18歳で上智大に留学 デーブ・スペクターにあえて聞く「YOUは何しに日本へ?」

18歳で上智大に留学 デーブ・スペクターにあえて聞く「YOUは何しに日本へ?」

デーブ・スペクターさん

外国人タレント歴35年 デーブ・スペクターが語る「吉本騒動とテレビの危機」 から続く

 1983年にテレビの仕事で来日する前、じつは学生時代にデーブさんは日本に留学していました。そもそもデーブさんが日本に興味を持ったのは11歳のとき、転校生が持ってきた『少年サンデー』と『少年マガジン』がきっかけだったそう。聞き手は演劇史研究者の笹山敬輔さんです。(全3回の2回目/ #1 、 #3 へ)

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■『巨人の星』はボールがお餅みたいに伸びるのがおかしくて

―― シカゴに生まれたデーブさんが日本と出会ったのは11歳のとき、転校生のワタル君にマンガ雑誌を見せてもらったのがきっかけなんですよね。

デーブ そうそう。『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』ね。

―― 初めて日本の雑誌を見たときのことを覚えてますか?

デーブ 色が少ないなって思った。1色しかないもん。あとすごく分厚い。アメリカのコミックは4色カラーで、丸めてジーンズのポケットに入れられるくらい薄いんです。日本のマンガ雑誌みたいにたくさんのマンガが載ってなくて、『スパイダーマン』や『スーパーマン』みたいに1冊に一つの作品だけ。

―― たしかに形状からして違いますよね。好きな作品は何でしたか?

デーブ 『巨人の星』と『伊賀の影丸』と『おそ松くん』の三つです。『巨人の星』は、野球のボールがお餅みたいに伸びるのがおかしかった。あと、擬音も多いよね。

―― そのころは、まだ日本語が読めなかった?

デーブ 読めない。だから、カタカナから少しずつ覚えていきました。最初は、『めばえ』と『よいこ』と『小学一年生』から。日本のマンガは、セリフにルビが振ってあって、日本語教材にいいんですよ。

■シカゴにある日本の本を扱う雑貨店に通った

―― 今でこそ日本のマンガ・アニメの「オタク」がアメリカにも増えてますが、当時は珍しいですよね。マンガもなかなか手に入らなかったんじゃないですか?

デーブ 人からもらったんですよ。マンガは貴重なものだったから、コレクションしてました。今はネットで何でも手に入るけど、当時は船便で取り寄せるんです。海外の日本人が『文藝春秋』を読もうとするときなんか、わざわざ取り寄せて、みんなで回し読み。1冊の本をありがたがって読むんです。

―― シカゴにある日本の本を扱う雑貨店にも頻繁に通ったそうですね?

デーブ 日本の芸能界が好きだったから、『平凡』と『明星』なんかにハマりました。あと、『PocketパンチOh!』もよかったね。知らないでしょ?

―― 初めて聞きました。そんな雑誌があったんですね。その雑貨店が、「東京ローズ」の店だったというのは本当ですか?

デーブ そうそう。僕は親しかったんですよ。

―― 太平洋戦争中の日本軍は、連合国軍の兵士へ向けたプロパガンダ放送を行っていて、そのときの女性アナウンサーたちが「東京ローズ」と呼ばれていました。そのうちの一人であるアイバ・戸栗・ダキノは、アメリカに帰国後、国家反逆罪で有罪判決を受けています。

デーブ 彼女は、家族が経営してる「トグリ」という名前の店で働いてました。すごく親切で、面白くてサバサバした人でした。最初は裏切りとか売国っていう悪評があったけど、本当は違うんですよね。

■「剣道を6年間やって初段までいきました」

―― たしかに、女性アナウンサーは複数いましたが、彼女一人に罪が着せられ、反日感情のスケープゴートにされたと指摘する人もいます。

デーブ その後、恩赦されてるけど、僕が会ったのはその前だったね。

―― のちに日本のテレビで活躍するデーブさんが、日本のラジオに出たために悲劇に巻き込まれた「東京ローズ」と出会っていたというのは、面白いですね。その後も日本への関心は途切れることなく続いたんですか?

デーブ ええ。16歳のときにはシカゴ日系人会主催の日本語弁論大会に出て、2年連続で優勝してます。

―― そのときのテーマが、「剣道と武士道精神」と「三島由紀夫の生涯と自殺」。そういった日本の精神性に興味を抱くきっかけは何だったんですか?

デーブ チャンバラじゃないかな。子どものころは、忍者を見てカッコイイって思うんですよ。それから時代劇を見るようになって、剣道も6年間やってました。シカゴに道場があって、日系人が教えてくれてたんです。初段までいきました。そういうのを経験してるから、いまだに日本が忍者屋敷で外国人観光客を誘致するとかやってると、冗談じゃないって思う。こっちは、どれくらい前からやってると思ってるんだって (笑)。

■シカゴで毎年2月に『紅白歌合戦』を見ていた

―― マンガを読むほかに、毎年『紅白歌合戦』を見てたそうですが、どうやって見たんですか?

デーブ 日系人向けに16フィルムにして、外務省経由でまわってくるんです。ブラジルやハワイのような日系人の多いところから始まって、シカゴには2月くらいに来る。画質も音も悪いんだけどね。それを小さなリール式のテープレコーダーに録音するんですよ。『スパイ大作戦』で見たことない? それをずっと聴いてました。

―― そのころから日本の芸能界への興味は強かったんですね。

デーブ 外国人で、僕くらい日本のテレビに出ることに感動してる人はいないと思うよ。日本人以上だもん。美空ひばりさんや加山雄三さんに会ったときは、本当に感動した。ほかの外国人は、来日してからテレビで見て知ってるだけでしょう。だから、僕とは全然比較にならない。僕の場合は情熱があるかもしれない。

―― 初めて訪れたころの日本は、まだ貧しかったと思いますが、印象はどうでしたか?

デーブ 貧しいというか、これからという感じだったよね。『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代。がむしゃらで、団結してて、いい時代ですよ。次に日本に来るのは18歳のとき。上智大学に1年間留学して、すぐそこの四谷キャンパスに通ってました。でも、楽しい思い出はなかったね。

―― 当時、東京でもまだ外国人が珍しい時代ですよね。

デーブ 全然少なかった。街を歩いてて鏡を見ると、「あっ、外人だ」って自分でも驚くくらい(笑)。

■「きつねそばが高くて食べられなかった」上智大留学時代

―― 留学時代は1年間のうちに何回も引っ越しをしたそうですが、外国人が部屋を借りるのは大変だったんじゃないですか?

デーブ 僕は9回引っ越してます。居候が多かったから、借りる苦労はしてない。でも、どこもあまり好きじゃなかった。お金もなかったから、英語教師のアルバイトをしたり、百科事典のセールスマンをしたこともあります。外人でそんなことする人いないから、けっこう売れたんですよ。でも、忍耐力がないから、向いてない。

―― 留学中に楽しい思い出がなかったというのは、どうしてですか?

デーブ まあ、楽しい日もあったんですが、基本的にいろんなことがうまくいかなかった。お金ないとダメですよ。あのころは、あと5円出せばラーメンが食べられたことを覚えてます。でもラーメン食べたら地下鉄代が足りなくなって、新宿駅から歩いたりしてた。あと、かけそばもよく食べました。きつねそばは高くて食べられなくてね。だから「一杯のかけそば」の話も嘘じゃないと思うよ。それだけ貧しい人が多かったんですよ。

―― デーブさんに日本で苦労した時代があったというのは意外です。

デーブ そういう思い出があるから、テレビで年金とか貧困の問題を聞かれたとき、上から目線にはならないんですよ。いろんな立場の人がいるということは、わきまえないといけないと思います。

■あえて日本を遠ざけた10年間

―― ワイドショーでのコメントに、そのときの経験が活きてるんですね。留学を終えて帰国してから、また日本に来るつもりはなかったんですか?

デーブ 帰国してからの10年間、日本に戻ることはありませんでした。日本のことはあくまでも趣味としてだけ残してた。シカゴで放送学校を卒業して、ロサンゼルスに出るんだけど、ロスには日本人のコミュニティもあったんです。でも、意図的に避けてました。日本のテレビを見ることもできたんだけど、ハマるのが自分で分かってるから見ないようにしてた。もともとは、アメリカのメディアで仕事がしたかったからね。

―― そのころは日本のマンガも読まなかった?

デーブ あんまり読んでない。でも、お金がなかったから、日本語の通訳は、アルバイトで少しだけやってました。

―― その後、アメリカでのキャリアは、順調にステップアップしていきますね。

デーブ アメリカのテレビの仕事は、ありがたいことに恵まれて、やりたいことができたんですよ。テレビ番組のライターをやったりした後、ABCテレビのプロデューサーになりました。そしたら、たまたま番組で日本に行くことになって、日本語ができる僕も行くことになった。それが今につながってます。それからの僕は、子ども時代の経験と、アメリカのメディアの仕事が、うまくミックスしてるんです。なんか運命に導かれたみたいだね。

( #3 デーブさんへの疑問「日本人に帰化しない?」「アメリカに帰りたくない?」 に続く)

写真=杉山秀樹/文藝春秋

来日36年 デーブさんへの素朴な疑問「日本人に帰化しない?」「アメリカに帰りたくない?」 へ続く

(笹山 敬輔)

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