一人の女性の受難と復讐を描いた衝撃作

一人の女性の受難と復讐を描いた衝撃作

深田晃司監督

 つねに社会を刺激する映画作品を発表し、国内外で大きな注目を浴びる深田晃司監督。2016年にはカンヌ国際映画祭で『淵に立つ』が「ある視点」部門審査員賞を受賞、昨年はインドネシア、フランスとの合作『海を駆ける』も話題を呼んだ。深田監督の最新作『よこがお』は、一人の女性が陥った苦難を通して、現実世界が孕む暴力性を見る者に突き付ける衝撃作。主演は、『淵に立つ』にも出演した筒井真理子さん。

 筒井さんが演じるのは、ある事件を機に突然「加害者」として世間から激しい糾弾を受ける女性、市子。訪問看護師の仕事を奪われ、結婚も破談になった彼女は、自分を陥れた人物への復讐を決意する。社会の理不尽さを一貫して描いてきた深田監督に、最新作『よこがお』の製作経緯から、映画と観客の関係性、俳優の演出術についてお話をうかがった。

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■筒井真理子さんの横顔に惹かれて

――『よこがお』は筒井さんの横顔からインスピレーションを受けて作られたそうですね。

深田 『淵に立つ』公開当時に筒井さんが受けた取材記事が新聞に載っていたんですが、その横顔の写真がすごくきれいで。もう一度一緒に映画を作りたいと思い、すぐさま出演オファーをし、脚本も彼女に当て書きする形で書き始めました。だからタイトルもそのまま『よこがお』。筒井さんと話したことがもとで脚本に書き込んだ部分もあるし、彼女との共作的な部分もありますね。

――そうした関係性で俳優さんと一緒に映画を作るのは初めての経験ですか?

深田 僕の映画によく出演している古舘寛治さんとは、個人的に非常に親しいということもあり『淵に立つ』でもざっくばらんに意見交換をしながら撮っていましたが、主演の方と脚本完成前から出演OKをもらいここまで深い関係性で、というのは初めてだと思います。

――筒井さんという俳優さんのどういった部分にそこまで引き込まれていったんでしょうか。

深田 僕は筒井さんを市子ならぬイチローなみの天才的な女優さんだな、と思っていて(笑)。現場では、彼女の脚本の解釈の豊かさ、演技への真摯な取り組み方、すべてに驚かされました。脚本をどう解釈するかによって、筒井さん本人が抱えている複雑さ、深みのようなものが演技にも反映されていくんです。脚本のすべてのシーンにびっしりと書き込みがされているし、訪問看護師の所作などもしっかり勉強してこられる。あるシーンでは、いくつかの演技を試してみたいとお願いされ、3つのパターンで撮影したあとで一番よいものを選ぶこともありました。筒井さんと真剣に向き合いながら映画を作り、俳優とは個性を持った素晴らしい表現者だと改めて実感しました。

――ある日突然暴力的な事件が起こり、そこから罪と罰や赦しをめぐる物語が始まる構成など、前々作である『淵に立つ』とのつながりを強く感じました。

深田 『淵に立つ』や、それに『海を駆ける』ともどこか連続性のある作品だと思っています。『淵に立つ』では浅野忠信さん演じる八坂によって突然暴力にさらされる。『海を駆ける』では津波という自然災害そのものの暴力性や、ディーン・フジオカさん演じるラウの存在によって暴力が体現されている。理由もなく人生が壊されていく理不尽さは、世界が本質的に抱えているもの。いつも自分が普遍的だと思う物語を書いているだけですが、世界にカメラを向けるなかで、自然と同じテーマに行き着くのかもしれません。

■復讐の物語というより、人生の空回りを描いた

――『よこがお』は、筒井真理子さん演じる市子の復讐が進む過程で徐々に彼女の過去が明らかになっていきますが、監督は、この映画をいわゆる復讐劇として作られたのでしょうか。

深田 復讐の物語というより、人生の空回りの物語かなと思っています。散々空回りをしたあげく全部何の意味もなかったと悟る。それでも人生はただ続いていくという現実を描いたつもりです。

――市子はある意味で非常に可哀想な人にも見えますが、彼女が幼少期の甥・辰男に対してしたこともかなりショッキングに描かれていますよね。あの行為があることで、彼女がただの無実の被害者とは言えないのかもしれないという感覚が観客にも芽生えてしまう、非常に怖いシーンだなと思いました。

深田 市子は可哀想な被害者である一方、まったく罪のない人間と言い切れない部分もあるんですよね。市子自身は軽いこととして扱っているけれど、辰男は実際にそのことで深く傷ついたのかもしれない。そもそも基子に促されたとはいえ市子がずっと口をつぐんでいたのは、彼女が持つ弱さのせいであり、その弱さこそが罪だったともいえる。でもその弱さは人間誰もが抱えるものだし、そもそも現実世界は、善と悪、罪と罰という二項対立では測れない。そうした曖昧さをそのまま描きたかったんです。

――市川実日子さん演じる基子の市子に対する視線は、いわゆる恋愛的感情と見ていいのでしょうか。

深田 見る人によって捉え方は違うと思いますが、僕としては恋愛感情と言ってもいいんじゃないかと思います。基子は、市子が好きになってだんだんと距離感を見失っていく。同じように、辰男も一目惚れがきっかけで、道を踏み外してしまう。意識していたのは、人が人を好きになることの難しさです。

■映画が見せるのはあくまで人生の一過程

――『淵に立つ』も『海を駆ける』もある意味で宙に浮いたまま映画は終わっていて、ラストシーンのその後は見る者に委ねている部分が大きいですよね。『よこがお』でも市子たちのその後は描かれませんが、そうした曖昧さを残した終わり方は、監督にとって大事な部分なのでしょうか。

深田 それは毎回そうでありたいと意識して作っています。映画が見せるのはあくまで人生の一過程。映画の前にも後にも、彼らの生きる時間は続くことを感じてもらいたい。そういう思いが、ある種の曖昧さとして残るのかもしれません。

――監督は『淵に立つ』以来、映画と一緒に小説も同時に発表されています。小説のほうでは、映画では曖昧だった部分がもう少し明らかにされているように感じますが。

深田 そうですね。映画は、あくまで目で見えるものしか映らないというカメラの本質的な特性に依存していて、心を映すためには俳優の演技や台詞によって示す必要がある。ただ、そこに頼りすぎるとあまりにも説明的になってしまうので、できるだけ観客の想像に開かれたものになるよう人物関係や物語構成を気にかけて作っています。小説の場合は、映画に比べればより内面描写がしやすい表現形式なので、自分自身の解釈を多少は書くことができる。ただこれもまた僕の解釈でしかないんですよね。監督と作品の関係ってやっぱり親と子の関係に似ているなと思っていて。親は子供の一番身近にいる存在かもしれないけど、結局、子供のことなんて全部はわかってないじゃないですか。僕が言うことが正しい答えではなく、あくまでも自分にとってはこう見えています、というふうに捉えてほしいんです。

■俳優が言葉にしやすい台詞を書くことが監督の重要な仕事

――深田監督の同世代やその下の世代の監督さんたちの活躍が近年目覚ましいですが、みなさん、演技におけるリアリティをどう演出をするかという点にそれぞれの個性が強く出ているように思います。たとえば『寝ても覚めても』の濱口竜介監督は、撮影に入る前に俳優さんたちと数週間をかけてワークショップやリハーサルをしたことが話題になりましたし、『きみの鳥はうたえる』の三宅唱監督の場合は、俳優さんたちと過ごす現実での時間を映画にも強く反映されているのかな、と感じました。深田監督の俳優さんへの演出とはどういうものなんでしょうか。

深田 自分の場合は、今名前が挙がった濱口さんと三宅さんを例にとれば、ちょうどその中間くらいにあたるのかなと。基本的には、監督が演技を振り付けすぎないように、俳優たちがなるべくナチュラルな状態でいれるようにしたいとは強く思っています。一方で、俳優たちがナチュラルであることが映画的にリアルであるとはかぎらない。だからそのせめぎ合いですね。あとはいい俳優さんをキャスティングすること。それが一番重要かもしれない(笑)。欧米だったら映画の前に数ヶ月リハーサルをすることも可能ですが、日本ではそういう環境をつくるのはとても難しく、どうしても俳優さん自身が持っている力に頼らざるを得ない。だからこそ、俳優自身がリラックスして自分自身を出せる環境をつくる、彼らが言葉にしやすい台詞を書くことが監督の重要な仕事になります。

――言葉にしやすい台詞はどうつくりあげていくのでしょうか。

深田 まず脚本を書いて、それが生理的につながる会話になっているかどうかを見ていきます。それからリハーサルでの俳優さんたちの様子を見ながら、この台詞はどうも言いづらそうだ、だったらこうすれば言いやすくなるんじゃないか、と修正していく。逆に俳優さんは少し言いづらそうだけどあえてそのままでいってくださいとお願いすることもあります。

――非職業俳優の方たちの起用や演出についてはどうお考えですか。

深田 本質的には、映画にとって求められるのは、ただカメラの前で魅力的な被写体であるかどうかだけ。必ずしも職業俳優である必要はないし、もっといえば被写体は人間でなくてもいいわけです。水の揺らぎや風に揺れる木でも、魅力的であればその瞬間に映画として成り立つ。キアロスタミやブレッソンだって、職業俳優ではない人たちの素晴らしい演技を引き出しているわけですし。ただ、非職業俳優を起用するためには、何ヶ月、何週間とじっくり役作りをする時間をつくれる、その人達にあわせた脚本作りができる、そういう環境と時間が必要です。濱口さんの『ハッピーアワー』みたいにワークショップの段階から長い時間をかけて作れたらいいなとは思いますが、なかなか難しい。今の日本の映画制作システムのなかでどうやってよりキャストの多様性を広げていくか。これは今後の課題ですね。

――俳優としての資質の違いというよりも、制作体制の違いということですね。

深田 一方で、職業俳優のおもしろさは、考えられる被写体であるということですね。彼らは、主体的に脚本を解釈して、こうなったらおもしろくなるんじゃないかと考えながら演じることができる。表現者としての彼らから返ってくるものを作品に反映させていくおもしろさというのはたしかにあって、筒井さんとの仕事はまさにそういう経験でした。

■小津安二郎の『浮草』をやりたくて

――俳優さんがみな素晴らしい演技を見せる一方で、監督は一番熱のこもった演技をあえてカメラの中心から外しているようにも感じました。クライマックスのシーンでも、市子が叫び出すといった身体的な演技を見せずに、ある音を象徴的に響かせるという形を取っていますね。

深田 映画って、観客の方々との想像力の駆け引きだと思うんです。ふだん生活をしていても、他人の心のありようなんて、表情や雰囲気から想像するしかないですが、同じような距離感でお客さんと登場人物とが向き合ってほしい。だから俳優の演技についても、なるべく描きすぎないように、説明しすぎないようにとは意識しています。経験豊かな俳優ほど自分をコントロールできるので、いまこの人物はこういう感情だからこういう表情をしようとか、こういうキャラクターだからこういう発声をしようと器用に演じてくれるんですが、それが逆に人物や物語を説明しすぎてしまうこともある。だから俳優さんには、「もうちょっと演技を抑えてください」と言うことも多いです。もちろん優れた俳優さんはそれをすぐに理解してくれます。市子の最後の場面にしても、彼女の感情がイコールで画面に出てくるような芝居は必要ない、彼女があそこにいることで十分に伝わると思って、あのような演出にしました。

――夜の公園で市子と基子が話し合っているとき、基子の顔を真っ黒な影で隠すのにも驚きました。

深田 あの表現が大好きでずっとやりたかったんです。昔から何かというと脚本に「顔は影になって見えない」と書いていたんですが、実際にやろうとするとなかなか難しくて。つげ義春なんかよくそういう表現をするんですが、漫画だとべたで塗ればいいんだけど、映画ではよっぽど照明をつくりこまないと、そうそう真っ暗にはならないんですね。今回は、ロケーションを選んで、照明部に後ろに街灯を立ててもらい、街灯の光で逆光になる状況を作り込みました。スタッフにこれをやりたいんですって見せたのは小津安二郎の『浮草』です。若尾文子と川口浩が大事な話をしている場面で、カットバック(切り返し)すると川口浩の顔が真っ黒になってるというすごい場面です。

■女性の受難劇

――『よこがお』は、理不尽な出来事に巻き込まれて不幸な立場に落ちていく女性の受難劇のようでもありますね。プレスに載った監督のインタビューでは、「現実の反映として、あえて女性の受難劇を書いた」ということをおっしゃっていましたが、女性の悲惨さを描くことについて、監督はどうお考えでしょうか。

深田 普段脚本を書く際は登場人物の性別を意識しないようにしています。ただ、たしかに、文学でも映画でも悲惨な目に遭うのはいつも女性たち。たとえば僕は以前、バルザックの小説をもとに『ざくろ屋敷』という作品を撮りましたが、これも恋に破れて死んでいく女性の話。フランス文学ってそういう話がとにかく多い。男性にとって未知のものとはすなわち女性である、という意味での探究心もあったんでしょうが、男性目線の下で女性の悲惨さが娯楽として消費されてきたとも言えるわけで、そのことへの疑問は抱えています。

 一方で、女性の側に立って女性を描くために男性よりも強い女性を描く、という流れに対しても疑問は感じていて。日活ロマンポルノでも強い女性として男勝りな女性が登場する話がよくあったんですが、それはそれで男性目線によるゆがみなんじゃないかと思うんです。今の日本社会を見ればわかるように、女性は社会においてどうしたって弱い立場にある。にもかかわらず、フィクションのなかでまるで女性のほうが強い立場にあるかのように描いてしまうのはどうなのかなと。もちろん理想としてそれを示し、いずれこうなるよう目指そうね、ということならいいかもしれないけど、結局ただのガス抜きになってしまうんじゃないかという思いがあって。

 アメリカ映画でも、いわゆるポリティカル・コレクト(PC)によって黒人が会社の上層部の人間として多く登場するようになったときに、現実では黒人の人たちはなかなか社会進出が進んでいないのにこれではまるでアメリカ社会では人種差別は解決されているかのように見えてしまうのではないか、という批判があったそうです。そうしたイメージの拡散はある意味で危険だと思います。

――今の発言には少し驚きました。普段の深田監督の発言などを聞いていると、むしろアメリカ映画に象徴されるようなPC的な配慮については賛成されるのかと思っていたので。

深田 いや、もちろん大枠としては賛成なんです。マーベルシリーズも大好きですし。数千年にわたる差別を減らし男社会の価値観をたった百年で払拭するための荒療治として十分に有益だとは思っています。ただ、ロールモデルとして、強い女性や地位を得たマイノリティを当然のように描く映画が量産されることも、ある意味で短絡的なバランスの取り方なんじゃないかということです。たとえば溝口健二の『西鶴一代女』はまさに女性がどんどん不幸な境遇に追いやられていく受難劇ですが、これは原作者の井原西鶴が、当時の社会のなかで圧倒的に弱い立場にあった女性の境遇を忠実に描いていた面もあるわけです。PCももちろん大事だけれど、現実において弱い者は弱い者として、その現状を映画に率直に反映させることも重要だと思う。やはり芸術は現実の鏡ですから。

ふかだこうじ/1980年東京都生まれ。2016年、『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞。17年、芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。18年、『海を駆ける』公開。同年、仏の芸術文化勲章「シュバリエ」受勲。『淵に立つ』、『海を駆ける』に続き本作の小説版も執筆。

INFORMATION

『よこがお』
7/26(金)より、角川シネマ有楽町、テアトル新宿他全国ロードショー
https://yokogao-movie.jp/

(月永 理絵)

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