羽田圭介インタビュー「綿矢りささんにやるべきことを具現化されたと思った」#1

羽田圭介インタビュー「綿矢りささんにやるべきことを具現化されたと思った」#1

©文藝春秋

――4度目の候補での受賞でしたが、受賞記者会見では「予想外の高揚感」と表現されていました。

羽田 実際に受賞すると、突然世界が華やかに変わるわけではなく、全体像が見えないまま、何かいつもと違うことが起こっているという感じでした。会場のホテルで多くの方にお目にかかったり、携帯電話がずっと振動し続けて、いつもより早く電池がなくなってしまったり。そんなごく小さいことでしか、本人は変化を実感できないような気がします。

 無数の日常との違いに肉体が無意識のうちに反応しているのか、その日の夜はあまりよく寝られませんでした。一晩中枕元で携帯が震えていたというのもありますが(笑)。

――受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」は、サラリーマンをやめて転職活動中の健斗と、3年前から同居している祖父との関係を、介護を軸に描いています。

羽田 作品の出発点は介護に対する問題意識ではなく、異なる世代が互いに抱く憎しみや無理解といった部分でした。健斗は決しておじいちゃん子ではないので、祖父は数年前に同居するようになったよくわからない存在です。そもそも、戦争を経験したこの世代のことが、健斗の世代には理解しづらい。テレビや雑誌からは、高度経済成長期を生きて来た人たちが、年金制度などで優遇されておいしい思いをしているという情報が流れている。健斗の世代はそんな情報を鵜呑みにして、自分が就職できなかったり結婚できなかったり、人生がうまくいかない理由を、老人世代のせいにしがちです。簡単に、憎しみを抱く対象にしてしまう。でも実際に同居して、憎い相手の顔が見える距離感になった時に健斗は何を思い、どういう行動をとるかという気持ちの揺れを、この2人の関係性を素材に描きたいと思いました。

――そういった、憎む相手との距離感についての問題意識は、以前から持っていたのでしょうか。

羽田 昨年ヨーロッパに1週間ほど旅をしたときに、現地で中国人や韓国人と間違われて腹を立てる日本人の姿を見ました。そこで日本人が外国で他国のアジア人を強く意識するのはなぜだろうと疑問が生まれてきたんです。

 もちろんこれはアジア特有ではなく、ヨーロッパでは国境を接する隣国同士がいがみ合い、悪口を言うという話も聞きます。しかし海に囲まれた日本は、国境が地続きではない。そのため、他者を排斥する極端な思想が発達しやすいという面が確かにある。もし顔を見て話し合う機会がもっと頻繁にあるなら、ここまで感情がエスカレートすることもないのでは、と思ったんです。

 例えば戦争でも、互いに刀を持って殺し合っていた白兵戦の時代に比べて、リモコン操作による空爆が主体になった現代は、相手の顔を見ることなく一瞬で何十人も、何百人も殺せてしまう。これも、距離感を広げることによって、攻撃しやすくなったいい例です。現代は、あえて相手の顔を見えないようにして、攻撃性を高めている時代だとも感じています。だからこそ改めて、自分と相容れない人の顔を直接見ることの必要性を感じるようになったし、小説のテーマとして取り上げたいと思いました。

■介護問題は小説向き

――その「距離感」を描く素材として、介護を選んだ理由は何ですか。

羽田 距離感には世代のような縦の関係と、国籍のような横の関係があります。小説にするなら、日本人同士の縦の関係の方がおもしろくなる予感がしました。なおかつ健斗と祖父という同性の関係にすることによって、自分も年を取れば憎む相手と同じ立場にならざるを得ないという設定も必要だと考えました。今どんなに老人を攻撃している若者だって、いつかは老人になるわけですから。

 単純に老人のための社会政策を廃止し、切り捨てろと叫ぶことは、実は天に向かってつばを吐くようなものです。自分が老人になった時に社会保障が乏しくなっている可能性はもちろん、その前に、親の世代の介護も引き受けなくてはいけない。その時に介護保険が脆弱になっていたら、苦労するのは自分たちです。だから介護について考える時には、自分の延長線上にある問題なんだという視点も欠かすことはできない。こういった関係性が、小説の素材に向いていると思ったんです。

――「早う迎えにきてほしか」「じいちゃんは死んだらよか」という祖父の口癖や、柔らかいお菓子はぺろりと食べるのに気に入らない料理は「堅い」と文句を言って口を付けないなど、作品の中で描かれるエピソードがひじょうに具体的です。ご自身で、介護の経験があるのでしょうか。

羽田 ひとつには、作家としてデビューした高校3年生の頃に山形に住む父方の祖母が亡くなり、現地の病院を訪れた時の印象が強く残っています。当時はまだ介護施設としての長期入院も比較的多く、寝たきりの老人たちがずらりと並んでいて、「殺してくれ」とつぶやく声もずっと聞こえていました。

 ふたつめに、長崎出身の母方の祖母が7、8年前に東京の親戚の家に移り住み、3年前からは僕の両親と同居する様子を見ていることでしょうか。両親は60代で、まさに老老介護です。僕は週末に実家に戻る時くらいしか接点がありませんが、帰宅するとまず夕方の30分から1時間は祖母の愚痴や1週間のできごとを聞いて「ああ、そうなんだね」と相づちを打ちます。そこで正論で返しても仕方がありませんから。家族揃って夕飯を食べると、祖母はこれ見よがしに、「私は邪魔だから、部屋に戻ろうかな」と帰っていく(笑)。このあたりは作品と一緒ですね。そのあとは母の愚痴を聞く時間です。同居していない僕にできることはそれくらいですが、介護をしていると家の空気が悪くなるというのが傍から見ていてもよくわかるようになりました。

 とはいえ作品のほとんどは創作ですから、会話部分を半分ほど実体験から引っ張って来たくらいでしょうか。例えば長崎弁の語感を、東京で生まれ育った僕が作り出すのは難しいので、そこは祖母と母とのやり取りをかなり使っています。小説の中で、言葉の響きは大切ですから。「甘えんじゃないよ、楽ばっかしてると寝たきりになるよ」とか「杖なしでも歩けるくせに」、「健斗に甘えるな!」などの母親のセリフはデフォルメし過ぎとも言われるんですが、うちの母親は実際にこれくらい口が悪いんですよ(笑)。

■マイナスの選択としての読書

――17歳で書いた「黒冷水(こくれいすい)」での文藝賞受賞でデビューされましたが、いつ頃から作家になろうと思っていたのですか。

羽田 本を読み出したのは、中学受験のために勉強を始めた小学校5、6年生の時です。「勉強しなさい」と母親に言われて自分の部屋に籠るものの、参考書を読むなら小説を読んでいる方が楽しいので本を開き、母親の足音が聞こえたら、さっと参考書の裏に隠して、いなくなったらまた読み始めるの繰り返しでした。両親とも理系なので、家にほとんど本はなかったのですが、勉強から逃げるためのマイナスの選択としての読書から幸い読書の習慣がついたので、中学校に通う往復2時間の電車でもよく本を読んでいました。

 その頃に出会ったのが、椎名誠さんのエッセイで、「出版社の経費で無人島に旅をして、酒を飲んでベンチに横たわって気楽に原稿を書く職業なんて、羨ましい」とまず感じました。たまたまその頃、家の近所に新しい図書館ができたので足を運んでみたら、ハウツー本が並んでいる一角に、作家になるための本を見つけたんです。「こんな本があるなら、作家になっちゃおうかな」と閃いて(笑)。だから書かずにはいられなかったとか、書きたいものがあったとかではなくて、椎名誠スタイルになりたいというのがスタートですね。

――椎名誠さんのスタイルを目指すことと、純文学の賞である文藝賞に応募することの間に、距離があるようにも感じます。

羽田 確かに(笑)。ただ、中1の頃には世界文学や日本の古典をおもしろさもわからないまま大量に読み、その後はエンターテインメント小説を読むようにもなりました。漫然と小説家になりたいとは思っていたものの、実際に書くことはせず、ただ読むだけでした。ところが高校1年生の冬に、綿矢りささんが17歳で文藝賞を受賞した「インストール」の単行本出版という大きな広告を新聞で見つけた時、自分がやるべきことを具現化された! と焦ったんです。実際に自分と近い年齢でデビューする人がいることを知り、こうしてはいられないとスイッチが入りました。

 まずは「文藝」を買って「インストール」を読み、文藝賞が純文学の新人賞なのだとわかると、他には「新潮」や「すばる」、「群像」や「文學界」の研究もしなければと、それまで読んだことのなかった文芸誌、しかも新人賞の受賞作が掲載されているバックナンバーを3年分以上借りて研究しました。高校2年生の頃から習作のようなものを書き始めて、なんとなく純文学をわかったつもりで書いたのが、兄弟の憎み合いをテーマにした「黒冷水」です。冬休みと春休みのほとんどを費やして、3ヶ月で400枚ほど書きました。書き終えてみると、純文学どころか半分以上エンタメ小説になっていました。純文学の文芸誌に載っている作品とはだいぶ雰囲気が違っていたので、作風は予想できない形で表れてくるんだな、とよくわかりました(笑)。

――17歳での受賞は、大きな話題になりました。

羽田 自分にとっても、特別だったと思います。受賞が決まる前、最終選考に残ったという連絡が家の電話にかかってきました。僕は自宅のベッドでごろごろしていたのですが、電話を取る前に、これが文藝賞の知らせだとわかったんです。今でも理由はわかりません。賞レース関連で感じた嬉しさとしては、きっとあれがピークですね。芥川賞の受賞決定ですら、あれには届きません。

 ただ、文藝賞を受賞して大きく生活が変化するということはなく、変わらず高校に通い、たまに取材を受けるくらいでした。取材を受けている自分に満足したことはあったかもしれませんが(笑)、今のようにSNSが発達している時代でもなかったので、淡々と日常を過ごしながら翌春には附属している大学に進学しました。

(#2に続く)

出典:文藝春秋2015年9月号

( 「文藝春秋」編集部)

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