「メタルギア」の小島秀夫が考える“エンタメが戦争から逃げられない”理由

「メタルギア」の小島秀夫が考える“エンタメが戦争から逃げられない”理由

©Konami Digital Entertainment

 映画とゲームの共通点はどこにあるのだろうか。

 その答えのひとつは「テクノロジー」である。映画とゲームは、テクノロジーの発展とともに歩んできた。19世紀末にリュミエール兄弟が発表した世界最初の映画のひとつである『列車の到着』は、プラットフォームに蒸気機関車がやってくる情景を見せるだけのものだった。そこには当然、音もなく、白黒の画面だったが、これを観た観客は、その臨場感に度肝を抜かれた。これは最新のテクノロジーであるVRが実現する臨場感や驚きと本質的に変わらない。

 ビデオゲームの原型は、1962年にMITの学生が開発した『スペースウォー!』と言われている。これは記号化された宇宙船を操作して対戦させる、極めてシンプルでプリミティブなシューティング・ゲームだった。

 映画もゲームもその最初期は、ともに単純な「動き(アクション)」しか表現できなかった。キートンやチャップリンの無声映画(サイレント)は、彼らのアクションに支えられていたし、『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)ですら、単純なアクションだけで構成されたゲームだった。やがてテクノロジーの発展とともに、映画やゲームは、色や音を得て、複雑な世界やエモーショナルな人間のドラマを描けるようになった。

■ひたすら敵から逃げるシチュエーションを描いた『ダンケルク』

 クリストファー・ノーラン監督は、最新作『ダンケルク』を、最新の技術であるCGを極力使わずに、実物大のセットを組み、大量のエキストラを動員して完成させた。いわば、ひと昔前のテクノロジーで戦争映画を再構築してみせたのだ(これは、現在の映画作りにおいて、逆に贅沢で大胆な試みである)。

 この作品が大ヒットをしている(8月下旬時点で全世界での興行収入は3億9千ドルと報じられている)。

 本作は「ダンケルクの戦い」と呼ばれる、第2次世界大戦中に実行されたイギリス軍とフランス軍による撤退作戦を描いた、いわば「地味な」題材の戦争映画であり、米軍が出てこないにもかかわらず、大ヒットしている。敵であるドイツ軍を倒すという高揚感もなく(この映画には、ドイツ兵の顔は一度も出てこない)、ひたすら敵から逃げるというシチュエーションを描いた、王道ではない戦争映画が評価されているのだ。これは驚くべきことと言っていい。

 この映画にはほとんどセリフがない。兵士の名前すら語られない。故に、キャラクターのバックグラウンドは観客には伝わらない。彼らの過去に根ざした物語は語られず、「逃げる」というアクションと、そこから生まれるサスペンスが観客を惹きつける。これはキートンやチャップリンのサイレント映画と同じだ。

■最新のテクノロジーを用いずに完成させた、体験型映画

 セリフのほとんどない物語は、陸、海、空の3つのパートで構成されている。所属する部隊からはぐれて、市街戦から脱出し、ダンケルクの浜辺までたどり着いたイギリス軍の若い兵士(陸)、救助のために海を渡ってダンケルクを目指す民間人の船長(海)、救援を妨害するドイツ軍を攻撃する空軍パイロット(空)の3つの視点によるアンサンブルが、観客を戦場に引き込んでいく。ちなみに、パイロットを演じるトム・ハーディは、あの『マッドマックス:怒りのデス・ロード』のマックスよりもさらにセリフが少ない(何しろ彼は、ほぼマスクをつけた状態で、コックピット内だけで演技をしているのだ)。
結果として、この映画は、撤退こそが勝利を意味するという戦争の別の局面を見事に描き出した。我々は、ドイツ軍から我先に逃げ帰ってきた40万人の兵士こそが英雄だと知るのだ。

 つまり『ダンケルク』は、最新のテクノロジーを用いずに、映画のプリミティブな要素を前面に押し出すことで、VR時代における体験型の新しい戦争映画を提示したのだ。

 この映画の大ヒットの後では、最新のテクノロジーによる戦争映画、敵との戦いに勝利するという正統派の戦争映画は、古く見えてしまうだろう。

■『メタルギア』を生んだ『大脱走』の思想と構造

 敵と戦わずに逃げることで勝利する戦争映画といえば、我々は古典的な傑作を知っている。1963年に公開された『大脱走』である。改めて述べるまでもないが、第2次世界大戦時に、脱出不可能と言われたドイツ軍の捕虜収容所から、集団脱走を試みる連合軍兵士の群像劇だ。『ダンケルク』同様に、実話に基づいた映画である。

 前線に出向いて銃で敵を倒すことだけが勝利ではない。逃げることも抵抗の証であり、それがドイツ軍を撹乱し、戦況に関与することで勝利に導く。そのことを描いた「反戦」映画でもある。

『大脱走』の構造と思想をインスピレーションのひとつとして生まれたのが、『メタルギア』(1987年)だった。

 すでに何度も語っていることだが、会社から私へのオーダーは「戦争ゲームを作ってくれ」というものだった。ところが、当時のハードウェアには、戦場の最前線を再現する性能はなかった。その制約から生まれたのが「戦闘を避け、敵から隠れて進む」ステルス・ゲームの祖である『メタルギア』だった。

 前述したように1985年に生まれた『スーパーマリオブラザーズ』ですら、記号化されたキャラクターを「ジャンプ」と「走る」という二つの動詞(動作)で操作することで、ゲームとして成立させていた時代である。

 1962年の『スペースウォー!』では人間の記号化も無理だったので、楔と針の形をした宇宙船を作り、背景を省力化できる宇宙空間で戦わせていた。その後、1970年代に『ポン』や、『スピードレース』『スペースインベーダー』などが登場し、ビデオゲームは成長し、拡大していく。

 しかし、その構造、すなわち、記号を操作して「アクション」させるという基本動作は変わらないままだった。

■単純な動作のゲームに「競争」という要素が入る

 その単純な動作にプレイヤーを感情移入させるための仕掛けが「競争」という要素だった。シューティングであれ、カーレースであれ、テニスゲームであれ、相手(それがCPUでも友達でも)との勝負がゲームの本質だ。その勝負のひとつの手段が「戦闘」だった。そこに複雑な説明はいらない。マリオですら、ピーチ姫を救うために敵を倒す(しかし、物語の設定としてのマリオとクッパの敵対関係は描かない)。

 表現能力に乏しいゲーム機でユーザーを遊ばせるには、単純なモチベーションが必要だったのだ。

 同時に、このようなシンプルさは、容易に国境を越える。「競争」という「アクション」は、わかりやすい。キートンやチャップリンのサイレント映画が全世界で受け入れられたのと同じだ。

 この構造は、現在の最新のゲームにも継承されている。3DでもVRでも基本は同じだ。テクノロジーの多くはシチュエーションに没入させるための臨場感を作るために使われる。余計な説明を排し、「敵が攻撃してきたから戦う」というアクションに導く(ワールドワイドで売れるために、敵は宇宙人やファンタジー世界の魔王のような架空の存在になっているが)。

『ダンケルク』は、戦場の臨場感を演出しながら「逃げる」、つまり「生存する」という「アクション」で映画を成功させた。これは戦争映画のひとつの究極だろう。
映画は一方向のストーリーテリングなので、アクションの選択は監督が握っている。そのため、これまでに「戦闘を描かない戦争映画」の秀作、傑作が生まれてきた(近年では塚本晋也監督『野火』や、ネメシュ・ラースロー監督『サウルの息子』などがあげられるだろう)。

■『メタルギア』には一貫して「反戦・反核」というメッセージがある

 では、インタラクティブなストーリーテリングを要求されるビデオゲームでそれは可能なのか? その問いに対する私なりの回答(と苦闘)が30年以上にわたる『メタルギア』の制作だった。

 ハードウェアの制約から生まれた『メタルギア』は、ステルス・ゲームというジャンルをつくったが、そこには一貫して「反戦・反核」というメッセージがある。私の親の世代は、第2次世界大戦中に生まれている。私たちの世代は子供のころから直に戦争体験を聞いて育った。身の回りの映画や小説などからも、戦争や核兵器の悲惨さや不条理を学んだ。ゲームというメディアが本来的に「戦い」や「競争」と相性がいいのだとしても、いやだからこそ、「反戦・反核」を訴えることはできるし、伝えることが必要だと思っていた。その思いがステルス・ゲームを産んだのだ。

 さらに、ゲームの流れを変えたいという意思もあった。

『メタルギア(MG)』『MG2』『メタルギアソリッド(MGS)』『MGS2』と発表してきたが、ゲームを通じて多くのユーザーと交流してわかったことがある。なぜ今のこの世界はこうなっているのか、戦争や核兵器が恐ろしいものだというのならば、なぜそれはなくならないのか。若い世代には、そのことがわからない、ということに気づかされたのだ。

■『MGS3』では米ソ冷戦時代を伝えたかった

 では、その原因にもなった時代を描いてみよう。そういう発想で生まれたのが『MGS3』(2004年)だった。舞台は1964年、米ソ冷戦の時代である。今ではソビエト連邦という国家があったことすら知らない人たちもいる。そんな現状に対して、過去のことを伝える必要がある。そう考えたのだ。

 第2次世界大戦中は連合国だった両国がなぜ敵味方に分かれ、核兵器で武装しているのか。イデオロギーによって人為的につくられた敵と味方、善と悪。絶対的な正義も悪もない。時代によって変わる善悪に翻弄される人の運命と意思を、ゲームによって伝えたい、体験してもらいたい。そのための仕掛けとして、『MG』『MG2』でソリッド・スネーク(善・正義)の敵だったビッグボス(悪)を主人公にした。

 のちにクリストファー・ノーランが『ダークナイト』(2008年)で描いたように、バットマンという正義も、ゴッサム・シティという「世界」を維持するために、悪と呼ばれることもあることを体験させたかったのだ。

『MGS:ピースウォーカー』(2010年)では、1974年の中米コスタリカを舞台にした。軍隊を持たない国家コスタリカで、軍とは何か、核武装による平和とは何かを考えて欲しかった。核兵器が世界を滅亡させることがわかっていながら、それを「抑止力」として保有するのはどうしてなのか。スネークは最終的にマザーベースが核武装することを選択する。ユーザーはスネークを通じて、その選択を体験するのだ。

■ユーザーの復讐心と「正義」を揺るがす仕掛け

『MGSV:グラウンド・ゼロズ』(2014年)では、『ピースウォーカー』でつくったマザーベースが崩壊させられる。ここでユーザーは、大いなる喪失感とともに復讐心を抱く。有無を言わさぬ敵の攻撃によって、ユーザーは逃走することもできない。戦わざるを得ない状況に巻き込まれるのだ。やられたらやり返す。これが戦争の本質であり、戦争の始まりの瞬間である。『グラウンド・ゼロズ』ではそれを描いた。

『MGSV:ファントムペイン』(2015年)では、復讐の実行が描かれる。ユーザーは「報復」のために仲間を集め、資金を集め、軍事力を蓄えていく。身を守るための「抑止力」として核装備もする。

 ゲームを進めていくうちに、ユーザーは当初抱いた復讐心と、これまでのシリーズで一貫して背負っていた「正義」が揺らいでいくのを感じることになる。さらにオンラインでは、それぞれのユーザーが自らの核を自発的に廃棄し、世界中から核兵器がなくなるという仕掛けも用意していた。現実の世界では無理でも、ゲームというフィクションならば、核兵器を製造してきた人類が、自らの意思でそれを放棄し、核なき世界を実現するという未曾有の「体験」ができるはずだ。そのゲームならではの体験を通じてこそ、「反戦・反核」というメッセージを理解してもらえるのではないだろうか。そう考え続けていた。ユーザー自らが核を必要とし、それを世界中のユーザーたちが共に廃絶する。この体験のプロセスこそが『メタルギア』の最大の狙いだった。その「体験」を実感してもらうために、『MGSV』では、「ヒーロー(スネーク)をユーザーに返す」というゲームにしかできない仕掛けを用意した。その上で、核武装したユーザー(スネーク)が、自らの自由意志で核廃絶をする。これが『MGS』シリーズが終わるという狙いだった。

『ダンケルク』も『大脱走』も『メタルギア』も、敵を倒すことが勝利なのではなく、命を守ることこそが勝利なのだ、ということを伝えようとしている。

■ゲームは、そろそろ「なわ」を手にしてもいい頃だろう

 では、『メタルギア』以降のゲームはどこにいくのだろう?

【「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」の一つだった。「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最初の友達だった。「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもいた】

 これは、日本の作家、安部公房の「なわ」という短編小説からの引用である。

 ビデオゲームは今でも、「棒」を手にした者同士が争っている。悪い空間や、自分に敵対する存在を退けようとするために、「棒」で相手を倒すという呪縛から逃れられない。

 この状況を変えてみたいのだ。

 ゲームは、そろそろ「なわ」を手にしてもいい頃だろう。「競争」だけではなく、善い空間を引き寄せて結びつける「なわ」のゲームが生まれてもいいのではないだろうか。勝ち負けによって敵と味方を二分するのではないゲーム、勝ち負けとは違うレベルの繋がりが必要なのではないだろうか。

 そんな決意のもとに現在取り組んでいるのが『DEATH STRANDING』である。

 映画が生まれておよそ120年。ビデオゲームは『スペースウォー!』から55年。
未だに敵を倒すだけの「戦闘ゲーム」が氾濫している。

 ゲームにおける『ダンケルク』や『大脱走』が生まれるべきではないだろうか。

 ゲームが本来持っている醍醐味や楽しさを損なうことなく、しかし、これまでとは本質的に異なった次元を体験できる作品が必要なのだ。

 そして、ゲームのインタラクティビティは、映画や他のメディア以上に、その「体験」を深くユーザーに伝えることができるはずである。

 少なくとも私には、その確信がある。

 そして、そこから逃げることはない。

INFORMATION

『ダンケルク』

9月9日(土)全国ロードショー

(小島 秀夫)

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