燃費がよい」「壊れない」というシンプルな価値をつくる裏には、トヨタ生産方式という複雑極まりないプロセスが横たわっている。だから競合他社は容易に模倣できない。だからトヨタのクルマは独自の価値を維持できる。これが積もり積もってブランドとなる。まるで業界は異なるが、週刊文春のやっていることはそれに近い。

 打つ球がはっきり見えていないとフルスイングはできない。新谷氏がフルスイングできるのは、ようするに誰に何を売っているのか、戦略のコンセプトを明確に定義しているからである。狙うのはエンターテイメントとしての人間ドラマの面白さ(だけ)であり、啓蒙やジャーナリズムではない。フルスイングという比喩にかぶせて言えば、巷によくある文春砲への批判は、野球をしている人に「ドリブルがなっていない!」というようなものだ。

 コンテンツにユニークな価値があれば、ネットやスマホやAIがどうなろうと商売として成立する。商品が価値を喪失すれば、市場がきれいさっぱりと淘汰してくれる。商売とはそういうものである。

 外野の声を気にすることなく、週刊文春はこれからもブンブンとバットを振り回して、文春砲を飛ばし続けていただきたい。それでも僕は読まないが。

(楠木 建)

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