今年限りで引退します……ヤクルト・畠山和洋から恩師にかかってきた突然の電話

今年限りで引退します……ヤクルト・畠山和洋から恩師にかかってきた突然の電話

今季限りで現役を引退した畠山和洋と師弟関係にあった猿渡寛茂氏 ©長谷川晶一

■畠山和洋から、突然の電話

「まさかさ、電話なんてかかってくるとは思わないじゃない……」

 そこまで言うと、次の言葉を探すように少しだけ間をおいて猿渡寛茂さんは続けた。

「……最後に電話があったのは、もう十数年も前のことだからさ。そのときは、“結婚します”っていう連絡だったよ。でも、オレの番号は誰かに聞いたのかな? それとも、登録してあったのかな? オレの携帯にはアイツの番号は登録していなかったよ。だから、最初は誰からの電話かわからなかった。でも、声を聞いてすぐにアイツだってわかったよ。嬉しかったよね……」

 猿渡さんの言う「アイツ」とは、今季限りで現役を引退した畠山和洋のことだった。かつて、彼と畠山は師弟関係にあった。いや、ここ最近はお互いに緊密な連絡こそなかったものの、それでも現在に至るまで両者の師弟関係は続いていた。そうでなければ、十数年ぶりに電話がかかってくるはずがない。

「……久しぶりにアイツの声を聞いたよ。で、“どうした?”って聞いたら、第一声が、“今年限りで引退します”って。いつかはそのときがやってくるとは思っていたけど、やっぱりショックだったよね。“あぁ、ついに引退か……”っていう思いが頭に浮かんだよ。でも、涙声じゃなかったのはよかったよね。もう、散々考えた上での結論だったんだろうね。意思が固まっている状態で、意外とサバサバしていたよ。だから、オレは“ご苦労さん”って、声をかけた。そして、彼に謝ったんだ。“すまなかったな”って……」

 このとき、猿渡さんは畠山に謝ったのだという。なぜ、久しぶりの電話で受話器越しに畠山に謝罪したのか? かつて、畠山と猿渡さんはどんな関係にあったのか?

■第一印象は「動きが悪いなぁ、太っているなぁ……」

 猿渡寛茂――ヤクルトファンにとってはなじみ深い名前だろう。長年にわたってファームを指導し、二軍監督まで務めた人物だからだ。家族の住む静岡県伊東市から二軍施設のある埼玉の戸田まで通うことはできない。だから、在任中は若手選手に交じって選手寮に暮らした。五十歳を過ぎてなお、若者とともに朝も夜も、白球を追いかける日々を送った。

 改めて、猿渡さんの略歴を紹介したい。現巨人・原辰徳監督の父である原貢監督率いる三池工業高校時代に甲子園で優勝。卒業後は三菱重工長崎を経て、1970(昭和45)年に東映フライヤーズに入団。その後、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズと球団名の改称はあったものの、77年まで現役を務めた。研究熱心で守備に対する飽くなき技術探求が評価されて、79年から84年まで日本ハムの守備コーチを担当することとなった。

 ヤクルトとのかかわりができたのが85年のことだった。このときヤクルトの監督に就任していた土橋正幸に請われる形で日本ハムから呼ばれた。かつてフライヤーズの二軍監督を務めていた土橋は、猿渡の野球に取り組む姿勢と確かな技術論を買っていたのだ。

「土橋さんには本当にかわいがってもらいましたよ。土橋さんは一生懸命練習する選手が好きなんですよ。僕は本当に下手くそだったから練習だけは必死にやった。高校時代に原監督にみっちり鍛えられていたから、とにかく体力だけはあったんだよね。それで、プロに入ってからも必死に練習をした。それを土橋さんは買ってくれたんだと思うよ。それで、ヤクルトの監督になったときに、“おい、ヤクルトに来い!”って言うんで、“わかりました!”って(笑)」

 土橋が監督を退任する86年限りで猿渡さんはヤクルトを去り、再び日本ハムのコーチとなった。そして、21世紀を迎えた2003(平成15)年、請われる形で彼はヤクルトに戻ってくる。役職は二軍守備・走塁コーチ。このとき、猿渡さんは印象的な若手選手と出会った。プロ3年目を迎えてもなお、いまだくすぶっていた畠山和洋だった。

「畠山の第一印象? うーん、バッティングはすごいんですよ。試合では勝負強いし、当時からすでに見所はありました。でも、僕は守備コーチだったので、“動きが悪いなぁ……”“太っているなぁ……”という印象の方が強かったね(笑)。高校を出てまだ3年目、二十歳ぐらいの若手にしてはちょっと体形が崩れていたんだよね。腹も出ていたし、“これは、相当鍛えないといかんなぁ”、そんなことを思ったことを覚えているね。同時に、“体を絞ればもっと守備もバッティングもよくなるな”って思ったんだよね」

 それからは徹底的に走らせた。レフトポールからライトポール間を何本も何本も走らせた。他の選手とは別メニューで朝も夜もなく走らせた。当時、二軍監督だった小川淳司前監督も当時を振り返る。

「畠山は練習でも走らされていたけど、私生活がだらしなくて問題児だったから、よく罰走させていたんですよ。あの頃はとにかく毎日、畠山は走らされていましたね(笑)」

 徹底的に走ったことで、すぐに成果が表れた。猿渡さんは言う。

「すぐに動きがよくなったというわけじゃないけど、遠征のときにスーツを着るでしょ? あのスーツが似合うようになったんだよね。ピチピチだったズボンがシュッと締まっていたんだね。そのときに、“あぁ、きちんと成果が出てるな”って思ったな(笑)」

 猿渡さんは楽しそうに、ハハハと笑った。

■畠山への謝罪、そして畠山からの感謝の言葉

 畠山が若い頃、猿渡さんは朝から晩まで練習パートナーを務めた。合宿所に寝泊まりしていたから、時間を気にすることなくファームの若手野手の練習に寄り添い続けた。打者に転向していた宮出隆自、ユウイチ(松元)、ツギオ佐藤、入団したばかりの青木宣親、そして畠山らとともに汗を流す毎日。やがて、畠山の才能が開花する。08年頃からは一軍選手としての日々が始まり、畠山はヤクルトの中心選手へと育っていく。一方、10年シーズンを最後に猿渡さんはヤクルトを去り、畠山との直接の交流はなくなった。

 それでも、テレビや新聞を通じて、畠山の活躍を陰ながら応援し続けた。15年の優勝に大きく貢献し、打点王のタイトルを獲得したときには自分のことのように嬉しかった。そして、久しぶりに電話が来たのが、先に紹介した「引退報告」だった。

「そのときは、“もう足がダメだから、今年で引退します”って言われました。それで、僕は“ごめんな”って謝りました。若い頃にむちゃくちゃ走らせたんですよ。そのせいで足を傷めたんだと思ってね……」

 この言葉を聞いた畠山は、すぐに否定したという。

「このとき畠山は僕に、“いやいや、あのときあれだけ走ったおかげで、この年まで野球ができたんだから、謝ったりしないで下さいよ。むしろ感謝しているんですから”、そう言ってくれました。てっきり、オレのことを恨んでいると思っていたのにね……」

 思わず、猿渡さんの胸が熱くなる。畠山とともに汗を流した、かつての日々がよみがえってきたからだ。

「まさか、そんな言葉をかけてもらえるなんてね。本当に嬉しかったですよ。あぁ、“コーチをやっていてよかったなぁ”って思いましたよ。本当に指導者冥利に尽きますよ。女房に言ったら、涙ぐんでいたよ。女房も嬉しかったんじゃないのかな?」

 この電話の後、猿渡さんは久しぶりに神宮球場に足を運んだという。もちろん、畠山の引退試合に駆けつけるためだ。伊東在住の猿渡さんは帰りの電車の時間もあって、試合終了後に行われる予定の引退セレモニーを見届けることはできない。それでも、神宮に駆けつけたかった。畠山が最後に打席に立つ姿を見たかった。試合途中に帰らなければならない猿渡さんは、「もしものときのために」と、念のために試合前のクラブハウスに顔を出し、「長い間、お疲れさま」とねぎらいの言葉を贈った。しかし――。

「帰りの電車の時間があるから、“もう帰らなくちゃいけない”というタイミングで、ちょうど、“代打・畠山”が告げられたんです。そして畠山は、満員のお客さんの前で大歓声を浴びながら、最後の打席でヒットを放った。最後の最後にいい場面を見ることができました。本当によかった、本当によかった……」

 愛弟子の最後の雄姿。胸を熱くしながら、畠山の現役最終打席を猿渡さんはしっかりと見届けた。畠山和洋――猿渡さんにとって、忘れられない師弟の見事な有終の美だった。

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(長谷川 晶一)

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