何度も立ち上がった背番号25 館山昌平がマウンドで見せた微笑みの意味

何度も立ち上がった背番号25 館山昌平がマウンドで見せた微笑みの意味

17年にわたる現役生活の中で、実に9度も自身の身体にメスを入れた館山昌平 ©文藝春秋

■「タテペディア」と呼ばれた不屈の男

「タテペディア」という言葉を初めて聞いたのは、ヤクルトの伊藤智仁前ピッチングコーチからだった。「館山」と「ウィキペディア」を組み合わせた造語である。17年にわたる現役生活の中で、実に9度も自身の身体にメスを入れた館山昌平。何度も何度もリハビリ生活を余儀なくされたことで、そのたびに自身の身体と向き合った。筋肉や骨格など、人体の構造と機能を研究し、最新のリハビリ術、医療技術を貪欲に取り入れる日々を過ごした。

 こうした地道な努力と痛みを伴うリハビリの結果、館山は多くの経験と知識を手に入れた。それを称して、ヤクルトナインは「タテペディア」と敬意を込めて呼んでいたのである。この言葉について、直接本人に尋ねたことがある。

――チーム内では「タテペディア」という言葉があるそうですね。伊藤智仁さんいわく、「館山は野球のことはもちろん、野球以外のことも何でも知っている」と言っていました。

 そんな言葉を投げかけると、館山は「いやいや、それはフェイクニュースです(笑)。《野球以外》のことは何にも知りません」と笑顔で語った後に、この言葉が生まれるに至った背景を述べてくれた。

「リハビリをしている間、思うような練習ができないときは、本を読んだり、インターネットを検索してみたり、どうしても知識を吸収する時間が増えるんです。だから、《タテペディア》という言葉ができたのかもしれないですけど、身体の構造やケガについて、最新のトレーニング方法について、いろいろなことを学んだのはそれだけリハビリに費やす時間が長かったからです。本当はグラウンドで思い切りプレーする時間が長い方がいいんですけどね」

 本人の言う「身体の構造やケガ」や「最新のトレーニング方法について」だけではなく、回転軸や回転数によるボールの変化など、変化球のメカニズムについても、館山は群を抜いて他の投手よりも知識が豊富なのだという。だからこそ、たとえば同じフォークボールでも、「左に落ちるもの」「右に落ちるもの」を投げ分けることができるのだ。肉体と頭脳の両面において、常に進歩と向上を目指すその姿は、まるで求道者であり、哲学者のようなたたずまいでもある。ヤクルトひと筋17年間。館山は常に真摯に自分の肉体と、そして野球と向き合い続けてきたのだ。

■由規が語った「先輩・館山昌平」

 かつて、拙著『いつも、気づけば神宮に』(集英社)において、「リハビリの系譜」という文章を書いたことがある。これは、ヤクルトヒストリーの負の側面である「故障者の系譜」を軸に、歴代の選手たちはどのような思いでリハビリを乗り越えてきたのかを綴ったものだ。この中で僕は、伊東昭光、岡林洋一、伊藤智仁、館山昌平、そして由規に話を聞き、彼らがどんな思いで苦難の日々から這い上がり、どのようにマウンドに戻ってきたのかを尋ねた。このとき、館山にも話を聞いたのだが、覚悟していたとはいえ、彼の口から語られるエピソードは衝撃的だった。

「全身麻酔の場合はもちろん意識はないので、目覚めたら手術は終わっているんですけど、ヒジだけの局部麻酔で手術をすることもあります。ヒジにメスを入れている間は麻酔が効いているので、感覚もないし痛みも感じません。でも、意識はハッキリしているので、ヒジのどの部分を治療しているのかはなんとなくわかるんです……」

 そして、館山は驚くべき言葉を口にした。

「……だから、たまに先生に話しかけることがあるんです。“いや、そこじゃなくて、もう少し上の方です”って。先生が故障個所を見極めたり、症状を確認したりしているときに、つい口に出てしまうんです(笑)」

 現役時代だけで9度の手術経験があればこそのエピソードだった。また、館山は自身の経験を、同じく故障に苦しむ後輩たちに惜しみなく伝えた。現在、東北楽天ゴールデンイーグルスの支配下枠を勝ち取り、再びマウンドに帰ってきた由規は、かつて館山についてこんなことを言っていた。前掲書『いつも、気づけば神宮に』より引用したい。

「館山さんとは同じ時期に(リハビリ期間を)過ごしたんですけど、あれだけ実績のある人が、年齢の離れた後輩たちと一緒になって明るくリハビリに励んでいる姿は胸に響きました。館山さんはオンとオフの切り替えが上手で、やるときは一生懸命にやる。でも、リハビリが終わったら明るく過ごす。よく一緒に食事に連れて行ってもらったりしました」

 現役引退後、「家でもリハビリについて家族と相談していた」と館山は語った。決して「切り替えが上手」だったわけではないのだろう。後輩たちの前では極力、明るく振舞っていただけなのだ。事実、「後輩たちの手本となる意識は?」という質問に対して、館山はこんなことを言っている。

「大げさに言えば、《責任》のようなものはあると思っています。一緒にリハビリを戦ってきた仲間たちのためにも、もがき苦しんだ結果、きちんと一軍で結果を残せるのだということを見せなくてはいけない。必ずゴールは明るいのだということを見せなくてはいけないと思っています」

 館山はいろいろなものを背負いながら、現役生活を送っていたのだった。

■ノックアウトされた館山が見せた微笑み

 今年の6月12日、僕は仙台・楽天生命パークの一塁側スタンドに腰を下ろしていた。試合開始前から興奮と緊張に包まれているのが、自分でもよくわかった。何しろ、この日の予告先発は今季初登板となる館山なのだ。元々、この三連戦は観戦するつもりだったので事前にチケットを購入していたけれど、まさか館山の先発登板試合を見られるとは思ってもいなかった。

 しかし、この日の館山は本調子にはほど遠かった。初回、先頭の茂木栄五郎にいきなりデッドボールを献上する。指が引っ掛かったのか、背中への一球だった。この回はピンチを作ったものの、何とか1点で切り抜けた。そして3回裏、館山は2点を失って、この回限りで降板した。無念な思いを抱きながら、僕は手元の双眼鏡で館山の表情を伺う。一体、どんな表情でマウンドを降りるのか?

 双眼鏡を覗き込んだまま、僕は軽いショックを受けていた。館山が微笑んでいたのだ。この微笑みが何を意味するのか、僕にはわからなかった。打たれたとはいえ、無事にマウンドに戻ってきたことに対する満足感なのか? いや、この瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、「何か踏ん切りがついたのではないか?」という認めたくない思いだった。その微笑には、何かサバサバした満足感のようなものが浮かんでいた気がしたのだ。

 帰京後、録画していた『プロ野球ニュース』をチェックする。解説の平松政次氏も館山の微笑みについて言及していた。改めて映像でチェックすると、やはり何か踏ん切りがついたような微笑みのように僕には感じられた。シーズン中だったので、「これ以上、不吉なことは考えまい」と、僕は自らの思考に蓋をした。そして、シーズン終盤になって、「館山引退」報道をついに目にすることとなった……。

 この記事を見たとき、僕はあの日の微笑みを思い出した。あの瞬間、館山は引退を決意したのではないか? どうしても、僕にはそう思えてならない。寂しいことではあるけれど、あの日、仙台の地で館山の雄姿を見られたことを誇りに思いたい。傷つき打ちのめされても、何度も何度も立ち上がった背番号《25》の雄姿。僕は決して忘れない。館山昌平――不屈の闘志を持った不世出の投手だった。どうもありがとう。本当にどうもありがとう。

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(長谷川 晶一)

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