父とナゴヤ球場と背番号0 神野純一の記憶

父とナゴヤ球場と背番号0 神野純一の記憶

かつて中日で背番号0をつけていた神野純一

※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2019」に届いた約120本を超える原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。

【出場者プロフィール】滝河あきら(たきかわ・あきら) 中日ドラゴンズ 大島洋平世代の34歳 名古屋市(近郊)出身、名古屋市在住。メーカー勤務の会社員、既婚、二児の父。文春野球フレッシュオールスターの募集要項を見た瞬間、「お前が……、もとい、あなたが書かなきゃ誰が書く!?」と応援されたような気がして、サウスポーばりに左手で執筆(本当は右利き、原稿は両手でタイピング)。

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「親に野球観戦に連れて行ってもらう」という出来事は、多くの野球少年たちが経験してきたのではないか。そして、その試合で活躍した選手に特別な思いを抱いた、という経験もまた、多くの野球少年たちがしてきているであろう。

 元野球少年の私にも、そんな選手がいた。かつてドラゴンズに在籍した神野純一(じんの じゅんいち)という選手だ。

■ナゴヤ球場で見た背番号0

 神野純一。コアなドラゴンズファンなら知っているだろう。地元の享栄高校、愛知工業大学を経て、1992年ドラフト7位でドラゴンズに入団。主に内野の控えとして活躍した選手である。そんな神野が、通算11年のプロ野球人生の中で一番躍動したであろう試合が、1996年6月12日、ナゴヤ球場でのドラゴンズ対スワローズの一軍公式戦。この試合に2番ショートでスタメン出場した神野は、1試合3ホームランの離れ業をやってのけ、チームを勝利に導いた(ちなみに神野は1996年シーズンで3本しかホームランを打っていない。プロ通算でも12本しか打っていない)。

 幸運にも、この試合を当時小学生の私は、父親とともに観戦していた。

 私が小学生のころ、父は仕事が忙しく、かつ土日休みではなかったため、父にどこかに連れて行ってもらうということが貴重な出来事であった。そんな貴重な機会に、公園や遊園地ではなく、野球観戦を選んだのは、野球やドラゴンズが好きだったということの他に、野球であれば興味のない妹は来ない、父を独占できるという思いがどこかにあったのかもしれない。

 かくして当日、私は、学校から急いで帰り、父とともにナゴヤ球場へ向かった。この日のドラゴンズの先発は小島弘務。本当は今中慎二を見たかったけど、こればかりは仕方ない。大好きな立浪和義のプレーが見られるし、運が良ければ山崎武司や大豊泰昭のホームランを見られるかもしれない。相手はスワローズ。古田、池山、飯田といった有名選手を生で見られるのも嬉しかったし、父にどこかに連れて行ってもらっているという高揚感で一杯だった。

 試合は点の取り合いとなった。名古屋の夜空をホームランが飛び交う派手な試合だった。神野がこの日2本目のホームランを打った時、私も父も興奮していた。私は父に「神野すごいね!」と話しかけた。父は私が持っていた選手名鑑を「ちょっと見せて」と手に取り、「ほぉ、神野は地元選手なのか。背番号は0か。珍しいな」と感想を口にした。1950年代生まれの父にとって、背番号が0というのは違和感があったのだろう(背番号0の選手が初めてプロ野球に登場したのは1983年のことである)。

 打ち合いの試合は中盤から終盤へと差し掛かる。点の取り合いとなったため、試合の進みが遅かった。この日は水曜日。夜遅くなると、翌日に響くと思ったのだろう、7回あたりから父が「遅くなるから、そろそろ帰ろう」と言ってきた。しかし、試合を観続けたいという気持ちと、父とのお出かけを終わらせたくないという気持ちから、私は頑として「試合が終わるまで見たい」と譲らなかった。

■試合は延長戦に突入

 試合は進み、9回裏スワローズがリードして、ドラゴンズの攻撃を残すのみとなった。ああ、高津出てきちゃった、このまま負ける、もう少しで試合が終わる、次に父とお出かけできるのはいつになるかな。もっと見ていたいなぁ、帰りたくないなぁ……。私は、ドラゴンズが負けてしまいそうな悔しさと、父とのお出かけが終わってしまう寂しさで一杯だった。

 ……が、次の瞬間、乾いた打球音とともに、白球は夜空に吸い込まれるように舞い上がり、外野スタンドの中に落ちてきた。

「神野っ!!」

 私の願いに応えるように、神野はスワローズの抑えの高津から、この日3本目の同点ホームランを放ち、試合を延長へと持ち込んだ。私は、まだ帰らなくていい、ここにいられるんだと喜び、それを叶えてくれた神野のことを、名前の通り神様のように感じていた。「神野すごい! 神野すごい!」私はもう興奮で、震えが止まらなかった。

 延長に入ると父はもう「帰ろう」とは言わなくなった。父は父で、この試合展開に興奮していたのだろう。結局試合は、延長12回に山崎武司がこの日2本目のホームランを放ち、ドラゴンズがサヨナラ勝ちをした。

「神野めっちゃすごかったね!」「そうだな、すごかったな。神野はこのままレギュラーになるかもな」私と父は帰り道、この日の主役の神野の話で盛り上がった。少年野球でショートを守っていた私に父は「お前も神野みたいになれるといいな」と言ってくれた。その後、私は少年野球を続け、神野のようにホームランを3本どころか1本も打てなかったが「神野みたいに……」と言ってくれた父の言葉を胸に白球を追っていた。神野は、ドラゴンズでレギュラー争いを続けていた。

■時は流れ……0番との再会

 しかし、中学に上がると私は野球をやめた。続けようかと思ったが、不良だらけの野球部の雰囲気にビビりまくって入部できなかった。間もなく父は、仕事の都合で単身赴任となり、私と父は会って話すこと自体が滅多になくなり、神野の話も、野球の話もすることがなくなった。神野はというと、その後はケガに苦しみ、レギュラーを取るに至らず、あの試合の7年後の33歳で引退した。この頃には、私は大学受験を控えていて、神野のことをすっかり忘れてしまっていた……。

 無事に大学に入学した私は、友人たちとノリで草野球チームを作った。背番号を決める際「何となく人と違ってかっこいいから」という理由で、0番に決めた。この頃には、父は単身赴任から帰ってきていた。草野球をやっているという話をしたときに、父から「背番号は何番なんだ?」と聞かれた。0番だ、と答えたら、父は微笑しながら「おぉ、神野と同じだな」と言った。私はすっかり忘れていたが、父は神野のことを覚えていた。もちろん、あの試合のことも覚えていてくれた。嬉しいやら恥ずかしいやら、むず痒い気持ちになったのを覚えている。何の気なしに決めた0番は、もしかしたら、私があの日の試合、あの日の神野を無意識のうちに追いかけていた証左だったのかもしれない。

 父はこの数年後、病気で亡くなった。54歳だった。奇しくも神野がキャリアの晩年につけていた背番号54と同じだった。神野純一という選手は、父と私にとって忘れられない1日の思い出の中で輝き続けている。そして今、私には4歳の息子がいる。私とこの子にとっての神野純一は、果たして誰になるのであろう。選手名鑑を繰りつつ、そんなことを思う今日この頃である……。

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(滝河 あきら)

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