東条英機に頭を撫でられた子が「クイズ王」になるまで 87歳現役女王・村田栄子かく語りき

東条英機に頭を撫でられた子が「クイズ王」になるまで 87歳現役女王・村田栄子かく語りき

(c)杉山秀樹/文藝春秋

クイズ王が集まる謎のサークル「ホノルルクラブ」をご存知ですか? このクラブの主、クイズレジェンドの村田栄子さん、87歳がついにインタビューに応じてくれました。子ども時代に東条英機に頭を撫でられた才女はいかにしてクイズ王になったのか? (全2回の前編です)

■ホノルルクラブとは一体どんな組織なのか?

―― 文春オンラインではクイズ王の能勢一幸さん、石野まゆみさんにインタビューをしているんですが、お二人ともクイズ王が集まるサークル「ホノルルクラブ」のことを話題にされたんです。このクラブって、一体どういう組織なんですか?

村田 1972年に、囲碁棋士の小山鎭男さんたち『アップダウンクイズ』の優勝者7人でスタートさせたクイズサークルです。優勝旅行先のハワイで結成したからホノルルクラブというわけです。クイズにもっと強くなろうという研鑽会みたいなものですよ。

―― 入会のきっかけはなんだったんですか。

村田 会長の小山さんが出された本のなかに「クイズの強豪村田栄子さん」と私の名前があって。私って強豪なのかって、電話して入れてもらいました。

―― クイズの強豪というのは『アップダウンクイズ』の優勝者だったからですか。

村田 そうじゃないですか。私は1978年に、2回目の出場で10問全問正解したので、それをご覧になっていたのだと思います。

■会長候補が「失踪」して、私が会長になったの

―― いまは村田さんが会長をされていますが、引き継がれた経緯を教えてください。

村田 初代会長だった小山さんが、当時囲碁熱が高まっていたソ連に囲碁の指導に行くことになったので、クラブの運営は、第2回ウルトラクイズに優勝した北川(宣浩)君が引き継ぐと聞いていたんですね。ところがある日、例会に使っていた代々木の青少年センターに行ったら、机の上に「僕できません」という北川くんの書き置きと切手が数枚と名簿だけが入っている封筒があって。会長候補の失踪ですよ(笑)。それでいろいろ声をかけたんですけど、みんなそっぽ向くんです。だから私、しょうがなくて今日までやってるんですよ。もう40年以上。まあ、やると言ったって、会場取りと会報の発行だけなんだけど。

―― 今、会員は何人ぐらいいらっしゃるんですか。

村田 毎月送っている会報が、今は80通ぐらいですね。最盛期には200通ほど。

―― 会報の制作もご自身で? 

村田 いえ、みんなが持ち寄ったクイズを編集してくれるのは鷹羽(寛)君。水津康夫君の今月読んだ本みたいなコーナーもありますよ。それを封筒に詰めて、切手と宛先シール貼って送るのが私の仕事。会場取りが大変なの。渋谷区ひどいんですよ。受付は9時からじゃなく9時きっかり。それでも抽選ですよ。電話受付だと回線が1本しかないからたいていアウトです。

■裏街道を歩いているような惨めな思いでクイズしてた

―― 村田さんは元祖クイズの女王と呼ばれていますが、そもそもクイズの世界に入るきっかけはなんだったんですか? 

村田 40歳になってからですね。テレビでたまたま『クイズタイムショック』を見ていたら、簡単な問題なのにひどい回答をする人ばかりで、これなら私のほうがまだマシじゃないかと、ハガキを出してみたんですよ。今みたいに面接なんかなくて抽選会だったんですが、あれはひどかったな。ドアの前に山ほど人がいて、ドアが開いたらなだれ込んでまるで椅子取りゲームなんですもん。クイズの実力なんて関係なし。1回目は席を取れずに1時間ほど待って、次の椅子取りゲームに勝って本戦出場。なんと9問正解して賞金を4万円ももらえた。1970年代当時の4万円ですよ。こりゃいいやと思って、NHKの『ホントにホント?』とか、『アップダウンクイズ』『アタック25』『クイズダービー』とか、一時期は集中的に出ていました。

―― 現在のクイズ王のみなさんに比べるとかなり遅いスタートですね。

村田 当時は学校にクイズ研究会がある時代でもないし、クイズなんて、別に世間の耳目を集めるようなものでもないから、劣等感というか、何か悪いことをしているというか、裏街道を歩いているような惨めな思いをしていたものですよ。

―― クイズをやっていることがですか? 

村田 ええ。40代で子育ても一段落ついたような同級生のお友達といえば、お花とかお茶とか優雅な趣味に走るじゃないですか。それを1人バカみたいにテレビに出てクイズに答えて、「何よ、あの人」っていうような感じに見られてましたので。

■次男とクイズに出たこともあるんです

―― ご家族の反応はいかがでしたか。

村田 主人は面白がって喜んでました。ちょうど高校から大学ぐらいだった息子たちは、私がテレビに映るときには友達を連れて麻雀荘なんかに行ってました。友達に見られたくない、うちの恥部だとか言っちゃって(笑)。次男とは、『徹子の部屋』で昔あった「フラッシュクイズ」というクイズコーナーにも出たことあるんですけどね。

―― ご自身はどのようなお子さんでしたか。お好きだったことですとか。

村田 子どもの頃は、本を読むのが好きでした。北海道の美唄生まれなんですが、本屋さんが2軒あって、自由に買っていいよと本はいくら買っても叱られなかった。『幼年倶楽部』とか童話とか、『路傍の石』みたいな少年少女世界文学全集とか。祖母の『婦人倶楽部』も読んでましたし、町に何セットしかないような金のピカピカの百科事典も、本箱の一番下の段から引っ張り出しては眺めてましたね。とにかく本が好きで、小学校に入る前に6年生までの教科書を全部読めたぐらいです。物覚えがいい子だとは言われました。

―― 裕福なご家庭だったんですか。

村田 美唄の家は祖父母の家なんです。祖父は常盤家という仙台藩の士族の次男で跡取りにはなれないので、屯田兵として北海道に移ったんですよ。屯田兵になるには奥さんが必要だということで、小作の娘だった祖母を養子縁組か何かで釣り合うようにして結婚して。士族だから、士族だからって、2人とも気位が高くて大変でした。士族と山賊なら、山賊のほうがエライと思いますがね、今の私は(笑)。

■武家の出のじいさんの影響で知識が増えた

―― お父様、お母様も同居されていたわけですよね。

村田 実は美唄で生まれてすぐ、母の実家がある博多に引っ越したんですよ。父は函館商船を出て、世界各国を船で回っていて、長崎に寄港したおりに母と出会って結婚したんですけど、母が八百屋の娘だったことが、じいさんは気に入らなかったようです。私が5歳のとき胆石で亡くなった母が、「北海道のおじいさんは金持ちで教育もある人だから、栄子は北海道にやってくれ」と言ったらしくて。八百屋のばあちゃんは北海道にやるのはかわいそうだと言ったそうだけど。

―― 武家の出のおじいさん、しつけは厳しかったですか。

村田 そうですね。大事にはされましたけど、かわいがるというよりは、プライドで育てられたような。学校から帰ると部屋中に世界地図が広がっていて、「今お父さんはこの辺に行ってるんだよ」とか。ご飯食べながら、祖父が何やら盛んに口にする四文字熟語を覚えたりとか。そういうやりとりでも知識が増えたように思います。メンタルテストとかいう、今でいう知能検査みたいなものもやらされていたし。そうそう、磁石を頭に巻くと頭がよくなるとかいうエジソンバンドは恥ずかしかったなぁ。

■私、小学5年中退みたいなもので、学力には劣等感あります

―― エジソンバンドって戦中からあったんですね。

村田 祖父が通信販売好きで、新聞広告か何かで取り寄せたみたいです。学校から帰ったらエジソンバンド巻けって。周りに大事にされすぎたせいか、私、子どものときは体が弱くて、20歳ぐらいまでしか生きられないかもしれないとお医者さんに言われたらしいんですよ。だから、うちに2人いた助手というか書生みたいな人が、すぐ目の先の学校までランドセルを持ってくれて、校門に入るときに背負わせて、帰りもまた校門で待っているから道草も食えない。戦争が始まってからは、体が弱いなんて言ってられなくなりましたけど。

―― 日常生活が変わった?

村田 毎日学校に通えたのは小学校5年生まで。若い人は兵隊に、農耕用の馬も徴用されたので、私たちは勤労奉仕で、したこともない畑仕事ですよ。馬が引っ張る「コロ」という用具を私たちが引いて畝をつけたり、ジャガイモを収穫したり。男の子は軍需工場ですね。せっかく上がった岩見沢の女学校も軍に接収されちゃったし。だから私、小学5年中退みたいなもので、学力的にすごく劣等感があるんです。

■東条英機から「いい子だね。しっかり勉強しなさい」

―― 先日、クイズ女王の石野まゆみさんにうかがったんですが、村田さんはその頃、東条英機に会われたことがあるとか。

村田 そう。まさに小学校5年生のとき。美唄は小さな町なんですけど、三井と三菱の鉱山を抱えているので急行は必ず止まるんです。それで春と秋にある旭川師団の演習で偉い人が来ると、駅に並んでお出迎えするわけですよ。あのときはちょうど私の前に電信柱というあだ名のすごくノッポな先生が立っていたの。そうしたら、東条さんが「君、どきたまえ。後ろの子が見えないから」と先生をどかして、「いい子だね。しっかり勉強しなさい」って頭をなでてくれたの。わらじ履きの子が多い田舎で、私、父親が外国から送ってくれる革靴履いたりしゃれた服着てましたから、目立っていたんでしょうね。それを石野さんに話したら、「東条英機って人を見る目がない」って言うから、「だから戦争に負けたんだよ」って私も言い通しました(笑)

―― 北海道にはいつまでいらっしゃったんですか。

村田 結婚するまでいました。22か23。忘れちゃった。東京に連れていってくれる人なら誰でもよかった。主人もよく言ってましたよ。「東京見物のついでに俺と結婚したことを、俺はよく知ってる」って。東京って本当に面白い。岩見沢高等女学校の大先輩、チョッちゃん(黒柳徹子さんのお母さん)にもお会いできたし、町内会長の竹下(正彦)さんに、義兄の阿南惟幾(陸軍大臣。終戦時に自決)さんの話を聞きたくて追いかけ回したり。

■主人に感謝してるんです。クイズに出会わせてくれてありがとう

―― ご主人は、どんなお仕事をされていたんですか。

村田 外務省の役人でしたが、すぐ民間の会社に変わりました。どこでも上役とトラブって辞めるようなわからず屋。5か国語が話せたとかで、東京裁判では通訳もしてたらしいですよ。年が13違うので、主人は私を自分好みの理想の女性に教育しようと思ったらしいんです。『マイ・フェア・レディ』じゃあるまいし、「ヒギンズ教授か!」って突っ込んだことあります。結婚してすぐ英語とフランス語を習うために、アテネ・フランセに通わされたぐらいで。

―― ご主人の海外赴任先に同行されたりしたことは?

村田 それはありませんけど、主人のおかげでフランス語もかじれましたし、クイズもできた。北海道で大きな料亭も経営している魚屋さんにお嫁に行った同級生がいるんですけど、夜、本を読んでいるだけで「魚屋の女房にそんな教養が要るか」ってご主人に怒られるんですって。だから「布団をかぶって懐中電灯で本を読むのよ」って。せっかくお金持ちになっても、それじゃあんまりですよね。だからその点では、主人に感謝してるんです。クイズに出会わせてくれてありがとう。

構成=皆川秀
写真=杉山秀樹/文藝春秋

後編 (http://bunshun.jp/articles/-/5490)につづく

むらた・えいこ/1930(昭和5)年、北海道美唄の生まれ。『タイムショック』『アタック25』『アップダウンクイズ』など数々のクイズ番組を優勝。「ホノルルクラブ」会長を務める。

(「文春オンライン」編集部)

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