「その執念はどこから?」 阪神・糸原健斗のルーツを辿る旅

「その執念はどこから?」 阪神・糸原健斗のルーツを辿る旅

昭和の雰囲気が残る若き虎の主将、糸原健斗 ©時事通信社

 泥臭い、しぶとい、がむしゃら。彼はスマートでない言葉がよく似合う。令和のこの時代にどこか武骨さを感じさせる彼にすっかり惚れ込んだ。それは努力や苦労といった簡単な言葉では表現できないようなものをいつも感じるからだ。先日、3年間ずっと疑問に思っていたことをようやくぶつけることができた。「その執念はどこから来るの?」。この一言で私は少しの旅に出ることになる。「明治大学に行ったらわかると思います」。昭和の雰囲気が残る若き虎の主将はどのようにしていぶし銀となったのか。そのルーツを探った。

■糸原健斗のルーツを辿って明治大学へ

 東京都府中市にある明治大学硬式野球部の合宿所を訪ねると、善波達也監督が目尻を下げて出迎えてくれた。「今日はイトのいい話をしないといけないですね」。糸原健斗は入学時から早くにレギュラーになるような選手だったという。「入ってきたときから執着心、勝負根性があるタイプで、チームのために何かをやってくれるんじゃないかなという雰囲気の子でした」。これは開星高校(島根)での野々村直通元監督の教えではないかと善波監督は分析するが、確かに当時から糸原はいやらしい打者のイメージがある。甲子園には3度出場。3年夏の仙台育英戦で左中間に放った大飛球を記憶しているファンも多いだろう。高卒でプロの世界へ行けなかったわけではないが、そのままプロ野球選手になっていたらもうクビになっていると糸原本人は冷静に振り返る。「明治での4年間が生きる道を教えてくれました」。

 高校時代のプライドとの闘いだった。中でも打撃スタイルは金属から木製にバットが変わることによって、大きく変えることを迫られた。「金属バットは芯の幅も広いし軽いし振った者勝ちなので、ぶんぶん振っていましたね」と指揮官が笑うように、糸原はそれまで右手でグリップエンドが少し隠れるくらいバットを長く持っていた。入学してまもなく、それを少し余らせて持つように善波監督は指導するが、甲子園で活躍した期待の1年生はすぐに受け入れることができなかった。「これで打てていたのになんでこんなに短く持たないといけねーんだよ、といった感じですぐに全部をやろうとはしなかったですね。過去のプライドを1回へし折って、もう一回しっかりやり直す方が道が開けるよとアドバイスはしました」。

 プロに行きたい気持ちが強かった糸原はいくらかの時間はかかったものの、自分が生き抜く道はこれだと1年生の間にバットを短く持つようになった。「でかい奴には負けたくないんで」。身長175cmと決して大きくない自分には内野の間を抜くような打撃が必要と理解し、今ではそれこそが糸原の持ち味となっている。指2本分余らせてバットを握る糸原スタイルは少しの葛藤の末生まれたのだ。

■4年間寝食を共にした“おじいちゃん”を訪ねて名古屋へ

 複数のポジションを守れるようになったことも糸原をプロの世界へ導いてくれた。善波監督は、1・2年生の頃の糸原を見て「プロに行けるとは思わなかった」という。「野球勘はあるけど、きついよなって。サードだけでなく、セカンドもやらせないとプロへの芽が摘まれてしまうと思いました」。打線は水物。守れるポジションが増えれば、少し打率が下がったとしてもチームのパーツになれる可能性は高い。現に、プロ2年目にして昨季は全試合に出場し、今季も3試合を残して(9月25日時点)ここまで全試合出場を果たしている。特に今年はセカンドに加え、サードやショートもこなしている。明治では当時、ショートには福田周平(オリックス)がいたため、糸原はセカンドとして鍛えられることになるのだが、「イトの守備は全部松岡さんですよ」。ユーティリティーの糸原を作ってくれたのは松岡氏だと善波監督は強調した。

 私は愛知県名古屋市へ飛んだ。糸原が「めちゃくちゃお世話になった」という松岡功祐氏を訪ねるためだ。とても76歳とは思えないほどエネルギッシュな松岡氏は同校OB。大洋ホエールズで11年間内野手として活躍。コーチやスカウトを経て、その後5年間、明治でコーチを務めた。現在は中日ドラゴンズの選手寮・昇竜館の館長である。

「糸原の活躍が一番嬉しいんですよ!」と、“孫”と過ごした4年間を飛び跳ねるように振り返った。「他人事だと思えなかったんです」。松岡氏は身長167cm。小柄ながらドラフト1位でプロの世界に飛び込んでいた。「体が小さいとか関係ないから。毎日一生懸命やれば間違いなくプロにいけるよって」。169cmの福田と共に4年間徹底的に鍛えた。1日は長い。毎朝5時半のラジオ体操の際に2人にはグラブを携帯させ、シャドーでの守備練習を課した。全体練習が終わった午後8時からは2時間ノック。リーグ戦中も構わず、体が疲れていようが試合後も夜遅くまで練習した。「どんなに苦しい練習もね、あの2人は嫌な顔せずついてきました」。プロに行きたいという気持ちの強さが嬉しかった。だからこそ松岡氏もなんとかしてやりたいと必死だった。

 糸原は1年ごとに目に見えて成長していった。それは「ここ(気持ち)が違ったから。あの強さは男からみても魅力のある人間ですよ」というように、プロ野球選手になりたいという執念があったからこそだったという。“孫”の結果は欠かさずチェックしている。「いつかはユニホームを脱ぐ時が来ますから、それまで後悔しないように1年1年頑張ってほしいです」。4年間寝食も共にした“おじいちゃん”は今もライバル球団から温かいまなざしで見守っていた。

■「見てくれている人は必ずいますから」

 もちろん技術だけではない。選手としてある前に1人の人間として大切なことも培った。普段の生活や取り組みをきっちりすることが技術の向上につながるという明治伝統の“人間力野球”だ。打席に立った時の“なにかしてくれそう”な雰囲気もそこから来るものだ。簡単に三振したり、打ち上げたりしない。糸原は初球をほとんど打ちにいかないのだが、それは決して消極的なわけではない。「チャンスの時は打ちに行きますけど、自分みたいなタイプが初球を簡単に打ち上げてしまうのは違うと思うんですよね。それに球数を投げさせることで、相手投手の球種や軌道を後ろのバッターにみてもらうこともできる。自分だけの打席じゃないですから」。

 主将になった今年、“チームのために”という気持ちはより一層強くなった。“人の為に”という気持ちは善波監督の背中を見て学んだ。4年秋にリーグ優勝した際の善波監督のインタビュー。第一声は「スタンドのみんなのお陰で勝てた」という言葉だった。「120人を超える野球部の中で、裏で支えてくれた部員を大切にする監督でした。感謝の気持ちを持つ、忘れてはいけないことを学びました」。糸原がしょっちゅう口にする言葉がある。「見てくれている人は必ずいますから」。明治の頃から続けているトイレ掃除は今も毎日欠かさない。しばらく自宅を空ける遠征前は、特に綺麗にするそうだ。「ヒット1本。ありがとう」。そう思いながら、甲子園の通路に落ちているゴミを拾うのも糸原の中では当たり前の行動になっている。

 最後に、善波監督にとって忘れられないシーンがある。4年秋の明治神宮野球大会決勝戦、駒澤との日本一をかけた戦いだ。今永(DeNA)に相対した糸原はインコースのボールを打ちに行った。ボールは手に当たったのだが、それがショートへ転がったのをみて1塁へ全力疾走したという。「走んなくてもいいのに走ったんですよ(笑)。痛てぇって転がってくれていたらよかったのに、ショートゴロになっちゃって(笑)。あれもやつの執着心というか執念ですよね」。明治は結局準優勝に終わったが、全力でプレーしたからこそ今では笑い話になっている。指揮官が“イトらしさ”を感じるのは「ちょっとユニホームが汚れていたりするようなとき」だそう。練習を積み重ねたことで、あれだけやったんだから負けられないと執念が生まれるに違いない。虎の背番号33は綺麗にかっこつけて野球をやる選手ではない。「ユニホームは作業着なんだから、それをどろんこにして仕事するって最高じゃないですか?」。まさに土のにおいがする男である。糸原健斗がなぜ糸原健斗なのか少しわかった気がする。

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(市川 いずみ)

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