「文化放送ライオンズナイター」に日ハムファンがくさびを打ち込んだあの頃の話

「文化放送ライオンズナイター」に日ハムファンがくさびを打ち込んだあの頃の話

1988年にドラフト1位で日本ハムに入団した中島輝士 ©文藝春秋

 中島大輔監督率いる文春西武とのCSファイナルが決まって、あぁ、西武との決戦かぁと物思いにふけった。宿敵・西武ライオンズ。80年代の黄金期からこっちこてんぱんにやられ続けて、いつも西武電車に乗るのが憂鬱だった。西武球場前から負けて帰る道が本当に遠いんだよ。大敗した後などオレは一体、何を求めて西武電車に乗ったのだろうと後悔した。

 西武はパに変革をもたらした球団だ。福岡→埼玉の球団移転、新たな球場建設、一新された球団ポリシー、続々と集められたスター選手。のーんびり人脈と経験とでまわってたパに新風が吹き込んだ。かつての西武というと「清原、秋山、デストラーデ」がパッと浮かぶけど、田淵幸一も野村克也も江夏豊もブルーのユニホームを着た。めっちゃ派手だった。

 その80年代の黄金期、具体的には1982年4月に「文化放送ライオンズナイター」がスタートしている。これは(特に最初期は)徹底した身びいき応援放送だった。西武球場の敷地は「武蔵野・狭山丘陵の緑にかこまれたボールパーク」、チームを言うときは「我がライオンズ」。もちろん日ハム党の僕としては複雑ではあったけど、そんなことより何よりパ・リーグの生中継を聴かせてくれるのだ。当時はテレビもラジオも巨人戦一辺倒だったから、これは画期的だった。

 だから僕は70年代に「他球場の途中経過」を見るためにテレビの巨人戦中継を見ていた(他に知る方法がなかった)ように、80年代は「文化放送ライオンズナイター」を聴いた。野球は大好きだから巨人戦も西武戦も邪魔にはならない。というより積極的に楽しんでいた。ライオンズナイターが素晴らしかったのは5カードにいっぺん日ハム戦をやってくれることだ。これは「他球場の経過」でなく、何とまぁ、自分たちの試合だったんだよ(!)。

■公共の電波で日ハムファンを初めてカミングアウトした日

 その文化放送にガツッとくさびを打ち込んだのは90年代に入ってからだ。当時、僕は文化放送の看板番組『吉田照美のやる気MANMAN!』で週イチのラジオコラムのコーナー(「マイクサイドボクシング オレに言わせろ」)を持っていた。基本的にはサブカルっぽいネタを中心に取り扱っていたのだが、ある日、何かの拍子に東映→日拓→日ハムの外野手、岡持和彦の話をしたのだ。

えのきど「オカモチじゃなくオカジですよ。左の強打者。1981年の日本シリーズでホームランも打ってます」

吉田照美さん「オカジ? 知らないなぁ。本当に有名な選手なんですか?」

えのきど「バカ言っちゃいけない。照美さん、これを聴いてる日ハムファンが今、全員ラジオにつっこんでますよ。岡持は最高のバッターでした。その後、ハムで打撃コーチも務めてます」

吉田照美「知らないなぁ。えのきどさん、何でそんなこと知ってるんですか? 日ハムのファンなんですか?」

 今なら当たり前すぎて、ラジオ番組で「日ハムのファンなんですか?」と尋ねられることはまず考えられないけれど、たぶんね、このときが公共の電波でハムファンをカミングアウト(?)した最初だと思う。

えのきど「はい、日ハムファンですよ」

吉田照美さん「えー、何でですか?」

 次の日から文化放送あてに関東一円のハムファンから郵便物がじゃんじゃん舞い込むようになる。「照美さん見損なったぞ、好きなことに理由はいらない!」「えのきどさん、オレも日ハムが好きだ。これまで誰にも言えなかった」「ラジオで言ってくれて私も勇気がわきました。今なら言えます。白井一幸のファンです」「岡持さん、懐かしいです。サイン持ってます」「吉田照美はテルミー、中島輝士はテルシーです」etc.

 何か重しが取れたように皆、日ハムを語りだした。翌週もその翌週も日ハム関連の郵便物が途絶えない。あれ半年くらい続いたんだよなぁ。もう、しょがないから番組内で日ハムファンクラブを組織しようということになり、「やるMANファイターズ会」という球団非公認の団体が生まれる。募集もしてないのに300人くらい集まった。

 球団に掛け合って81年優勝時のキャップを復刻してもらった。が、生地がもうないために、正規メーカー、中央帽子(株)が工夫してくれて、青赤キャップの青の部分はドラゴンズ、赤の部分はカープを組み合わせた。で、それをかぶって東京ドームに集まろうって算段だ。青赤を見かけたら仲間だから一緒に観戦すればいい。そうやって人が増えていき、だんだん地下抵抗組織のようになる。シーズンの終わりには「プロ14年目に花開いた苦労人」、渡辺浩司内野手の「やるMANファイターズ会MIP表彰式」を開催した。

■「文化放送ライオンズファイター」と呼ぶ活動

 で、翌96年春、驚いたことに僕がパーソナリティの朝ワイド(『えのきどいちろう意気揚々』)がスタートするのだ。やるMANファイターズ会は自動的に「意気揚々ファイターズ会」に名称変更された。この番組のすごかったところは毎朝、「ファイターズ讃歌」がかかるのだ。そんなの今の北海道ならありふれていると思うが、これは90年代の東京の話だ。長年の日ハムファンだったある営業マンはあんまりびっくりして事故りそうになり、路肩に会社のクルマを停め、聴き入ったという。

 それは「ファイターズ・エキサイティング・ネットワーク」というコーナーだった。えのきどいちろうは生涯初めて毎朝、公共の電波を使って「田中幸雄の人のよさ」や「芝草宇宙のていねいなピッチング」や「ブリトーのホームランの迫力」やなんかを話してもいいことになる。最高だ。ライオンズナイターの文化放送に完全にくさびを打ち込んだ。

 そのうち応援仲間の一人が思いついたのだが、「文化放送ライオンズナイター」を、レジスタンス活動として、僕が発語するときだけ「文化放送ライオンズファイター」と呼んだらどうだろうかということになった。

えのきど「いやもう、ホントに今夜の文化放送ライオンズファイターは楽しみですね。皆さん絶対にお聴き逃しなく!」

相方の水谷加奈アナ「ライオンズナイターです。ファイターじゃありません」

えのきど「ライオンズファイターで耳が慣れてくると、あれ、ライオンズファイター? ファイター? ん、ファイターズライター? と、グラデーションがかかって最終的にはファイターズナイターのとこまで行くんです。遠大な計画ですよ」

 ていうか僕は朝ワイドだけじゃなく、当のライオンズナイターにゲストで呼ばれたときもこっそり「ライオンズファイター」と発語していた。このコラムをご覧のライオンズファンの何パーセントかは脳裏に「ライオンズファイター」のグラデーションがインプリントされてるはずだ。30年くらいかけて、だんだん脳裏で変化していく予定ですよ。

■野球は相手あってこそのものだ

 朝ワイドは丸4年続いた。徹夜で原稿を書いてそのまま局入りしたりして、身体はきつかったけれど、その番組のなかで「ビッグバン打線」のネーミングを仕掛けたり、藤井寺球場のラストゲーム、イチローの大活躍、松坂大輔のデビュー等、パのビッグニュースを取り扱うことができた。面白かったなぁ。この間に、ファイターズは二度優勝しそうになるんだよ。上田利治監督時代だ。残念ながら二度とも夢破れた。それを僕は毎朝、生のコメントで語った。悔しいときはくぐもった声で、嬉しいときはウヒョウヒョの声で。

 まぁ、今はその名も「HBCファイターズナイター」(HBCラジオ)が現実に存在し、日本じゅうどこでもradikoプレミアムのエリアフリーで聴ける時代だ。必死の抵抗運動で「ライオンズファイター」を発語する必要はなくなった。「えー、何で日ハムファンなんですか?」という質問にも、多くの人が「北海道出身です」と答えればいい。

 また文化放送の側も柔軟になった。ある年「パ・リーグのど真ん中」をキャッチフレーズに採用したと思ったら、例えばロッテの話題を生活情報番組のなかで告知するようなった。そんなの僕がパルチザンとしてやっていたことだ。結局、1つの球団だけ盛り上げても限界があるのだ。野球は相手あってこそのものだ。対戦相手に魅力があったほうが間違いなく楽しいじゃないか。

 ライオンズファンだけでなく、すべてのパ・リーグファンにとって大変残念なことに、昨シーズンから文化放送はCSの中継放送を見送ることになった。が、安心してくれ。現場は沈黙しない。本放送とは別にインターネット中継を実施し、つまり彼らも野球を守るレジスタンス活動を始めたのだ。僕は根性あるなぁと感心している。

 だから中島大輔監督率いる文春西武よ。僕らはあくまで友軍だ。野球を愛していこう。無益な争いはやめて仲良くしよう。僕らの「文化放送ライオンズファイター」をこれからも大切にしよう。

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(えのきど いちろう)

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