終戦の日に想う――特攻に散ったドラゴンズのエース、石丸進一

終戦の日に想う――特攻に散ったドラゴンズのエース、石丸進一

東京ドーム脇の「鎮魂の碑」 ©大山くまお

 2019年8月15日、74回目の終戦記念日を迎えた。戦争と中日ドラゴンズについて考えたとき、真っ先に浮かぶ名前がある。
それが石丸進一という選手だ。

 戦前に中日ドラゴンズの前身である名古屋軍にたった3年間だけ在籍。後半の2年間は主力投手として閃光のような活躍を見せた。戦前最後のノーヒットノーランも記録している。

 しかし、学徒出陣によって招集され、神風特攻隊に志願して1945年5月11日に零戦で出撃。そのまま二度と帰ってこなかった。まだ24歳の若さだった。

 石丸進一の生涯は幾度となく新聞や雑誌などで取り上げられ、映画化もされた。彼の名前を知っているドラゴンズファン、野球ファンも少なくないだろう。それでも僕はまだ語り継ぐべきだと思っている。

 ここでは実の甥である牛島秀彦氏によるノンフィクション『消えた春 特攻に散った投手 石丸進一』(河出文庫)を中心にして、あらためて彼の生涯を振り返ってみたい。

■野球が好きで好きでたまらない「野球の虫」

 石丸進一は1922年(大正11年)、佐賀県佐賀市で理髪業を営む父・石丸金三の五男として生まれる。11人兄弟の8番目だった。金三は相場に手を出して莫大な借金を抱えていた。

 進一の野球の才能は少年の頃から抜きん出ており、その豪腕ぶりに目をつけた強豪・佐賀商業野球部から勧誘を受けて進学。厳しい練習にも全力で取り組み、野球部を引っ張っていった。家が貧しく三度の食事もままならない進一にとって、好きな野球に打ち込んでいる時間が一番幸せだったのだ。

 自分には野球しかないと思うようになった進一は、職業野球を熱望するようになる。野球で金を稼ぎ、実家の借金を返したい一心だったが、8歳上の兄の石丸藤吉がすでに職業野球の名古屋軍で活躍していたことも大きな励みだった。

 1940年(昭和15年)、名古屋軍に入団。1年目は小西得郎監督の指示によって内野を守り、史上初の兄弟選手となった藤吉と二遊間の「併殺コンビ」として話題を呼んだ。2年目からは投手に転向。スリークォーターより少し下から投げ込む剛速球と、外角低めに決まるコントロールを武器に、56試合に登板して17勝をあげてみせた。19敗したものの、なんと防御率は1.71! ちょっと名古屋軍打線、どうなってるの? この年はチーム37勝のうち、進一が17勝をあげたことになる。1943年(昭和18年)はエースとして20勝12敗、防御率1.15という堂々たる成績だった。今のドラゴンズに欲しい。

 性格は素朴だが負けん気が人一倍強く、打ち込まれたときにマウンドで繰り広げる二塁手の藤吉との兄弟ゲンカは球界名物だったと名古屋軍の野口正明は回想している。牛島氏は佐賀の人間独特の「いひゅう者」だったと表現し、頑固一徹でへそ曲がり、極端なテレ屋で自分の感情を素直に表現することができない偽悪家だったという。

 それでいて野球が好きで好きでたまらない「野球の虫」だった。「私は日本の野球界で、ずい分多くの野球愛好者を知っているが、石丸進一君位野球を好んでいた人は珍しいと思っている」と語ったのは、沢村栄治らを帯同した全日本選抜の監督などを歴任した名古屋軍の三宅大輔監督だ。遠征中でも他の選手たちが夜の街へ繰り出しているのに、進一は毎日のように宿の近所の子どもたちを集めて軟式野球に熱中し、それを三宅は微笑ましく見守っていた。

■俺の人生は野球しかなかったんよ

 1943年(昭和18年)、戦局は悪化の一途をたどり、進一に学徒動員令が下る。9月に「一億戦闘配置」が閣議決定された結果だった。職業野球の選手だった進一になぜ学徒動員令が下ったのかというと、名古屋軍の西沢道夫(後に永久欠番となる初代ミスタードラゴンズ)や小鶴誠らとともに徴兵逃れのため、日大政治学科(夜間部)に籍を置いていたからだ。

 出陣が決まると、進一は兄に「どっちじゃいが死なんといかんないば、俺(おい)が死ぬ。家庭もある藤吉兄はどがんしてでん生残って石丸家ば、ちゃんとしてくんさい」と語ったという。後に藤吉は「進一は本心はともかく、表面上は焼け火箸のごとなっとったよ……」と振り返る。同年輩の小鶴誠も「どうして当局の謳い文句みたいなことばかり言う堅物なんじゃろう」と嘆いていた。

 1944年(昭和19年)、茨城の土浦海軍航空隊に入隊。鹿児島の出水海軍航空隊基地での訓練を経て、茨城の筑波航空隊に戻った1945年(昭和20年)2月、いよいよ特攻隊が結成されることになる。

 特攻隊は強制ではなく志願だったが、「志願票」には「(1)熱望、(2)希望、(3)希望セズ」と書かれており、1名でも特攻を“希望セズ”という者が出たら予備学生(学徒動員で徴収された学生たちのこと)全体の恥だと言われていた。特攻を志願しないことは当時の雰囲気の中で非常に勇気のいることだったと牛島氏は指摘している。進一は「熱望」に○をつけたが、「国のために特攻隊員を志願した」という単純な話ではないようだ。

 ずっと想い続けていた恋人は度重なる空襲で無残に死んだ。特攻を控えた進一の胸中はどうなっていたのだろう。当時の寄せ書きに「葉隠武士」と書いている。葉隠武士の「死狂い」の精神が自分には合っていると考えたのだろう。さらにもう一筆と差し出された紙には「日本野球ハ」と書きかけた。驚く相手に対して「俺の人生は野球しかなかったんよ、そう、野球じゃ、野球じゃーい」と怒鳴って去っていったという。

■最後のキャッチボール

 最前線となった鹿児島の鹿屋基地で迎えた特攻の前日、進一は名古屋軍の赤嶺昌志代表が餞別にくれたニューボールを使って、法政大学野球部出身の本田耕一少尉と“最後のキャッチボール”をする。周囲には見物の人だかりができ、報道班員だった作家の山岡荘八もその中にいた。

 特攻の日、進一はボールを持って飛行機に乗り込んだが、操縦席から鉢巻と一緒にボールを投げ捨てた。ボールとともに届けられた藤吉宛の遺書には、

「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない」

 と書かれていた。藤吉の進一に対する想いは、東京ドームの脇にある「鎮魂の碑」で読むことができる。

 進一は何からも逃げることなく、正面から時代とぶつかりあって特攻で死んだ。だが、ずっと勇ましかったわけではない。生前、何度も「戦争で死ぬことてんなんてん、アホらしか。俺ァこぎゃん若さでまだ死にとうなか。やりたかことの半分もしとらんのに、そうやすやすと死ぬっもんですか……」と漏らしていた。軍国少年だった牛島氏は「進ちゃんはヒイタレ(臆病者)ばい」と苛立っていたほどだった。鹿屋基地で「死にたくない、怖い」と漏らしたこともあったし、兵舎の陰で泣いていることもあったという(スポニチアネックス 2015年8月4日)。

「いひゅう者」で本当の気持ちを素直に言わない進一が、遺書のとおり本当に「悔いはない」と思っていたかどうかはわからない。ただ一つだけ言えるのは、もっと野球がやりたかったんだろうな、ということだけだ。

 野球がやりたくて仕方なかっただけなのに、やれなくなってしまう。
恋人と一緒に過ごしたかっただけなのに、過ごせなくなってしまう。
かけがえのない日常がいとも簡単に奪われてしまう。それが戦争だ。

 当時の日本には、無数の進一のような若者がいた。二度と石丸進一のような若者を生まないために「不戦の誓い」を続けていかなくてはならない。

 そのためにも今から100年ぐらい前に生まれた選手のことを、たまにこうやって思い出したり、話し継いでいかなければいけないんじゃないかと思っている。たとえば、ドラゴンズの選手全員が石丸進一の背番号26で試合をする「ドラゴンズ版ピースナイター」があってもいいんじゃないだろうか?

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(大山 くまお)

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