【DeNA】背番号5・倉本寿彦に、いま、会いにゆきます

【DeNA】背番号5・倉本寿彦に、いま、会いにゆきます

©文藝春秋

■平凡な日常はある日、突然に終わりを迎えた

 クローゼットの一番奥に、そのユニフォームは眠っている。夫も子どもも知らない、私だけの秘密。躑躅色の糸で縫い上げられた刺繍の、その凹凸を撫でるときだけ、私は私になれる。「かっとばせ 見せろ 男意気 さあ打つぞ 勝利へ導け」背番号5、倉本寿彦。

 営業職の夫とは学生時代に知り合った。面白味はないけど真面目だし、何より家族のために一生懸命働いてくれる。夫と、まだまだ甘えん坊で手がかかる5歳の子どもと、私。絵にかいたような平凡な家族。あっという間に過ぎていく毎日、昨日とおとといの違いすら思い出せない毎日。だけどそれこそが「幸せ」なのだと、私は自分に言い聞かせていた。

 お迎えまでの時間、幼稚園のママ友とファミレスでおしゃべりする。同居する姑への不満、愛情の薄れた夫への愚痴、この場にいないママ友の噂話……出口のない話がくるくると同じ場所を廻っている、まるでメリーゴーラウンドだ。いつも心で小さく毒づきながら、でもここから立ち去る勇気もない、自分が一番意気地無しなことも分かってる。

 その日、夫は珍しく早めに帰って来て、子どもと一緒にソファーでプロ野球中継を見ていた。私は野球が全然わからないし、特に興味もない。夕飯の洗い物をしながら「ほら、あなた、そろそろこうちゃんをお風呂に入れてよ……」とリビングに目を移したときだった。

 テレビの画面の中に、その人はいた。

 帽子からはみ出る後ろ髪は美しく波立ち、すっと伸びた鼻筋と頬骨は彫刻作品のようだった。物憂げな眼差しが見つめるその先のバットに、ふうっと息を吐き、構える。

 ガシャン。

 お気に入りだった有田焼の夫婦茶碗が、手から滑り落ちていた。「ママ、大丈夫?」「気を付けろよ〜もったいない」子どもと夫の声が耳の奥の方で響いている。この人は誰……誰なの?

■あの日から倉本寿彦のことばかり考えてしまう

 横浜DeNAベイスターズというチームのショートを守っている。ニックネームはクララ。松坂大輔と同じ横浜高校出身で、日本新薬を経てプロ野球選手になった。茅ヶ崎生まれで、だから登場曲はサザンオールスターズ……。あの日から私は暇さえあれば倉本寿彦のことを調べていた。どんな高校生だったんだろう、社会人のときはスーツ着てたのかな……私が知らない倉本選手のことを想像してはため息をついた。

 昔ベイスターズにいた石井琢朗という選手のことを尊敬していること、学生時代は突出した選手ではなかったけど努力がものすごい人だということ、バットに靴下を履かせるくらい道具を大事にしていること。動画サイトの『倉本寿彦ファインプレー集』でアナウンサーが「倉本ナイスプレー!」「倉本よく捕った!」と叫ぶのを聞いて自分のことのように嬉しくなった。『倉本寿彦2016年全安打』なんて何回再生したか分からない。倉本のバットに当たったボールは、まるでその怪しい魅力に操られるかのように、不思議な回転を帯びたまま野手の前にポトリと落ちるのだ。

 試合中はどんな場面でも表情を変えない倉本が、貴重は決勝打を放ったときだけ小さくガッツボーズして「やったー」とその唇が動く。その瞬間、私の胸に小さな花がいくつも咲いた。躑躅だ。茅ヶ崎市の花、躑躅。道路の分離帯でも、公園の生垣でも、どんな場所でも力強く咲く躑躅。そして……想像もつかないような甘い蜜を隠し持っている、躑躅。砂漠みたいだった私の胸に、赤紫色の花がいくつもいくつも咲き乱れた。

■私、会いに行ってきます

 私の中に芽生えた小さな変化を、まだ誰も知らない。いつものようにママ友と連れ立って行くファミレスを、私は初めて断った。「ごめんね、ちょっと家でやることがあって」。言葉にしてみたらたったこれだけのことなのに、どうして今まで言えなかったんだろう。別に嫌いなわけじゃない、だけどいつもいつも一緒じゃなくたっていい。「いないところで悪口を言われていたらどうしよう」と、そのことばかり気にしていたかつての私。倉本は群れない人だ。ベンチでもグラウンドでも、自分のペースで行動している倉本が眩しかった。「自分のことは自分で決めろ」そう言われている気がしたから。何か大きな力に守られているようで、むしろ誇らしい気持ちで私はママ友の群れから離れた。

 倉本に会いたい。グラウンドで泥まみれになっているその姿が見たい。応援歌を、その名前を思いっきり叫びたい。その欲求はどんどん大きくなり、抑えきれなくなっていた。野球を観に行くなんて言ったら、夫はどんな顔するだろうか。

「別にいいけど、なんだよ突然」。案の定、びっくりしたような、ちょっと呆れたような口調で夫は言った。「お友達に誘われたの。たまには気分転換にって」「ショートが何かも知らないお前に?」。ドキッとした。ショートが何かどころか、私はそのショートを守る選手に会うために横浜スタジアムに行くのだから。「男か?」「まさか」「だよな、お前にそんなのいるわけないもんな」。この人ののんきな性格はたぶん一生そのままだろう。でも私は変わるの、変わりたいの。誰かほかの男性と観に行くほうが、まだ罪の意識は軽いかもしれない。私はひとりで行ってきます。初めての野球、初めての横浜スタジアム、初めての倉本寿彦。私の平凡な日常に、鮮やかな色彩と、むせるような香りと、甘い蜜をもたらしてくれたその人に、会いに行ってきます。

 クローゼットの一番奥の引き出しに、静かに手をかける。「かっとばせ……見せろ男意気……」。躑躅色の刺繍を撫でながら、小さくつぶやく。もう戻れない、あの日の私には。

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(西澤 千央)

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