「楽しいはず」の遊園地アートに“喪失感”を溶け込ませた、あるアーティストの原体験とは

「楽しいはず」の遊園地アートに“喪失感”を溶け込ませた、あるアーティストの原体験とは

展示風景 photo by Kenji Takahashi

 だれもが底抜けの笑顔になれる場所だというのに、なぜだかいつも一抹の哀しみがつきまとってしまう……。それが遊園地という空間である。

 なぜあれほどもの哀しさが漂うのだろう。楽しい時間はやがて過ぎ去ると私たちは知っている、笑顔を重ねた分だけ喪失感も大きくなってしまうということだろうか。

 遊園地で襲われるのと同じような、あの特異な気分に包まれてしまう展示が、東京六本木の小山登美夫ギャラリーで始まっている。三宅信太郎「ふと気がつくとそこは遊園地だった」展。

■遊び心に満ちているのが三宅作品の真骨頂

 会場にジェットコースターや観覧車、お化け屋敷の実物があるわけじゃない。でも、そこにはたくさんのペインティングやドローイング、立体物が並んでいて、作品内を覗き込めばそれらのアトラクションが描かれていたり、かたどられているのを見つけることができる。

「メリーゴーラウンド!」「ホットドッグ屋さんもある!」などと一つひとつに見入っていると、大人げもなく時を忘れて夢中になってしまう。展名の通り、まさにふと気づけばそこは遊園地なのである。

 一つひとつの作品に没入してしまうのは、細部に至るまで遊具や施設が描き込まれていたり、画面を覆い尽くすほどの迫力で人物や怪物のような生きものがそこに存在していたりして、眺めていていつまでも飽きないから。立体作品ならダンボールで丁寧に造形が成されていて、「そう、工作の宿題って本当はこんなふうに仕上げたかったんだ」と、つい羨望のまなざしを向けてしまったりもする。

 そこに身を置いているだけで心が躍る展示である。遊び心たっぷり、というか遊びの世界にどっぷり浸かってしまえる世界観は、三宅信太郎作品にいつでも見出せる特長でもある。今展で見られる絵画や立体のほか、ときに映像やパフォーマンスも手がけ、身体がタテヨコに異様に伸びた人物や見たことのない生きもの、奇態な建物や風景などが続々と登場する三宅の表現は、つねに多様性と独創性に満ち満ちている。

■時の流れや死への怖れと、隣り合わせなのが遊園地

 ただ、遊園地というテーマは今回、三宅作品のなかに初めて浮上したもののはず。なぜかくも熱心に、自分の遊園地をつくり上げたのか。

 展覧会のスタートに合わせて在廊していたアーティスト本人に話を聞けた。

「親と一緒に遊園地や家族旅行に行った思い出が僕にもありますけど、そういうときって楽しいのと同時に、いつも寂しさやもの哀しさがあったのを鮮明に覚えています。楽しい時間はすぐ過ぎ去って、終わりが来てしまうことを最初から感じてしまっているんですね。

 時間はとめどなく流れて決して留まりはしないこと、人の命はいつか尽きて存在ごと消えてしまうことは、何かをつくるときにいつも頭のなかにある。今回はそれを前面に出そうと考えました。それで遊園地と向き合ってみようということになったんです」

 ああ、そういう哀愁や喪失感はたしかに覚えがある。幼いころの楽しい時間にはいつだって、何やら得体の知れない怖れや焦りがあって、それを掻き消したいがために余計に羽目を外してはしゃいでしまったり……。

 楽しいイベントの渦中にいるときの、あのいろんな感情が入り混じった感覚をありありと思い起こさせるから、三宅の生み出した奇想天外な遊園地は、妙にリアルに感じられるのだ。

「時間の経過や死への恐怖を紛らすために、いっそう絵を描くことに没頭しようとするところが僕にはある。何かに集中していないと、頭を負の感情に持っていかれてしまうので。今回の作品も、そうやってできていったものです」 

 我を忘れるほど楽しくて、やがて哀しき三宅信太郎の遊園地で、存分に遊んでみよう。童心に返ることができるのはもちろん、自分の思い出が想像以上に複雑な要素でできあがっていたことに、改めて気づかされる。

(山内 宏泰)

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