「恥ずかしい、都の西北」 中野翠×東海林さだお 早稲田出身対談

「恥ずかしい、都の西北」 中野翠×東海林さだお 早稲田出身対談

©志水隆/文藝春秋

ダンスパーティーでの思わぬ失敗、イメージと違った学生運動──。
早稲田大学出身の二人が、恥ずかしい青春の日々を語り合う。

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東海林 早稲田もすっかり様変わりしましたね。僕らの頃は、建物も5階建てくらいだったのが、いまは高い建物が増えて、大学の中にエレベーターまである。

中野 私が学生だった60年代後半は、このあたりに喫茶店がたくさんあったのに、当時よく行っていた「ジャルダン」も「キャビン」も「モンシェリ」も、なくなってしまいました。茶房(「茶房 早稲田文庫」)がなくなったのが80年代のようだから、その頃に大きな変化があったみたい。

東海林 中野さんは『あのころ、早稲田で』のあとがきに、大学時代のことを書くのは恥ずかしかったと書かれていましたが、どういうところが恥ずかしかったんですか? 早稲田ってことが?

中野 早稲田が、というわけではなく、完全に、私個人の問題。当時の私は今よりもっと軽挙妄動だったので。

東海林 政経学部に入ったことが? それとも、社研(社会科学研究会)に入ったこと?

中野 日々の行動が軽挙妄動。世間知らずで頭でっかちで。大体、生活実感と全く関係のないところで左翼になったということからして……。

東海林 相当のめりこんだんですか。

中野 のめり込むほどではなかったんですけど、本をちょっと読んだくらいで左翼気分になったのが恥ずかしい。

■日本人は謙虚なのにあんな「ドーダ!」の歌を誇らしげに歌うなんて

東海林 じゃあ、早稲田の学生であるということ自体は恥ずかしくない?

中野 それは恥ずかしくないですね。でも、『都の西北』を歌うのは恥ずかしかった。

東海林 あれはすごい。僕は、早稲田大学校歌ってのを初めて知ったとき、こんなことでいいのか! と思いましたよ。日本人って謙虚なのに、早稲田大学校歌は「俺が俺が」って感じ。あんなすごい「ドーダ!」の歌を、みんな誇らしげに歌うなんて。歌詞、覚えてます?

中野 「都の西北、早稲田の森に」……。ここまでしか覚えてない。

東海林 「聳(そび)ゆる甍(いらか)はわれらが母校」。他にも、「われらが行手は窮り知らず」とか、言いたい放題だよね。

中野 フフフ、確かに。他の大学では、校歌をこんなに晴れ晴れとは歌わないかも。

東海林 なんで校歌が自慢になっちゃったんだろうね。折につけ歌うんですよ。結婚式でも歌うし。

中野 以前はそういうのを見ると「フンッ」て鼻白んでたのが、最近は年のせいか、「いいわね、若い人たちは」なんて思っちゃうんです。

東海林 それじゃダメです。「そんなのよくない!」ってテーブル叩かなきゃ。

中野 年をとって、性格が丸くなっちゃった(笑)。でも、今の学生はもっとしらけてるんじゃないかな。昔は制服に制帽だったようだし、そういうのでエリート意識を確認していたようなところがあったのかな、と思います。

東海林 僕の頃は、6割ぐらいがまだ角帽をかぶって、制服を着ていましたね。

中野 私は1965年入学で、東海林さんとは十年くらい違うんですけど、その頃には学生服の人はもう少なかった。

東海林 僕の頃は制服で、襟に「文」「商」「政経」と書いてある学部のバッジをつけてました。だから、ヒエラルキーがひと目でわかるんです。向こうから政経の人が歩いてくると、文学部の僕は、道の真ん中をあけるために脇へ避ける。

中野 え、ほんとに?

東海林 ウソです。でも、みんな、だんだん制服を着なくなりましたね。

■早稲田「中退」はかっこいい?

中野 東海林さんは学生時代、漫画研究会にいらっしゃったんですよね。

東海林 よく、経歴紹介に早稲田の漫研の創立メンバーだと書かれるんですけど、僕が入学したときには既に漫研はあったんですよ。できて1、2年くらいでした。園山(俊二)さんが2年先輩で、福地(泡介)さんは同級生でした。

中野 じゃあ、園山さんが創られたんですか?

東海林 園山さんと、その上の人たちですね。だけど、いちいち訂正するのが面倒くさくて(笑)。

中野 当時の早稲田の漫研には、才能が集まっていたんですね。部室は学生会館にあったんですか。

東海林 学生会館が、当時は4階建てでしたが、地下が食堂になっていて、その上に部室がありました。

中野 社研の部室は学生会館の4階の一番奥にあったんです。じゃあ、時期はずれていますが、同じところで過ごしたということですね。嬉しいな。漫研は何人くらいいたんですか?

東海林 20人くらいでしたね。早稲田祭の時は、商学部の5階で「漫研会場」と垂れ幕をたらして、来た人の似顔絵をハガキに描いていた。1枚10円で、その売り上げでコンパをしてね。漫研の打ち上げはいつも蕎麦屋の「三朝庵」でした。

中野 三朝庵、今も健在ですよね。懐かしい。

東海林 カツ丼か天丼に、なぜかあの頃は酢の物がついたんです。あとタクアン。会費は500円くらいだったかな。他にも、あの頃はよく定食屋へ行きました。前野書店と道路を挟んで大きい食堂があって、そこにはしょっちゅう行きましたね。園山さんが真向かいの大工さんの2階に下宿していたから、朝、学校に行く前に園山さんを起こしに行って、そのままその定食屋でおごってもらって。

中野 私は自宅から通っていたので、大学の近くに住んでいる人が羨ましくて。お昼ご飯も家で食べてくるので、定食屋にはあまり行きませんでした。その代わり、喫茶店にはよく行きましたね。教室にはほとんど行かずに、部室か、喫茶店にばかり行っていました。

東海林 早稲田大学は母校っていう感じはします? 懐かしい気持ちというか。

中野 部室や喫茶店は、やっぱり懐かしいですね。そこでいろんな面白い人に出会えたし。教室にはあんまり行ってなかったから、特に愛着はないんですけど。東海林さんより年長世代の野坂昭如さんと野末陳平さんが「ワセダ中退・落第」というコンビを組んで、冗談で漫才をやっていたことがあった、こういうのがいかにも早稲田大学らしいですよね。

■今でも「この中に偽学生が一人いるぞ」って指摘される夢を見る

東海林 でも、僕はやっぱりこだわってますね。「どうせ俺は中退だ」って。

中野 嫌ですか? 早稲田だったら、五木寛之さんやタモリさんのように中退で大成した人がたくさんいるし、「中退」もかっこよくないですか?

東海林 僕の場合、それは関係ないんです。中退に至るまでが精神的に辛かったから。もう中退しなきゃならないというのは分かってるのに、ズルズルと大学にいることが辛かった。昔はもぐりで大学の講義を聴きに来ている人を「てんぷら学生」って言ったんですが、その心境ですね。偽学生。

中野 でも、それがのちの東海林さんに繋がっていますよね。やましさでイジイジしているというのが。

東海林 いろんな人の経歴を見て「○○大卒」と書いてあると、それだけでああ偉いな、って思います。僕は経歴に「早稲田大学中退」って書かれるんですけど、僕の場合は授業料未払いなので、中退じゃなくて「除籍」というんだそうです。

中野 当人が意思を持って中退するのとは違うんですね。

東海林 そう。今でも、「この中に偽学生が一人いるぞ」って指摘される夢を見ます。

中野 あら、それは重症。大学を辞める時は、ご両親にどのように伝えたんですか。

東海林 うやむやです。ずーっと曖昧にしてました。だから今もその時の気持ちを引きずっているのかもしれません。中野さんは、早稲田が第一志望だったんですか?

中野 そうですね。左翼だったので、歴史を動かしているのは経済だ、まず経済システムを学ばなければ、と思って早稲田の政経を受験しました。でも、入学してすぐに「ちょっと違ったな」と感じて。

東海林 現役だったんですか?

中野 はい。

東海林 ああ、すごい。僕は一浪しました。

中野 東海林さんは、なぜ露文に?

東海林 当時は、専修ごとに入試があったんです。文学部だったら英文、独文、仏文、露文というふうに受験の段階で分かれていて、競争率が全然違う。その頃、英文は26倍で、露文が3倍だった。その下に東洋史というのがあって、そこは2倍くらいだったかな。

中野 よく覚えてらっしゃいますね。

東海林 そればっかりチェックしてたから(笑)。でも、あの頃は受験情報ってほとんどなくて、露文というのは日本語に翻訳されたロシア文学を勉強するもんだと思ってた。なのに、入学したらロシア語の教科書を買わされて、途方に暮れちゃった。で、2年生の時かな、露文はダメだ、転部をしようと思って、先生の家にトリスの瓶を持って訪ねて行ったんです。そうしたら先生が僕の成績表を見て「不可が三つあるから転部はダメだ」って。そんな規則があったんでしょうね。

中野 せっかくトリスの瓶を持っていったのに。どの学科に移ろうとしたんですか?

東海林 東洋史です。一番下の。

中野 一番下の、って(笑)。私も文学部に転部をしようとしたんです。でも、書類不備でダメで、あっさり諦めちゃった。だから、経歴に「政経学部卒」とあると、なんだかやましい気分になってしまいます。学歴詐称的な。

■入学したらまずダンス

東海林 露文は全部で30数人くらいで、そのうち女性が3人ほどいましたね。漫研にも一人女の子がいたんだけど、みんなでイジってたら辞めちゃった。

中野 そういえば、漫研の園山さんと福地さんはかなり男前でしたよね。駆け出しのライターだった頃に福地泡介さんに取材したことがあるんですけど、さっぱりした感じで、かっこよかった。

東海林 園山さんはおおらかな人でね、誰が見てもモテる。そんな人たちと常に一緒にいて、僕がどんなに悔しい思いをしたことか……(周りを見て)「うんうん」じゃない!

中野 ついうっかり(笑)。

東海林 中野さんの頃は、女子はもうちょっといた?

中野 政経は、私の頃はまだ女性は少なくて、学部全体で10人いるかいないかくらいだったと思います。

東海林 僕らの頃は、大学に入るとまずダンスだったんです。

中野 どういうダンスですか?

東海林 当時はダンスといえば社交ダンス。たいていの駅のそばに、社交ダンス教習所がありました。4月にそこでダンスを習って、9月頃になると、学生が主催するダンスパーティーがたくさんあった。今の合コンみたいなものです。他校から女子大生が来るんだけど、慶應のパーティーがすごい人気でね。それが悔しかった(笑)。

中野 じゃあ、東海林さんは一通り踊れたんですか?

東海林 ブルース、ワルツ、クイックステップ、それからタンゴも習いましたね。まずブルースなんだけど、教室だと、床に白墨で足跡を描いてくれるからその通りに進めばいいんです。ステップを踏みながら、壁に向って45度で進みなさい、と習う。一応それを覚えてパーティーに行くんだけど、会場には、白墨がないんですよ。

中野 そりゃそうだ(笑)。

東海林 それで慌てちゃって。45度っていっても、そこらじゅうに壁があるわけじゃないし。

中野 ダンスパーティーでは、男の人から女の人に声をかけるんですよね。

東海林 そう。声をかけるまでが大変。逡巡に逡巡を重ねて、やっと意を決して声をかけたら、「今ちょっと……」って断られて。それが3回続くと、もうね。

中野 私たちの頃は、ダンスパーティーはなかったのでは? 中学時代にツイストが流行って、学生時代はゴーゴー喫茶やディスコができたりしたけど、私は行かなかった。

東海林 僕の頃は、雀荘と同じくらい、ダンスホールがあったんですよ。

■デートの前日は予定表を作って予行演習

中野 東海林さんは、学生時代、ガールフレンドはどうだったんですか?

東海林 早稲田の時は、一応。

中野 (──固唾を呑んで)「一応」。

東海林 青春時代の、淡い。

中野 「淡い」。……デートは、どういうところに行くんですか?

東海林 まず日比谷の映画館に行って、公園を散歩して、喫茶店に行く。予定表を作って、前の日に予行演習しました。

中野 え、下見するんですか!?

東海林 しましたよ。僕、兄弟で一番下なんです。だから人をリードして一日過ごすという経験が一回もなくて。下見するし、話題も考えておかなくちゃいけないから、前の日から大変です。中野さんも、学生時代にデートしたでしょう?

中野 でも、こっちはただ言われるがままにしてるだけだったから。

東海林 男は大変なんですよ。モテようと思って、漫研のほかに、自動車部にも入ってね。

中野 えっ、そうだったんですか。

東海林 あの頃、軽井沢に自動車部専用の施設があったんです。制服が白いデニムのつなぎで、角帽をかぶって。大型トラックとかを運転してました。

中野 女子部員はいたんですか?

東海林 女子はゼロ。だから、男同士で江ノ島までドライブに行ったりしてました。せっかくモテようと思って入ったのにね。

中野 東海林さんが早稲田にいらした頃は、演劇はご覧になりました?

東海林 演劇は全然。映画ぐらいです。

中野 私は設立まもなくの「早稲田小劇場」の演劇を観たんですが、衝撃的でした。喫茶店の「モンシェリ」の二階を劇場代わりにしていて、床に座って観るんです。既成の新劇とはまったく違って、特に、主演の白石加代子さんの怪演にはびっくりしました。他にも、アートシアター新宿文化(ATG)で観たゴダールの映画や、「ガロ」のつげ義春にもショックを受けました。

東海林 「ガロ」は、知ってたけど、僕とはちょっと世界が違うなと思ってあんまり接近しなかったですね。中野さん、当時は、けっこうオシャレしてた?

中野 左翼だったから、オシャレなんてプチ・ブル的かなと思って、一生懸命我慢してました。でも、学生時代の後半ぐらいから考えが変わってこだわりなくオシャレできるようになって。在学中にツィッギーのミニスカートが流行ったので、入学した時と卒業した時ではスカートの長さが10センチは違いました。

東海林 今みたいに、「卒業した」なんて軽く言えるところがね。

中野 ちょっと繊細すぎますよ。

東海林 ほんとに「卒業」に敏感なんです。

中野 敏感を通り越して過敏(笑)。

東海林 半世紀以上経っても、それは抜けませんね。

中野 東海林さんの頃は、60年安保の前ですよね?

東海林 ずっと前です。だから、学生運動はメーデーの時ぐらいでした。露文は左翼系の人が多かったので、メーデーというとみんな張り切ってね。4人くらいで1本の棒につかまって、「わっしょいわっしょい」って言いながら千駄ヶ谷公園まで歩くんです。で、警官が並んでいると興奮する(笑)。

中野 それはそうですよね。

東海林 公園に着いたら、みんな角帽と詰襟で記念写真を撮って帰ってくるっていう時代だった。当時の写真を見ると、「Мир」(ミール)って書いたプラカードを、ロシア語で「平和」って意味なんだけど、これを持って嬉しそうに写ってる。初めてのデモで、楽しかったですよ。

中野 セレモニー的だったんですね。

■革マル派が教室にやって来た

東海林 中野さんの頃は、もっとすごかったでしょう。

中野 入学した時はデモも穏やかだったけど、その年の秋から早稲田闘争があって、やがて他の大学にも波及して過激化していったので、卒業する頃には部室にヘルメットが置いてある状態に。

東海林 時代ってすごいですよね。学生運動って、具体的にどういうことをしてたの?

中野 私は漠然と「学生運動をやりたい」という気持ちがあったんですけど、具体的なイメージはなかった。それで実際に紛争が始まると、女の出番は無し。だって、ベンチを何段も積んで校舎の入り口を封鎖する「ロックアウト」なんて、やり方も知らないし。力仕事だし。学内泊り込みの不潔さには耐えられそうもないし。

東海林 じゃあ、中野さんは何をしてたんですか?

中野 部室に居て……。うーん、何をしていたんだろう。

東海林 悶々と。

中野 悶々としてましたね。部員たちが論争しているのを聞いて、ちょっと口を挟んでみたり。逮捕された友人のために警察に行って差し入れをしたり。学生運動で女の出番として要求されるのは、救援対策なんです。

東海林 ご飯を準備したりとか?

中野 そういう人もいたかもしれないけど、逮捕された人たちに関しての情報収集とか差し入れとか。怪我した人たちの介抱とか。戦争の時と同じ構図ですね。

東海林 じゃあ、そういうことをやったんですか?

中野 私は、ほんのちょっとだけ。人の世話をするということが嫌いだし、恥ずかしくて。自分がイメージしてたのとなんか違うな、っていう感じ。

東海林 他に、学生運動をやっている女性もいたわけですよね。

中野 皆の前に立ってアジ演説をしていたのはほとんど男だったんだけど、たまに女の人も。その中に一人、教育学部の女の人で、とても説得力のあるアジ演説をやっている人がいて、偉いなと思っていました。でも、私はそういうことをやりたかったわけじゃなくて。

東海林 で、何をやりたかった?

中野 それが分からない。ただ、もう、「こんなはずでは」っていう感じでした。高校時代に柴田翔さんの『されどわれらが日々──』なんかを読んで、漠然と、学生運動ってどんな感じなんだろう、その渦中に入りたい、みたいな気持ちはあったんです。でも、いざ始まってみれば、私の苦手なことばかり(笑)。私が男の子だったら、雑魚寝して泊まり込みとかも喜んでやったと思うんだけど、さすがに女だから、ちょっとな、って。

東海林 中野さんは、お嬢さんだったんですね。

中野 世間知らずという意味ではね。それがコンプレックスだった。だから、本を読んだりして少しは理論武装をしたつもりだったんだけど、現実に活動の基盤がなかったし、やっぱり頭でっかちだった。それに、実際に運動が始まってみると、やることは大局的なことじゃなくて、いわゆる「女房役」みたいなことで。そういう地道なことが苦手な私は、現実では何もできなかったし、やる気もなかった。

東海林 やる気もない(笑)。じゃあ、社研の人たちはすごく迷惑だったんじゃないですか。

中野 そんなことはなかった。基本はマルクスやレーニンの著作の読書会なので、セクト色を押し出すことは、みんな、遠慮していたから。でもプライベートな形ではセクトへのオルグはあったみたい。私が社研に入ったというのをすぐ聞きつけたらしくて、革マル派が教室にやって来て、私をオルグしようとしたんです。

東海林 どういうことを言うの?

中野 私はサッと逃げたんだけど、校舎を出ようとしたら、今度は、後に宝島社の社長になる蓮見清一さんが出入口のベンチで待ち構えているわけ。それで、「ちょっと話しようよ」と声を掛けられて、一応座って聞いてたけど、話をするというより一方的に自説を展開されるばかりで、私は全然何が何だか分からなくて。

東海林 声をかけるのも、ダンスパーティーとまた全然違いますね。色恋沙汰なし。

中野 でも、もしかしたら、ナンパの仕方が変わっただけなのかもしれない。

東海林 今から思うと、学生時代はどういう4年間でした?

中野 世間に出るまでの、4年間の執行猶予だったと思います。当時はもう、何がなんだかわからないって感じでしたけど、後から考えると、走り出す前のトレーニングみたいな時期でした。

東海林 僕は、漫研に入ってからが楽しかった。大学って決まった教室がないからどこに行っていいかわからなくて心許無い感じがしていたけど、漫研に入って、そこに安住の地を見出すことができたし、仲間もできた。

中野 私は勉強のほうは全然ダメでしたけど、面白い人たちに会えたのは大学のお蔭だと思います。あと、大学が放っておいてくれたのもありがたかったですね。

東海林さだお(しょうじ・さだお) 1937年東京生まれ。早稲田大学露文科中退。97年菊池寛賞受賞。2000年紫綬褒章受章。新刊に『ガン入院オロオロ日記』。

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中野翠(なかの・みどり) 1946年生まれ。埼玉県浦和市出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、出版社勤務などを経て文筆業。新刊に『あのころ、早稲田で』。 

◎写真 志水隆/文藝春秋

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※この対談は「オール讀物」2017年8月号に掲載されています。

(「オール讀物」編集部)

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