小島秀夫が観た『ゴースト・イン・ザ・シェル』

小島秀夫が観た『ゴースト・イン・ザ・シェル』

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『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』というタイトルは、アーサー・ケストラーの評論『The Ghost in the Machine(機械の中の幽霊)』にインスピレーションを受けていることは、よく知られている。

 ケストラーの「機械の中の幽霊」という概念は、デカルト流の心身二元論−−人間は、自由意志をもつ心と、機械的動作を行う身体とが独立して存在し、それぞれが相互作用するものという人間観−−を批判したものだ。我々には実体をもった心などないし、心身を明確に二分することもできない。人間とは身体(機械)の中に住む幽霊(心)なのだ、というのが「機械の中の幽霊」という概念だ。

■30年にわたって「新作」が作り続けられている作品

 オリジンであるコミック(とアニメ映画)は、MachineをShellと読み替えた。この発想こそが発明だった。人間が機械の中に存在するゴーストだというならば、殻(シェル)の中に宿るゴーストとは何なのか? 士郎正宗(と押井守)がタイトルに込めた問いかけは、『攻殻機動隊』という作品を超えて、深いパースペクティブを与えてくれる。

 心が実体ではなくゴーストのようなものならば、人間的動作をする機械と人間との差異は、どこにあるのか。それは容易には見分けがつかないはずである。さらにネットワークが世界を覆い、人間の身体性が希薄になった時代において、ゴーストが宿ったシェルと人間の差異は何なのか。身体がなく、シェル(義体やネットワークそのもの)の中のゴースト(心)が人間ではない、と言い切ることはできないのではないか。

 このような深い問いかけを内包する作品であるがゆえに、『攻殻機動隊』は、コミックが発表された1989年以来、およそ30年にわたって、新作が作られ続けているのだろう。

 2017年に公開されたハリウッド版の実写映画『GHOST IN THE SHELL』は、その最新の形態(shell)である。

 今回は、ゴーストとシェルの関係を、原作と表現の関係に読み替えて論じてみたい。ゴーストとは、作品が持っているエッセンスやスピリット、テーマなどの本質に関わる部分を意味し、シェルとは、それらを表現するメディアや手法のことを意味する。

■『攻殻機動隊』を表現メディアという「殻」から再考する

 オリジンであるコミックの『攻殻機動隊』には、1980年代後半の日本のコミックならではのエッセンスがちりばめられていた。作者の士郎正宗氏は、東京のメジャー出版社ではなく、大阪の出版社からの単行本書き下ろしという、当時の日本でも珍しい経緯でデビューしている。しかし、商業デビュー前から、いわばマイナー・ポエットの天才作家として高い評価を受けていた。メジャー誌に舞台を移して発表された『攻殻機動隊』も、ネットワークなどの情報工学、銃機器などのガジェット、哲学や心理学などに精通した氏の真骨頂とも言える描写や演出に満ちていた。当時の日本は、週刊連載がコミックの主流で、リーダビリティと次週へのクリフハンガーが何よりもメジャーコミックに求められていたが、氏の作品には、膨大なディテールが描き込まれていて、一度読んだだけでは消化しきれないほどの情報が詰め込まれていた。セリフ回しや演出も、凝ったものが多かった。しかし、だからと言って、一見さんお断りのような高踏的な作品ではなく、全体はハードボイルド・タッチだがギャグも多く、血の通ったキャラクターが躍動していて、読者への間口も広い。柔らかく繊細な少女が、いかにも無骨で硬質なメカニック(シェル)に包まれているという斬新な表現(いわばA girl in the Shell)も氏の発明だった。

 コミックの『攻殻機動隊』の成功は、雑誌の掲載を経て、何度でも読み返すことが可能な単行本というシェルに作品のゴーストをパッケージしたことが大きかった。斬新で未来的な“ゴースト”は、新しいメディア(シェル)に宿るのだ。今回の映画では、実写という新しいシェルにどんなゴーストが宿ったのか、それについては後述する。

 そして、1980年代の後半の日本で発表されたという環境も作品にプラスしたはずだ。ネットワークが世界中を覆い尽くしているが、現実世界ではインターネットが商用化されていない時代である。情報工学をはじめとするテクノロジーに希望があった時代に描かれた作品ゆえのポジティブさが、見て取れる。当然、単純なテクノロジー礼賛ではなく、マシーンではなく、シェルの時代における人間観を問うているのだが、それは、後年(1995年)押井守監督によって劇場アニメ化された『GHOST IN THE SHELL』よりも、相対的に肯定的だ。

■押井守版『GHOST IN THE SHELL』は「ビデオ」でヒットした

 言い方を変えれば、押井守版はテクノロジーに対して、より批評的なのだ。1995年は、日本においてはインターネット元年とも呼ばれ、インターネットが商用化され始めた年だったことが、影響しているはずである。

 ネットワークが夢物語ではなく、相応のリアリティをもって受け止められ始めた時代。しかし、ネットはまだまだ貧弱で、世界を覆い尽くしていなかった時代。そこで語られるのは、ネットワークが可能にする夢と悪夢だった。1993年にアメリカでは「WIRED」が創刊され、60年代のグローバル・ビレッジやホール・アース・カタログのヒッピー文化の伝統がネットに接続する。インターネットにビッグ・ブラザーの悪夢を見るのか、地球規模でのコミュニケーションを背景とした個人が確立できるのか。個人と全体という古くて新しい問題が浮上してきた時代だった。

 そこに出現した押井守版『GHOST IN THE SHELL』は、ビルボードの週間ビデオ売上ナンバーワンという快挙を成し遂げる。そこで描かれた哲学的で現代的なテーマ、映画的な演出やアクションを、アニメーションという表現で実現したことに、アメリカの観客は度肝を抜かれたに違いない。押井監督が囁いたゴーストが、多くの観客に行き渡ったのは、ビデオという、ブロックバスター的ではないメディア(シェル)によるところが大きい。

 あの当時、このようにエッジが効いた思索的なアクション映画がハリウッドのマーケットで公開されても、カルトな人気は獲得できただろうが、全米ナンバーワンという栄光は得られなかったはずだ。士郎正宗のコミックと同様に、押井守のアニメ版は何度も繰り返して、その含意を咀嚼するタイプの作品だからだ。そのためにも、個人が所有できて何度でも繰り返し鑑賞できるビデオというパッケージ(シェル)は最適だった。単行本やビデオで繰り返し読み、見ることでゴーストが宿るのだ。『ブレードランナー』が映画公開時には興行的に失敗したものの、のちにビデオ化されると再評価され、その人気を不動のものにしたことを思い出させる。『ブレードランナー』のゴーストも、ビデオパッケージのマーケットというシェルに宿ったのだ。

 士郎正宗、押井守という日本のクリエイターによって囁かれたゴーストは、それぞれふさわしいシェルに憑依して拡散し、世界中に宿った。

 では、2017年の『GHOST IN THE SHELL』はどうだろうか?

■悔しいが日本の制作会社では不可能な表現ばかりだ

 アヴィ・アラッドをプロデューサーに迎え、ヒロインの少佐をスカーレット・ヨハンソンが演じる、ルパート・サンダース監督によるハリウッド版の最新作は、どんなシェルにどんなゴーストを宿らせたのか。

 結論を述べれば、ハリウッド映画としての本作は、ゴースト(テーマ)の解釈、見せ方として、ある種の正解に辿りついていた。ハリウッドのブロックバスター映画というシェルが要求する条件を見事にクリアしていたと言えるだろう。

 性別も国籍も、生活している環境も違う多くの観客に訴求することが、ハリウッドの大作映画に要求されていることのひとつだとすれば、今回の実写版は成功している。コミック版、アニメ版の思索的、哲学的な佇まいに尻込みしてしまうような観客にこそ是非見て欲しいエンタテインメントに仕上がっている。

 さらに興味深いことに、原作(ゴースト)と映画(シェル)の関係が、通常とは異なっている。例えば、マーベル・シネマティック・ユニバースは、シェル(映画のルックや、設定、現代に合わせた演出や表現のアップデートなど)に合わせて、ゴースト(キャラクターのアイデンティティやテーマ)も変貌している。しかし本作では、シェルは原作であるアニメ版に驚くほど忠実なのだ。もちろん、最新のテクノロジーによるVFXで、ハリウッドの大作にふさわしいアップデートな表現や演出が施されている。悔しいが日本の制作会社では不可能な表現ばかりだ。だが、最新の技術を駆使しながら、我々が見るのは、アニメに忠実な名シーンの連続なのだ。もちろん、それが悪いわけではない。コミック版、アニメ版のファンである私にとっても、嬉しい驚きであるし、アニメの忠実な再現の裏には、スタッフの原作へのリスペクトがあるに違いない。だが、ファンであるからこそ、あえて言いたい。今作は、原作アニメ、ひいては日本というシェルの再構築であり、スタッフも原作のシェルに閉じこもってしまったのではないかと。結果として、原作のシェルを打ち破ることができなかったのではないか。

■「人間とは何か」から「私とは誰か」へ

 私はハリウッド映画というシェルによって、草薙素子というゴーストが、世界に解き放たれるビジョンこそを見たかったのだ。

 しかし、それはもともと叶わぬ夢かもしれず、この作品の価値を貶めるものではない。通常のハリウッドによるリメイクとは異なり、本作はゴーストであるはずの原作が作品を覆うシェルと化し、ハリウッド映画的な方法論やコンテクストを閉じ込めている。これは非常に珍しいことではないだろうか。興味深いことに、体の左右に一対の貝殻をもつ「二枚貝」の殻(shell)を、日本語では全体で一個の貝と表現するが、英語では上下の蓋それぞれが「a shell」で、一個の貝が二枚の貝殻(two shells)をもつと表現する。今作には、二枚のシェルがある。一枚はハリウッドのブロックバスター的な表現と方法論であり、もう一枚は原作へのリスペクト故に生じたシェルである。この二枚のシェルに挟まれて、草薙素子というゴーストは、 行き場を失ってしまった。実写版『GHOST IN THE SHELL』の世界で永遠回帰するゴーストになってしまった。

 そのせいで、本作のテーマは「私のアイデンティティ」をめぐるものになってしまったのではないだろうか。

 コミック版、アニメ版では心身の二元論を解体し、人間の自由意志(心)について問いかける哲学がテーマのひとつだった。人間とは何か、という命題があったのだ。しかし、本作ではそのテーマは「私とは誰か」に変奏されている。ネタバレを極力抑えて言えば、本作はネットワークが十分に発達した未来世界で描かれる『ボーン・アイデンティティー』なのだ。「私」の記憶とアイデンティティを、スカーレット・ヨハンソン演じるヒロインが探す物語なのだ。

■2017年に生きる私たちは「ネットは広大だ」とはつぶやけない

 提示される「私とは誰か」という謎は、周到に張られた伏線が回収されると共に見事に解決され、そのことによるカタルシスも得られる。何より、個のアイデンティティの揺らぎを背負いながらも、爽快なアクションを演じるスカーレット・ヨハンソンの美しさを見るだけでも十分なくらいだ。私たちを120分間の非日常に連れて行き、未知の体験をさせてくれる満点のエンタテインメントと言っていい。しかし、映画館を出た私たちが、日常に戻るように、この映画の登場人物たちも、シェルにとどまる。ゴーストはシェルから抜け出さないのだ。コミックとアニメのラストで素子が「ネットは広大だわ」とつぶやいた、あの広がりはない。

 しかし、それはこの映画のせいではないだろう。

 2017年に生きる私たちは「ネットは広大だ」とはつぶやけない。1995年には、ネットはまだフロンティアだったが、もうそうではないことを私たちは知っている。スマートフォンを肌身離さず、個人とネットが常時接続している世界に生きている私たちにとって、ネットは広大ではない。ネットは新たな分断をつくり、新たな争いの種をつくり、拡散する。そこは個人を閉じ込める窮屈な場所になってしまっている。そのような状況にあって、新しい草薙素子のゴーストは、どこに宿るのか。その場所はどこか? 新しいシェルを探すためには、「私」という個人のアイデンティティが、個人のシェルに縮退せざるを得ない状況を描くしかなかったのだろう。

 その意味で、本作は通過点なのだ。ゴーストを描くことは、コミックやアニメが果敢に挑戦したように、「人間とは何か」という問題への挑戦なのだ。すでに世界(シェル)は閉じている。20世紀的な革命の夢(社会主義革命からホール・アース・カタログのヒッピー革命を経て、インターネットによる革命の夢)の挫折の後で、人間(ゴースト)は閉じた容器(シェル)に合わせて変わるしかないのか。本作はその問いの手前で立ちすくんでいる。閉じたシェルを壊し、新しいゴーストを解き放つためには、ブロックバスター映画というシェルの外に出なければならないのかもしれない。

INFORMATION

「ゴースト・イン・ザ・シェル」

ブルーレイ+DVD+ボーナスブルーレイセット(※初回限定生産)
価格:3,990円+税
発売・販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント

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(小島 秀夫)

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