アイドル活動をしている僕は、“浜崎あゆみ”らしさとは「引き裂かれていること」だと確信した

アイドル活動をしている僕は、“浜崎あゆみ”らしさとは「引き裂かれていること」だと確信した

『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)

「二人で作り上げた“浜崎あゆみ”は、マサにも、あゆにも、手に負えないモンスターになってしまったね」──歌姫・浜崎あゆみと現エイベックス会長・松浦勝人のインタビューを基に、小松成美によって著された『M 愛すべき人がいて』。愛すべき人がいてキズを負った全ての者達に必読の書籍である。

 六本木ベルファーレで遊ぶ高校生でアイドル女優の浜崎に、当時エイベックスの専務だった松浦(以下、マサ)が才能を見出し、プロデューサーとして世紀の大スターに仕立て上げた。二人は恋愛関係にあった期間があり、浜崎はマサへのラブレターとして歌詞を書いて、マサのためだけに歌っていたという思いが打ち明けられている。

 マサとの出会い、歌手デビュー、“浜崎あゆみ”の大ブレイク、そして恋人としての別れ、絶望──(!)。浜崎は愛と夢の岐路に立たされて夢を選んだわけではない。もともと歌手を目指していたわけではなかったから。やりたいことも、なりたいものも見えなかった浜崎にとって、愛するマサが自慢できるような歌手になることが、ただ1つの夢だった。愛に導かれて生まれた夢の道を走り続けることが、マサへのいつまでも変わらない敬愛の証明になっているのだ。君がいなきゃ、何もなかった。

 ちなみに、私は浜崎あゆみ大ブレイク時には幼稚園児、姉の影響でカーステレオで『LOVEppears』『Duty』を聞かされ続け、気づけば自分も大好きになり、小中高をあゆの音楽と生きて、今もカウントダウンライブであゆと年を越すファンだ。ずっと歌姫に憧れて、今はアイドルユニット「電影と少年CQ」のメンバーとして、浜崎あゆみに恥じない人生をモットーに生きている。世界で一番好きな歌は『SURREAL』である。

 今回は、ワイドショーなどで「暴露本」などと揶揄されてしまっている本書について、長年浜崎あゆみを追いかけてきたファンとして率直な気持ちを書いていきたい。

■ファンは「今、言うんだ……」と驚いた

 本書では、初期の楽曲である『poker face』や『Trust』、『appears』や『TO BE』等に触れながら、歌詞の答え合わせをするようにマサとの出来事や心情が吐露されるが、そもそも浜崎は自分にとってマサの存在がいかに特別で大切かということを今までも口にしてきていた。

 例えば『A BEST2 -BLACK-』(2007)に収録された『part of Me』はマサを想って書いた曲としてファンには知られている。「時々僕は思うんだ 僕達(ぼくら)は生まれるずっと前 ひとつの命分け合って 生きていたんじゃないかって」と歌い始める浜崎はまるで人間球体説を唱えるプラトンのようである。このように、マサは私の一部、そして私もマサの一部であって、お互いにかけがえのない存在だということは、今までも公にされていた。

 熱心に歌詞を聴いていたファンからしたらなんとなく察してはいて「付き合ってたんだ!?」よりも「今、言うんだ……」の驚きのほうが大きかったのかもしれない。浜崎が「彼の存続と共に浜崎あゆみの行方も決めさせて頂きたいと思っております」とコメントした、エイベックスのお家騒動も一生忘れません。

■恋人を思って創作しても、歌詞は自分のことばかりの理由

 さて、「自分の身を滅ぼすほど、ひとりの男性を愛しました」と自身の言葉で語っているし、恋愛の暴露本として捉えることも出来るけれども、あの頃の楽曲を聞き直しても何だか二人の蜜月を歌ったラブソングには聴こえない。あなたのことだけを思って歌を書いても、自分の事ばかり書いてしまう。

 これは浜崎自身のヒロイン体質にも依るだろうが、やはりマサと出会って別れたことによって立ち上がった孤独の輪郭、他人を愛する事で初めて生まれる孤絶の磁場が強大だったということなのだろう。「人は皆通過駅と この恋を呼ぶけれどね ふたりには始発駅で 終着駅でもあった」(『Far away』)と歌う浜崎を思い出す。生きる意味をくれた人、自分を自分にしてくれた人、濱崎歩を“浜崎あゆみ”に仕立て上げた人。元彼っていう呼称のしっくりこなさがすごい。この本を読んで感じ取れるのは未練ではなくて、忘れられない恋を超えて、人生でずっとずっと大切な人として存在しているのだなということだった。それでも本当のことは、二人しか知らないけど。

 なぜ今のタイミングで告白本を出版したのかは測りかねる。けれども、浜崎あゆみの浜崎あゆみらしさに惹かれている者としてはまた『MY STORY』が更新されたんだね……と痺れるのだった。人生を、悪趣味なほどド派手なショーにしなければ、生きていけなかったおひめさまよ。自分の人生の主役は自分である事を、彼女は私たちに教えてくれた。絶えず移ろいゆく消費社会の中で孤独をさらけ出して戦う強さを、いつまでも見せてくれている。個人の人生を生きることと、人生がスペクタクル化されることの狭間で浜崎はずっと引き裂かれながら。それでも続けているのが最高にかっこいい。

■“浜崎あゆみ”らしさとは、「引き裂かれていること」

 そう、浜崎あゆみはいつも引き裂かれているのだった。私が思う浜崎あゆみ“らしさ”がここにある。ひとりの人間としての人生と、スターであり商品としての“浜崎あゆみ”。生身の人間と加工されたデジタルな画像。エイジングへの反抗。強さと弱さ、光と影。愛されたい願いと、こんな私が愛されるはずがないという悲しみ。愛したい渇望と、誰のことも愛することなんて出来ないという諦め。自分しか愛せない絶望と、自分だけを愛せない絶望。明るい曲調で歌われる嘆き。サーカスのような仰々しい演出で歌われるたったひとりの地獄のような感情。

「僕らはきっと 幸せになるために 生まれてきたんだって思う日があってもいいんだよね」(『immature』)や「僕達は幸せになるため この旅路を行くんだ」(『Voyage』)と歌ったかと思えば「今更幸せの定義なんて 語る資格などどこにも残ってない」「私には幸福な結末など 似合わない事も誰よりわかっている」(『HAPPY ENDING』)と歌う姿がある。頑丈になりすぎた小さな身体に、あらゆる強い感情と正義が混在している。それらは溶け合えず、割り切れないままで、煌びやかなステージが全うされ続ける。ちょうどいいところではやめられなかった歌姫のバチバチの悲哀。かっこよくないところまで見せてくれるのが、本当に美しい。いやマジで、他に誰が浜崎あゆみ20年やれますか? 無理だからね!

 私は未就学児の頃からあゆのことが大好きだったけれど、田舎に生きているとコンサートに行くという発想がなかった。上京してから初めてコンサートに行って号泣したときは、もうあゆを好きになって15年くらい経っていたと思う。浜崎あゆみで居続けてくれて、ステージに立ち続けてくれて本当にありがとうと思った。

 ツイッターで毎日のようにライブの告知をしているアイドルの自分としては、今自分の事を好きになってくれた人が会いにきてくれるのは15年後かもしれないという可能性を考えると途方もないが、それでも誰にどのタイミングで「いつか」が来ても活動し続けていたいと志すのだった。しかも、どこまでも自分のままでいることに妥協をしないままで。それが浜崎あゆみに恥じない人生を送るという事ですからね。ああ、日本国民今すぐ手のひらを返してあゆ再評価の流れ、突然来てほしい。批評や言論に見逃され続けてきた浜崎を照らし直す方法を考えたい。

■気になるのは、「M」に対する「N」の存在

 最後に、どうしても気になるのは「M」に対する「N」の存在についてである。マサを想って書かれた楽曲の歌声の切迫具合と、Nを思って書かれたと察せられる楽曲の歌声の優しさの対比は鮮やかなものだ。

「N」はひたすら美しさや眩しさを感じる存在──『JEWEL』であって、例えば宝飾ならば身につけて自分を美しくしてくれるけれど、美しく輝いて見える人と対峙し続けるのは自分の心の醜さや陰を浮き彫りにされ続けるということでもあるから、光が眩しい時に目を閉じるようにして、離れるしかなかったということなのかな……って10年くらいめちゃくちゃ勝手に思っているのだがどうなんだろうか。事務所的にありえないけどいつか『N 僕の大切な宝物』出版希望です。でもこれ以上やらなくて大丈夫です。浜崎さんの幸せをいつも願っています。

(ゆっきゅん)

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