1985年、一枚のタオルと清原和博によって“自分のチーム”を得た僕は、無敵になった

1985年、一枚のタオルと清原和博によって“自分のチーム”を得た僕は、無敵になった

意中の球団から指名されず、涙をこらえて記者会見する清原和博 ©時事通信社

 1985年。あの夏も僕は野球を見ていました。軽量鉄骨造、2Kのアパートに両親と3人暮らし。それまでは宮城県仙台市内にあるマンションの高層階で暮らしていたものが、両親の実家がある岩手県に急に転居することになり、薄い鉄板の階段がやかましい「犯人の住むアパート」のような建物の2階に移り住んだのです。部屋の外に置く洗濯機。歩くだけで下の階から苦情がくる息苦しさ。親子が肩を寄せ合う暮らしでした。

 幼くて当時は何もわかっていませんでしたが、何やら起きていたのだろうと今になってみればわかります。面倒臭がりで出不精の母親は家を出てパートを始め、父親は逆に家にいる時間が増えました。母親がプランターで枝豆とプチトマトとイチゴを育て始めたのもその頃でした。当時よく食べていたオヤツは、サンマの背骨をカリカリに焼いて噛み砕けるようにしたもの。「カルシウムが摂れる」と母親は言いましたが、それは「骨せんべい」というよりは「骨」でした。

 エアコンなどありはしなかったので窓を開け、アリの観察をして過ごした夏休み。旅行や遊びに出掛けることもなく、「つくば万博に行きたい」という僕の希望は「面白くないと思う」という父親の一言で一蹴されました。代わりの提案はお互いになく、僕はそれですんなりと引き下がりましたが、父親はひどくつまらなそうでした。

■何もない夏休み。野球が、清原和博が、僕の空白を埋めてくれた。

 そんな僕の楽しみは野球を見ることでした。今は100チャンネル以上もの選択肢があるテレビですが、当時僕の家で見られたのはわずか4チャンネル。地域性もあってフジテレビ系列とテレビ朝日系列は映らず、NHK総合・教育と日本テレビ系、そしてTBS系だけで時間を埋めていました。昼はNHKで高校野球を見て、夜は日本テレビで巨人戦を見る。そんな暮らし。

 僕はPL学園を応援していました。おなじ東北のよしみで見守っていた東海大山形を29得点で粉砕したPLの圧倒的な強さ。アルプススタンドに描かれる美しい人文字。「あーあーピーエルー、ピーエルー、とわのーがーくーえーん」の校歌。そして何よりも清原和博。大きく、強く、明るい清原。夏の太陽のような青年が描く特大アーチと、八重歯がキラリと光る子どものような笑顔。決勝戦、起死回生の同点弾を放てば両手を突き上げての屈託のないガッツポーズ。清原は僕が初めて心に抱いた「ヒーロー」でした。チャンスに強い男でした。カッコよかった。最高でした。

 夏も終わろうかという頃、我が家にはさらなる転居話が持ち上がっていました。今は岩手県宮古市に吸収されてしまった川井村という場所にある、母親の実家に住まわせてもらおうかという話でした。「来月にも引っ越すのだ」という両親の話を聞いた僕は、学級会でお知らせをしたりもしました。「ばあちゃんの家」は牛を飼い、タバコを育てる農家でした。家の前を流れる川で遊ぶのは楽しいけれど、虫が苦手な僕は好んで行きたいとも思わない場所でした。それに「ばあちゃんの家」はテレビがNHKしか映らなかったので、それがすごく嫌だなぁと思ったことを覚えています。

■我が家にやってきた一枚のタオル。それは西武グループの証。

 しかし、決まったはずの引っ越しは急に取り止めになりました。子ども心に学校でバツは悪かったものの、テレビのチャンネルが減らずに済んでとても嬉しく思いました。再び毎日出掛けるようになった父親は、ある日一枚のタオルを持ち帰ってきました。そのタオルには大きなライオンの顔が描かれていました。そしてLionsの文字が。現在はもうない、西武オールステート生命という保険会社でガイコウの仕事を始めたという父が、契約者に配る用の粗品を持ち帰ってきたものでした。

 家の事情はくわしく知らなかったものの、それが転居を中止させ、我が家を少し明るくしてくれた「何か」であることは感じていました。そして、そのライオンのマークと「西武」という冠は何だかとても素晴らしく誇らしいものに思えたのです。堤義明氏が世界一の富豪へとのぼりつめて行ったバブル景気を、それが「バブル」であるなどとは露知らず、「ウチは世界一の西武グループの一員なんだぞ」と鼻を高くしたのです。

 西武グループの一員であるところの僕が、西武ライオンズを意識するまでに時間はかかりませんでした。テレビで映るのは巨人戦ばかりではあったけれど、「西武ライオンズは我がグループの仲間」だと思っていました。そのうっすらとした同族意識のなかで迎えた運命のドラフト。西武ライオンズは6球団競合の末に清原和博を引き当てたのです。清原に太陽の笑顔はまったくなかったけれど、僕は大喜びをしていました。「僕の西武グループ」に「僕のヒーロー」がやってきたのですから。そして、これは運命なんだ、このチームは僕のチームなんだと気づいたのです。

 これが望まれざる出会いだったとしても。

■あのドラフトの日、西武ライオンズは「自分のチーム」になった。

 夢のような時間の始まりでした。清原は大人たちをバット一本でやっつけました。「高卒新人31本塁打」という偉業も「清原なら当然だ」と思っていましたし、清原は1000本ホームランを打つと思っていました。オールスター戦のホームラン競争で、誰かの指図(※のちにそれが落合博満氏であったことを認識)で右に左にホームランを狙い打つ姿に、やがて「お祭り男」と呼ばれる清原がもたらす、独特の高揚感を覚えていました。

 1986年、僕にとって初めての優勝、初めての日本一。広島カープとの日本シリーズは、引き分けを含めて第8戦までもつれ込む死闘でした。初戦引き分け、そして3連敗。もうダメだという状況からの第5戦、延長12回裏にピッチャー工藤公康が放ったまさかのサヨナラタイムリー。そこから始まった4連勝、逆転の日本一。みなが若かったし、黄金戦士たちが光り輝いていました。西武球場はできあがったばかりの最新のスタジアムで、どこよりも美しい緑の人工芝は王国の象徴でした。

 僕が野球で喜んでいた頃、父親も初めて見るような笑顔を見せていました。家賃2万5000円で住める3LDKの市営住宅の抽選にようやく当たったのだと言いました。今もその市営住宅が僕の「実家」ですが、僕は自分の部屋をもらい、母は枝豆とプチトマトとイチゴの世話を止め、我が家ではサンマの骨は焼くものではなく捨てるものになりました。暮らし向きは前よりも若干よくなり、クリスマスに念願のファミコンを買ってもらえました。

 翌1987年はクラスのほぼ全員が応援していた巨人を日本シリーズで撃破し、真の王者になりました。何故清原が泣いていたのかまったく理解できていませんでしたが、僕は有頂天でした。どうだ、これが西武ライオンズだ、世界一の球団だ。自分の勝利のように胸を張りました。父親はその頃にはもう西武の会社を辞めてしまっていたようでしたが、我が家は変わらず西武ライオンズを応援しており、僕はすでに終身名誉西武グループ員となっていました。

 翌1988年は伝説の10.19を家族で「聴き守り」ました。4チャンネルしか映らない地域性により、当時西武ライオンズの試合を多く中継し、10.19の模様をニュース枠にねじ込んでまで中継していたテレビ朝日は我が家では映らなかったのです。「はっきりいってライオンズびいきです!!」の文化放送ライオンズナイターも中継局がなく昼間はまったく聴こえないのですが、夜になると遠くの遠くから飛んでくる電波がわずかに拾えることを利して、耳をスピーカーに押し当てて試合の行く末を聴き守っていたのです。

 音量を上げれば謎の韓国語?(朝鮮語?)が聞こえてきて野球が聞き取れなくなるので、韓国語とライオンズの絶妙のバランスを探りながら、「ひとつくらい勝てよ!」とロッテオリオンズに韓国語のぶんまで八つ当たりしていました(※今思えば、韓国語への怒りをロッテにぶつけるのは何となく合っている)。そして、何が起きているのかまったくわからないけれど、どうやらあと少しロッテの誰かが抗議をしつづければ西武が優勝するのだということを理解し、「そのまま立ってろ!」とラジオの前で唱えつづけました。

 そんな「聴き守り」が我が家の夜の過ごし方となりました。西武の結果を見るためにテレビでは巨人戦を映し、西武の試合を聴くためにラジオでは文化放送と韓国語放送を流す。西武は家族にとっての第一の話題であり、何よりの喜びでした。その暮らしは西武の黄金時代が終わり、清原が西武を去ってもつづきました。清原が西武を去ったあとは「西武の結果を知る」ことと「清原だけが打って、今頃になって清原を奪いにきた巨人が負けることを祈る」ために巨人戦を映すようになりましたが。

 僕はやがて大人になり、東京で暮らすようになり、西武球場にも足を運ぶようになりました。一部分だけ屋根がつき、全部に屋根がつき、後発のドーム球場に比べてやたらとみみっちい改造を繰り返す球場を自分の目で見て、「あれ? もしかしたら西武ライオンズは世界一の球団ではないのでは?」と今さらのように気づきましたが、西武が「僕のチーム」であることに何の変わりもありませんでした。少々狭かろうがこの空は清原が大ホームランを飛ばした空であり、少々ボロかろうがこのスタンドは清原が弾丸ライナーを叩き込んだスタンドであり、あの日からひとつながりで今があるのですから。

■「自分のチーム」を得られた幸せ、それを「恩義」に感じて。これからも。

「自分のチーム」を得るのは難しいものです。結婚のようなもので、運命の出会いがなければ叶わない望みです。そして、その運命の出会いがどこにあるのかは、誰にもわかりません。僕にとって、始まりは一枚のタオルでした。あのタオルが僕を「西武グループの一員」だと勘違いさせていなかったなら、そしてそこに清原和博が重なってこなかったなら、僕は「自分のチーム」を得られぬまま、どこが勝ってもどこが負けても構わないような熱量でボンヤリと野球を見ていたかもしれません。僕は出会うことができて、よかった。

 誰にも、そんな瞬間があるかもしれません。

 いつ、どこで、なのかは誰にもわからないけれど。

 だから、選手も関係者も、自分たちの何がその出会いを生むかわからないぶん、すべてがその出会いになりうると思って、いつも過ごしてもらえたらと思うのです。ハイタッチで怪我をした、ファンサービスは止めようか、そんな話を聞くたびに怪我は確かに怖いけれど、僕はとても寂しい気持ちになります。誰かが出会いを得られなくなったかもしれないなと思って。もしその手に触れていたら、そこから「自分のチーム」が始まる少年がいたかもしれないなと思って。どんな小さなきっかけでも、何かを起こすかもしれないのになと思って。

 この話をしようと思ってから、普段あまり連絡をとらない父親にメールをし、「あのタオルはまだあるかな?」「あの頃何してた?」と聞きました。父親からはタオルを広げた写真とともに、「びんぼうしてました」という短いメールが届きました。当時を振り返る第一声がそれかよ、やっぱりな、とは思いましたが僕は不満や不幸を感じてはいませんでした。実態としてはわかっていたけれど、実感としては幸せ者でした。

 だって、西武ライオンズがあったから。僕は世界一の球団を抱える西武グループの一員だったのだから。恐れるものは何もない、無敵の常勝軍団の一員だったのだから。無敵、だったのだから。それはとてもとても幸せな勘違いでした。本当なら我が家がもっとも暗かったであろう時間を終わらせ、猛烈に明るく照らしてくれた西武ライオンズ。勘違いからはさすがに覚めましたが、僕の心にはあの頃の感謝……「恩義」と言ってもいい感情が今も残っています。

「好きになる」こと、そして「好きが勝つ」こと。望んでも得難い幸せを我が家にたくさんくれたのは西武ライオンズであり、そうやって野球を楽しめる穏やかな一家でいられたのは西武グループの一員となれたからでした。僕はあれからずっと、西武グループの一員です。これからもたぶんずっと西武グループの一員です。球場は一日も早く建て替えて欲しいけれど、清原の空と清原のスタンドがなくなるような建て替えよりは、このままのほうがいいかなぁと思ってしまうくらい、今もあの頃の「恩義」を心で愛でています。

「自分のチーム」を得られてよかった。

「自分のチーム」を得られて、僕と、我が家はよかった。

 そんなこんなで、僕は西武ライオンズが大好きなのです。

 すべての人に、「自分のチーム」が見つかりますように――。

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(フモフモ編集長)

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