ブラピ怪演でアカデミー賞大本命 賛否両論の『ワンハリ』を映画研究者が評価する理由

ブラピ怪演でアカデミー賞大本命 賛否両論の『ワンハリ』を映画研究者が評価する理由

©AFLO

わたしの目から見て彼女は一筋の光だった。だからわたしは光でありたいと思ったの。それがわたしの仕事であり、物語に対する役割であると思った。それを表現することで、多くの人がこの世界においてまぶしい光のような存在だったと語る、本物のシャロン・テートの追悼にもなると思ったの。
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(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』公式パンフレット所収のマーゴット・ロビー[シャロン・テート役]のインタビューより)

*以下の記事では、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。

■「ダブル」こそがこの映画の真のテーマ

 クエンティン・タランティーノ監督の9作目にあたる映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)には、ブラッド・ピット扮するクリフ・ブースという「スタントマン」が登場する。彼はレオナルド・ディカプリオ扮する俳優リック・ダルトンの「スタント・ダブル」である。

「スタントマン」と「スタント・ダブル」では微妙に意味が異なるが、日本人にあまり馴染みがない表現のためか、原語で「スタント・ダブル」となっているセリフは、字幕ではすべて「スタントマン」と意訳されている。英語の「ダブル(double)」には「二重、二倍」という基本の意味に加えて「代役、替え玉」の意味がある。たとえば俳優の替え玉を指す場合には「ボディ・ダブル」という表現が用いられるが、「スタント・ダブル」はこの一種で、「スタント(stunt)」が必要とされるような場面で、その俳優に代わって(危険な)撮影に臨む人物を指す。

 単にストーリーを追うだけなら「スタントマン」と「スタント・ダブル」をあえて区別しなくても理解に支障はないだろう。しかしながら、映画の核となるテーマに迫ろうとするとき、劇中でわざわざ「ダブル」という言葉が繰り返し使われている点を見逃してはならない。なぜなら、「ダブル」こそがこの映画の真のテーマだからである。本作の賛否が大きく割れている理由も、おそらくはこのテーマに関わっている。

■丘の上の豪邸と、汚れ放題のトレーラーハウスに示される「格差」

 「ダブル」のテーマは、まずは何といっても二人の主人公の関係性にあらわれている(そもそも、主人公格の存在が二人いる点がミソである)。リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)は、かつてテレビ西部劇で主役を張っていたスター俳優である。しかしながら、映画の舞台となっている1969年の時点ではすでに落目を迎えており、主役を引き立てるための悪役しか回ってこなくなってしまった。ブラッド・ピットが演じるもう一人の主人公クリフ・ブースは、長年にわたってリックの「スタント・ダブル」を務めてきた人物で、彼の付き人も兼ねている。

 落ち目とはいえ、曲がりなりにもスターらしく、ピカピカのキャデラック・ドゥビルを所有し、丘の上の豪邸に住んでいるリックに対して、ボロボロのフォルクスワーゲン・カルマンギアを乗りまわすクリフが暮らすのは、汚れ放題のトレーラーハウスである。車と家の違いは、この二人の「格差」を視覚的にあらわしている。

 二人の格差は、俳優とそのスタント・ダブルという役割の違いから構造的にもたらされるものである。過去のスターになりつつあるとはいえ、テレビ西部劇の主演で人気を博していたリックは多くの人に知られる存在であり、(主役ではないものの)依然として俳優の仕事も回ってくる。

 しかし、リックの格が落ちた今となっては、専属のスタント・ダブルの出る幕はない。スタント・ダブルとは、いわばスター俳優の影のような存在であり、スターの放つ強烈な光があってはじめて存在できるのである(とはいえ、劇中でヒッピーの少女の口を借りて「嘘っぽい俳優よりスタントマンの方がいい」と言わせているのは、タランティーノからスタントマン/スタントウーマンに向けられた偽らざる賛辞だろう)。

■冒頭のクレジットに見る、主演2人の分かち難い結びつき

 劇中では(温かい友情を介して)主従関係を結んでいる二人だが、映画の肝はその二人を演じるディカプリオとブラッド・ピットをほぼダブル主演として扱っている点にある(ただし、アカデミー賞の前哨戦としても有名なゴールデン・グローブ賞では、ブラッド・ピットが本作の演技で「助演男優賞」を受賞している)。第92回アカデミー賞の助演男優賞にも順当にノミネートされており、オスカー獲りにも期待がかかる。また、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、アカデミー賞の主要4部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞)を含む合計10部門でノミネートされており、どこまで受賞数を伸ばせるかにも注目が集まっている。

 映画冒頭には、画面の左側(運転席)にブラッド・ピット、右側(助手席)にディカプリオが座っているところを背後から捉えたショットが置かれているが、出演者名のクレジットはそれぞれ左がディカプリオ、右がブラッド・ピットになっている【図1】。人物と名前の位置を交差させることによって、陽と陰の役割を担う二人が分かち難く結びついていることを視覚的に示しているのである(もちろん、クレジット順の問題でディカプリオを優先するために左側に置いたと推測されるが、その見せ方に工夫を凝らしているわけである。また、今回の記事では深入りしないが、フロントガラスの奥にはディカプリオ扮するリック・ダルトンを描いた看板が見えており、リックとその複製/鏡像という「ダブル」の主題のヴァリアントもほのめかされている)。

 本作では、この陰陽、光と影の関係性がさまざまに派生していき、そのときどきで明るさと翳りの度合いが変化していく。明るさと暗さはそれぞれ独立した概念ではなく、相互に規定し合う相対的なものだからである。

 先に述べたように、リックとクリフには基本的にそれぞれ陽と陰の役割が与えられているが、劇中に登場するロマン・ポランスキー(ラファル・ザビエルチャ)とシャロン・テート(マーゴット・ロビー)は、この二人組をまとめて相対的な陰の位置へと押しやるほどのまばゆい光を放っている。『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)で世界的な名声を手に入れたポランスキーと、女優として頭角をあらわしつつある妻のシャロンの夫婦は、リックの目にもまぶしく映るのである。

■劇中で繰り返し強調される、シャロン・テートの「二重性」

 リックとクリフが俳優とそのスタントという形で「ダブル」のテーマを体現しているとすれば、ポランスキーやシャロン・テートは現実を参照することで存在の二重性(現実のポランスキーとシャロン/フィクション内のポランスキーとシャロン)を確保している。この違いは、リックとクリフがあくまで架空の作中人物であるのに対して、ポランスキーとシャロンが実在の人物であることに起因している。

 映画は、とりわけシャロンの二重性を強調する。劇中には、彼女が自身の出演作『サイレンサー第4弾/破壊部隊』(フィル・カールソン監督、1968年)を映画館で鑑賞するシーンがある。このとき、画面内に置かれた映画館のスクリーン(スクリーン内スクリーン、スクリーンの二重化)には、本物のシャロン・テートが映し出されている【図2】。

 ここで『サイレンサー』に出てくるシャロン・テートの姿をデジタル処理して、シャロンに扮したマーゴット・ロビーで置き換えることも技術的には可能である(じっさい、劇中劇として用いられている実在の作品『大脱走』や『FBI』ではそのようにしてディカプリオの映像を合成している)。しかし、タランティーノはそれを行わなかった。後述するように、シャロン・テートに「本物」がいることは、本作にとって決定的に重要だからである。マーゴット・ロビー扮するシャロン・テートは、あくまで本物のシャロン・テートの「ダブル」でなければならないのだ。

■劇中のシャロンの輝きは、実際の事件との対比から生まれる

 現実という参照項/光があるからこそ、作中のシャロン・テートは本物のシャロン・テートと陰陽の関係をとり結ぶことができる。このとき、シャロンの陰のイメージを担うのが現実で、映画は明確に彼女に陽のイメージを割り振っていると言える。なぜなら、現実の彼女が「シャロン・テート殺害事件」という惨事に見舞われ、妊娠8ヶ月の胎児ともども惨殺されてしまうのに対して、映画ではその事件が未然に防がれているからだ。では、なぜ映画内では事件が起こらないのか。それは、映画には(現実に参照項/光を持たない)リックとクリフが存在しているからである。

 ここまでの議論を要約すると、次のように言い換えられる。すなわち、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とは、リックとクリフという架空の二人組の存在が、シャロン・テートを現実の暗闇から救い出し、フィクションの世界で輝かせる物語なのだと。

 ここに本作の賛否が分かれた理由を求めることができるだろう。フィクションの世界でシャロン・テートが輝いていることを認識するには、前提として、本物の彼女が現実世界で遭遇した悲惨な事件を知っていなければならない(実際に起こった事件のことは映画内では一切説明されない)。「シャロン・テート殺害事件」の発生日が1969年8月9日であることを知っている観客は、映画内で描かれる一見するととりとめのないエピソードの連なりの背後に、破滅へのカウントダウンを幻視しているのである。

■落ち目のリックとクリフよりも、さらに暗い存在が忍び寄る

 さて、リックとクリフをヒーローにするためには、落ち目の彼らよりもさらに暗い存在が必要である。本作でその役割を担うのがチャールズ・マンソン(2017年に獄死)率いるマンソン・ファミリーの面々、特にシャロン・テートの殺害を実行しようとする3人のヒッピーたちである(このとき、彼らが根城にしているスパーン映画牧場の持ち主が視力を失っている、つまり光を失って暗闇の世界を生きているという史実に基づく設定も効いている)。

 マンソン・ファミリーによる襲撃は1969年8月9日の夜に決行される。映画はそれに先立つ同年2月8、9日の2日間の出来事を入念に描写し、その半年後に起こる8月9日(から10日未明にかけて)の事件をクライマックスに置いている。つまり、半年の時間的隔たりを挟んで2日間が対になるように設定しているのである。「ダブル」のテーマはこうした映画の構造にも周到に反映されている。

 もともとポランスキー邸を襲うつもりだった襲撃犯たちだが、映画ではその直前に泥酔したリック・ダルトンに絡まれるエピソードが追加されており、それをきっかけとして、彼らは標的をダルトン邸へと変える。ダルトン邸へと続く坂道をのぼる襲撃犯たちの姿は夜闇に溶け込んでおり、その表情をうかがうことはできない【図3】。

 その頃、ダルトン邸ではリックと彼の新妻フランチェスカ、そしてクリフが、襲撃を受けることなどつゆ知らずに各々の時間を過ごしている。クリフは直前にLSD漬けのタバコを吸って、いままさに“トリップ”しているところである。ドラッグの作用で知覚が極度に過敏になっているクリフは、通常の室内灯の明るさにも耐え切れず、一瞬視力を失って、手探りでスイッチを切ろうとする【図4】。一時的な盲目状態をもたらすほどの強烈な光、すなわち陰陽の両極を同時に体験したクリフには、作中でもっとも輝かしいアクション場面が用意されている。

 クリフは、ダルトン邸に侵入してきた3人を(愛犬ブランディの力を借りつつ)一人で戦闘不能状態に陥れてしまうほどの獅子奮迅の活躍を見せる。そのうちの2人は完全に無力化され、残る一人の襲撃犯は深手を負って半狂乱になり、銃を乱射しながらリックがくつろいでいるプールへと飛び込んでいく。

 突然の出来事に慌てふためくリックだが、倉庫からかつての主演作品で使った火炎放射器を引っ張り出してくると、犯人を「カリカリになるまで」焼き尽くして撃退してしまう。火炎放射器から放出される強力な炎が夜闇を明るく照らし出す一方【図5】、炎の直撃を受けた襲撃犯は黒焦げの身体を晒して力尽きる【図6】。映画内映画の装置であった火炎放射器が、映画内の現実へと滲出してくるのである。

■『ワンハリ』は、陰惨な現実の「ダブル」を提示した

 駆けつけた警察と救急が帰り、騒ぎが一段落した頃、屋敷の外に一人たたずむリックに隣から声がかかる。シャロン・テートの友人ジェイ・シブリング(エミール・ハーシュ)が心配して様子を見にきたのである。インターホン越しにシャロンも加わり、そこでリックとはじめて会話を交わす。シャロンが彼を酒に誘い、屋敷へと続くゲートを開けると、リックはそのゲートを通って隣へと向かう――史実には存在しないシャロン・テートに会うために。こうしてタランティーノは現実を踏み越えてみせる。映画の中でシャロンは殺されず、出会うはずのなかった隣人リックとの邂逅を果たす。

 このとき、カメラはダルトン邸の敷地からポランスキー邸の敷地へとゆっくりと上昇しながら移動していき、最終的にポランスキー邸の玄関前でシャロンと抱擁するリックの姿を捉える。このショットによって、リックとシャロンが属す二つの異なる世界は一つに結びつけられるのである。映画が描く虚構の世界もまた、このように現実と地続きであればと切に願わずにはいられない瞬間だ。

 しかし、ダルトン邸からポランスキー邸へとカメラが移動する途中で、二つの屋敷の間に広がる木立の上にさしかかったとき、画面が真っ暗になっている点を見逃すわけにはいかない。ここでは見かけ上の暗転が行われており、二つの世界(リック/シャロン、映画/現実)の間になお暗闇=断絶が横たわっていることが示唆される(タランティーノなりの史実と映画に対する誠実さのあらわれだろう)。

 とはいえ、わたしたちが、陰惨な現実の「ダブル」として、ありえたかもしれない別の可能性(フィクション)を手に入れたのは間違いない。現実の歴史に学びつつも、それとは違う可能性を提示すること。光と影の織りなす芸術たる映画には、そのような“おとぎ話”を説得的に描き出すだけの力が備わっているのである。

(伊藤 弘了)

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