松尾諭「拾われた男」 #29「兄の首から下はまるで死体のようで、驚くほどに軽く、臭かった話」

松尾諭「拾われた男」 #29「兄の首から下はまるで死体のようで、驚くほどに軽く、臭かった話」

©松尾諭

 車椅子に座る兄の様は、首から下はまるで死体のようで、顔面の左半分が硬直したような表情に、体に麻痺があることが見て取れた。彼はその引きつった表情でこちらをしばらく凝視してから、暗く淀んだ目を少し見開き、上手く動かない口を歪ませながら、電話で聞いたように弟の名前を連呼した。目の前で名を呼ぶ兄の声が、ほんのわずかに琴線に触れたような気がしたが、何かが込み上げてくることはなく、その声にどう応えるか少し迷った末、さらりと言った。

「久しぶり」

 それを聞いて兄は、顔を歪ませたようだったが、あまり見ないようにした。その時兄がどういう気持ちだったのかは、ずいぶん後になるまで考えることもなかった。

■兄の体は驚くほどに軽く、臭かった

 兄はそのうち電池が切れたように口を閉ざした。サンディと名乗る、ずいぶんグラマラスな看護師は、兄はなにかが原因で大変な処置をしたところで疲れている、といったような事を説明してくれたようだったが、疲れているという事以外はよく意味がわからなかった。分かったふりをして相槌をうつと、彼女は病室に戻ると言い車椅子を押したので、ジョンと共にその後に続いた。

 同じフロアにある兄の病室は、広く清潔で立派な個室だった。サンディは車椅子をベッド脇につけ「手伝って」と言うので、一緒に兄の体を抱き上げると、手から伝わる兄の体は肉の感触がなく驚くほどに軽く、臭かった。

 ベッドの上の兄は、小さな声で途切れ途切れになにかを口にしていたが、そのうち目を閉じて眠ってしまった。ふと携帯を見ると、イリノイ州からわざわざ来てくれたリサちゃんの到着を報せるメールと電話の着信履歴が画面に表示されていたので、すぐに電話をし、複雑な敷地内の案内をジョンとサンディに任せて病棟の入り口の前で落ち合った。そもそも数回しか会った事のない義妹がわざわざ来てくれた事には感謝しかなかったが、そこでようやく彼女の住むイリノイのやや南部の街からカラマズーまで車で五時間半もかかると聞き、感謝どころか申し訳なさでいっぱいになった。「ごめんね」「申し訳ない」と謝りつつ、サンディの英語の説明がほとんどちんぷんかんぷんだったといったような事を話し、広い病棟内をまた少し迷いながら兄の病室へと戻った。

■兄の深刻な容態と、さらなる問題

 ジョンとサンディを紹介すると、リサちゃんは非常に流暢な英語で二人と挨拶を交わした。その姿はとても心強かった。そこで改めて彼女が説明を求めると、サンディは「外で話そう」と廊下へ出てから話し始め、それをリサちゃんが訳してくれた。

 五日前、兄は自宅に一人でいるところで意識を失い、一日以上経ってたまたま彼の家を訪れた知人女性が発見し、救急車を呼んで病院に搬送されたが、発見まで時間がかかったために脳内の出血も深刻な状況の上、脳内に「AVM」と呼ばれる何かがあるらしく、そのせいで非常に困難な手術を要求され、数日前に施した応急的な手術は成功したが、再度手術をする必要があり、それがこの病院では出来ないかもしれない。さらに問題は脳以外にもあり、兄は以前から酒によって肝臓を患っており、その状態もかなり深刻だと、サンディはテキパキと説明し、それをリサちゃんが同情を隠せないといった様子で通訳してくれた。兄が酒飲みだというのは少し意外だったが、妙に浅黒く見えたのはそのせいだったのかと合点がいった。

 大した事ではないのではないか、と特に根拠なくそう思ってアメリカまで来てはみたが、思っていたよりも事態は深刻なのだとわかり、気が重くなった。ところが問題はまだあった。

 兄のビザもパスポートも失効していて、さらになんの保険にも入っていないのだとサンディは言った。それが何を意味するのかがすぐには分からなかったが、リサちゃんが少し驚いた様子を見せた後に説明してくれた。つまり兄は米国においては不法滞在者であり、さらに保険に入っていないと言う事は、治療費や入院費は全て自己負担で、しかもアメリカの医療費は法外な金額だと、彼女は嘆息まじりに言った。

 それは幾らくらいになるのかと聞いてもらうと、入院の期間と手術によって変わると言われたので、現時点で大まかに幾らくらいになるかと質問を変えると、サンディは、専門ではないから詳しくはわからないが大体、と前置きした上で答えた。

「A?hundred thousand dollars」

■一瞬刻が止まった

 しっかりと聞き取れはしたが、百なのか千なのか、それが日本円にして幾らくらいになるのかと考えていると、リサちゃんが言った。

「日本円で一千万円くらい」

 一瞬刻が止まった。一千万なんてもちろん払える訳がない。しかもその金額は入院期間が長くなるにつれてどんどんと膨れ上がっていく。

「無理無理無理無理無理!」

 廊下に響き渡るほどの声で思わず日本語でそう発したが、サンディには十分意味が伝わったようで、通訳を待たずして何かややこしい説明をはじめた。それによると、もしかしたら治療費が安くなるかもしれないプログラムのようなものがあるから、病院のソーシャルワーカーに相談する必要がある、とリサちゃんがざっくりと通訳してくれた。

 安くなったとしても決して簡単に払える金額になるとも思えず、ようやく借金がなくなろうとしているのに、こんな形でまたも莫大な額を背負うことになるのか、そう思い遠くへ行った気は、戻ってくると兄への憤りに変わっていた。

■兄の病室に泊まる

 ソーシャルワーカーはもう帰ってしまったが、明日朝一番に会えるように手続きをしてくれるとサンディは言い、それから思い出したように聞いた。

「今日はどこに泊まるの?」

 ジョンの家に泊めてくれればありがたいのだが、そんな厚かましいお願いもできない、とは思いつつも彼の方をチラリと見たが、ジョンからはなんの反応も見られなかったので

「特に決めていない」

 と答えると、サンディは病院に併設のホテルがあるからそこに泊まればいいと提案してくれたが、一泊五万円くらいだと言うので、そんな金はないと断り、兄の病室に泊まることは可能かと聞いた。彼女は、もちろん可能だし小さなベッドも用意はできるが、病室なんかに寝泊りするのは大変じゃないかと心配してくれた。再びジョンの様子を伺ったが、やはり反応はなかったので

「問題ありません」

 と答えた。

■改めて兄が発見された経緯を尋ねる

 日はすっかり落ち、サンディは「また明日」と帰っていった。気が滅入るような話ばかり聞かされて、体がどっと重くなったような気がしたが、それ以上に腹が減ったので、ジョンとリサちゃんを食事に誘うと、ジョンの妻と、兄の昔からの友人も呼ぶことになった。

 病院から十分ほど車を走らせると、街並みはずいぶんと都会っぽくなった。その一角にある、都会っぽくいい雰囲気のレストランに入り、勧められるがままに地元のクラフトビールを注文したのだが、そのビールが驚くほど旨く、ほぼ一気にジョッキを空けた。ジョンはその呑みっぷりを随分と嬉しそうに褒めてくれて「酒は好きか?」と聞くので「大好きだ」と答えると、ジョンはワインショップを経営してるから時間があったら店に来いよ、と言ってくれた。

 そうするうち、ジョンの妻・アマンダと、兄の友人・ゲイルがやって来た。ブラジル出身のアマンダはカラマズーにある大学に留学中にバイトをしていたピザ屋で兄と出会い、それからずっと仲良くしているのだと言い、行政機関に勤めると言うゲイルは、十年ほど前どこかのホームパーティーで出会ったのだと説明してくれた。彼らは聞きもしないのに兄の話を色々としてくれた。兄はとにかく仕事熱心で、人に優しく、いつも面白いことを言う、とてもいい奴だと三人は口を揃えた。言われてみれば、学生時代、兄は家にいる時は無愛想でたいして会話もしなかったが、先輩から兄の話を聞いた時に「お前の兄貴めっちゃおもろい奴やで」と言われて意外に思った記憶がある。

 話が落ち着いたところで、改めて兄が発見された経緯を三人に尋ねると、倒れているのを発見して救急車を呼んでくれたのは、素性の分からない五十〜六十代の女性で、兄が彼女とどこで出会い、なぜ仲良くしていたのかは皆あまり知らなかった。その後は兄の話を避けるように話題を変えた。酒が入ると不思議なことに英語が話しやすくなり、リサちゃんの通訳を介さずとも会話が盛り上がり、楽しい時間を過ごした。

■「奴の弟なんだから当然だ」

 会計時、お世話になった礼を込めて支払いは任せてくれと大見得を切ったら、皆一同に「NO,NO」とそれを許さなかったどころか、誰が支払ったのかは分からないまま、結局一セントも出さずに店を出ることになったので、精一杯感謝を伝えるとジョンが笑って言った。

「奴の弟なんだから当然だ」

 それを聞いて酔いが冷めた。

 近くのホテルにリサちゃんを見送り、ジョンの車で病院に戻って「明日の午後に会おう」と言ってジョン夫妻とゲイルは帰って行った。車が見えなくなるまで彼らを見送ってから一人、病棟に入った。夜の病棟は日本のそれほど怖くはなかったが、また少し道に迷って兄の病室にたどり着いた。そろりとドアを開け病室にはいると、悪臭が鼻をついた。臭いの元が兄なのは言うまでもなかったが、死体のように眠る兄をしばらく見つめていると、彼に対してあった感情はまた消えてしまった。

 つづく

(松尾 諭)

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