映画「ワンダーウーマン」から読み解く「社内事情あるある」――ダイアナの正体は花咲舞だった!?

映画「ワンダーウーマン」から読み解く「社内事情あるある」――ダイアナの正体は花咲舞だった!?

©2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.AND RATPAC-DUNEENTERTAINMENT LLC

 アメコミ原作のノーテンキな映画を観ているはずが、いつのまにか職場での生々しい人間関係に思いをはせている自分に気づくのが、映画「ワンダーウーマン」の不思議なところ。それも「ああ、主人公のダイアナ(=ワンダーウーマン)みたいな女性、ウチの会社にも結構いるよなあ」というノリで。

 仕事熱心。共感力にたけていて、曲がったことは大嫌い。「顧客本位」「企業の社会貢献」などの正論をガンガン主張し、それが実現すれば世の中はよくなる、ということを信じて疑わない。ダイアナが、「悪の神を倒せば、この世界を覆いつくす戦争(舞台は第一次世界大戦時のヨーロッパ)はあっという間に終結する」と心から信じているように。

 こういうタイプの女性、元気はいいけどまず出世できません。出世するのは、女性らしい上司に対する細やかな気配り(たまにお色気を併用する人もいますが)を失わず、しかも「会社の空気」「会社の論理」を踏まえたそつのない仕事ができる人。「男社会としての会社」に適応し、それに対する忠誠を誓った女性たちなのだ。

 だけど、ここにはパラドックスがある。

 今の世の中、女性への期待が高まっているのは、まさに「男たちが作ってきた閉塞感に満ちた会社・社会」の突破・打破が求められるからだ。「男の論理を体現するような女性しか前面に出られない」男女共同参画社会なんて、従来の男社会の焼き直しに過ぎないではないか。稲田朋美前防衛大臣が安倍総理に重用されたのはその典型例だろう。

 では、元気がいい女性たちの「身近な人々や弱者に対する共感力と、それに基づく突破力」を、実際に会社・社会を変革する力として活かすにはどうすればいいのか。

■女の“自己実現”を支える男の“自己犠牲”

 映画「ワンダーウーマン」の示す答えは、「女性の突破力の真価を理解した男性が、あえて女性の踏み台になること」。つまりこの映画、女性の自己実現物語であると同時に、男性の自己犠牲物語でもある。特に男に対して、「強い女の踏み台になるのも、なかなか気持ちがいいものですよ」と巧みに訴えているのが、女性監督パティ・ジェンキンスのしたたかさであり、ヒットした最大の要因とも思えるのだ。
 
 そうした構図が最初に明確になるのが、ダイアナとスティーブが密命を負って戦場へと赴く場面(ここ、ちょっとだけネタバレします。ご容赦ください)。

 第一次世界大戦では、機関銃など新兵器の登場により、敵陣を正面突破しようとすると膨大な損害が発生。敵味方とも横に長ーい穴(塹壕)を掘って延々とにらみ合いせざるを得なくなり、膠着状態の中で死者だけが累々と積み重なっていった。この作品における「戦争」とは、閉塞しきった現代社会のメタファーに他ならない。

 この「塹壕戦」を初めて目撃したダイアナは、「なぜ、戦って彼らを救おうとしないのか」とスティーブに詰め寄る。だが、こうした状況に慣れっこのスティーブは「この戦線は、1年間戦っても2ミリも動かない」「おれたちにできることは何もない」と足早に立ち去ろうとする。会社の理不尽な空気を延々と呼吸し続け、それに対する疑問や反抗心が麻痺してしまった男性社員代表がスティーブ、というわけだ。

 ダイアナは「こうした状況を前に何もしないのは、戦士のやることではない」と剣を取り、「ワンダーウーマン」と化して戦場に突進していく――。

 この場面のカタルシスは半端ない。正直、背中がゾクゾクしました。

 男性ヒーローが同じシチュエーションで立ち上がっても、すれっからしのオヤジたちは「青っぽい正義感だねえ」「現実には無理無理」などと白けてしまうことだろう。私たちが感じている「女性ならばこの閉塞した状況を変えられるかも」という期待感を、作り手たちがうまくすくい取ったからこそ、このシーンは圧倒的な解放感をもたらすのだ。

 で、ダイアナの活躍に勇気づけられたスティーブたち男性も敵陣に向かうのだが、ここで注目するべきは、スティーブは終始ダイアナのサポート役に徹し、戦いのクライマックスでは自らの身を投げ出して、ダイアナが敵の本拠地へとジャンプするための「踏み台」になることだ。

 なぜ、スティーブは踏み台にならねばならないのか。
 
 ダイアナのような「突破力ある女性たち」にありがちな弱点は、「身近な人々に共感するあまり、世界を俯瞰して冷徹に観察することがおろそかになりがち」なことだ。それはまさに、ダイアナの「悪の神を倒せば平和が訪れる」という単純な世界観と呼応する。

 しかし、この複雑怪奇な会社や社会にあっては、単純な世界観ではすぐに足元をすくわれてしまう。「突破力ある女性たち」がその真価を発揮するには、「複雑でゆがんだ会社・社会の現実を十分に理解し、それが仕掛けてくる罠に対抗できる優秀な男性」のサポートが必要なのだ。劇中、ダイアナの単純な世界観が打ち壊された後にこそ、彼女が最もスティーブの助力を必要とするように。

■花咲舞は、女性行員のコスプレをしたワンダーウーマン

 こうした「女性の突破力と男性の自己犠牲」という協働関係を、「ワンダーウーマン」に先立ってエンタメ化したのが、2014年と2015年に日本テレビ系列で放映されたドラマ「花咲舞が黙ってない」だ。

 舞台は大手都市銀行。主人公の女性行員花咲舞は、上司を上司とも思わぬ性格だが、情には厚く顧客や同僚から慕われる。彼女はなぜか窓口係から、銀行内の不祥事を調査する「臨店チーム」に抜擢され、出世コースから外れた男性上司・相馬健と共に、行内のさまざまな理不尽に立ち向かう――。

 相馬が、「手柄は上司のもの。ミスは部下のもの。それが銀行の常識ってことだ」「たとえどんなに正論でも銀行では通用しないってことがあるんだ」と組織の歪みを受容しようとするのに対し、花咲は「理不尽なことを言われて苦しんでいる人を見て、黙っているのが銀行の常識ってことですか」「そんな常識なんて、くそっくらえ!です」と激しく反発。人件費カットのため退職を迫られるベテラン女子行員や、上司の不正の尻ぬぐいで左遷されようとしている若手行員を、独断専行で救おうとする。

 お気づきだろうか。これって、塹壕戦を目の当たりにしたダイアナとスティーブのやりとりと、まるっきり同じ構図なのだ。

 で、スティーブがダイアナの熱意にほだされてサポート役に回ったように、相馬も次第に花咲に共感し、その経験と頭脳を生かして花咲をサポートしてゆく。その結果、相馬は花咲以上に社内の上層部からにらまれ、「自らを危険にさらす=自己犠牲を強いられかねない状況」に陥っていくのだ。

 ハリウッドが「花咲舞」をぱくったとも思えないから、こうした「女性と男性の新たな協働関係」は、洋の東西を問わず人々の新たな理想像となりつつあるということだろう(そう言えば、「花咲舞が黙ってない」の原作である池井戸潤作「不祥事」の実業之日本社文庫版表紙は「女性行員のコスプレをしたワンダーウーマン」みたいですね)。

 そして、もう一つのミソとなるのは、こうした協働関係では、サポート役に回る男性のプライドは決して傷つかず、むしろ「全体像を把握し、女性をうまく使っているのはオレだ」という秘かな満足感も味わえることだ。

 逆に意識が高い女性の一部は、作中の「男性の潜在的上から目線」に敏感に反応し、反発するかもしれない。この映画は「主人公が過剰に性的」として国連職員らから批判されたが、女性論的な視点から一番問題になりそうなのは、実はそうした作品構造自体ではないか。
http://digital.asahi.com/articles/ASK9700V6K96UHMC004.html

 もっとも、ハリウッドという男社会で、「ワンダーウーマン」監督の座を射止めたジェンキンスは、「そうした『男受け』の要素こそ、企画を通し作品をヒットさせるには不可欠」という醒めた判断で、こうした構図をあえて採用したように思える。

 女性的な「突破力」と男性的な「俯瞰力、状況判断力」の両方を備えた彼女こそ、真の「ワンダーウーマン」ではないだろうか。

INFORMATION

「ワンダーウーマン」
8月25日(金)全国ロードショー 3D/2D/IMAX
ワーナー・ブラザース映画
wwws.warnerbros.co.jp/wonderwoman/

(小石 輝)

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