【アカデミー賞4冠】「半地下」「悪臭」以外から読み解く、『パラサイト』の秀逸さと限界

【アカデミー賞4冠】「半地下」「悪臭」以外から読み解く、『パラサイト』の秀逸さと限界

『パラサイト 半地下の家族』より © 2019 CJ ENM CORPORATION, BARUNSON E&A ALL RIGHTS RESERVED

?*以下の記事では、現在公開中の『パラサイト 半地下の家族』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。とりわけ、本作のポン・ジュノ監督は「ネタバレ」をしないように呼びかけています(劇場パンフレットより)。まだ作品をご覧になっていない方、これからご覧になる予定の方は以下の記事を読まないことをお勧めします。

■キーワードとなる「悪臭」

『動物農場』や『一九八四年』で有名なイギリスの小説家ジョージ・オーウェルは、1937年に『 ウィガン波止場への道 』というルポルタージュを出版している。これは、当時炭鉱町であった北イングランドのウィガンの炭鉱労働者たちの生活を、その中に飛び込んで記述するというスタイルで書いたものだった。その中で、オーウェルは「下層階級には悪臭がする」と述べて物議を醸した。正確に引用するなら、次の通りだ。

“下層階級には悪臭がする──これこそ私たちが教えこまれたことなのである。まさにこの点に、乗り越えがたい障壁があることは明らかだ。身体のなかにしみこんだ感覚ほど、好悪の感覚のなかで根源的なものはないからだ。人種的偏見や宗教上の差別、教育や気質や知性の違い、あるいは道徳観念の違いといったものでさえ乗り越えることは可能である。しかし、身体のなかにしみこんだ嫌悪感はそうはいかない。”(土屋宏之・上野勇訳、ちくま学芸文庫。太字部分は原文では傍点)

 カンヌ国際映画祭で最高賞に輝き、アカデミー賞受賞の期待が高まるポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』の物語に決定的な転回をもたらすのが、オーウェルの述べた、悪臭に対する「身体のなかにしみこんだ」嫌悪感とその表明であったことは、本作をごらんになった方はすぐにピンと来るだろう。

 表面上は感じよく、自分たちが使用する家政婦や運転手への階級的偏見を表明するようなことはしないくらいには文化的なスーパーリッチ家族のパク家。だが、その「一線を越えて」くるのは、「悪臭」である。

 半地下に住むキム家の家族たちの身体から醸し出される臭いに、我知らず嫌悪感を示してしまう金持ちのパク家。その嫌悪感を鋭敏に感じとって怨嗟を募らせる、半地下に住むキム家の父ギテク。臭いが貧富の間に引かれていた一線を越え、それによって金持ちと貧者の両者がその一線を越えることになる。これがついに惨劇に結びつく。

■「格差社会」を描く作品を読み解くキーワード

 この作品は、「格差社会」を描くものとして、最近世に出たいくつかの作品と比較されるだろう。ここ2年間くらいに限定しても、同じカンヌのパルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』(2018年)、ケン・ローチ監督の最新作『家族を想うとき』(2019年)、またハリウッドからはトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』(2019年)とジョーダン・ピール監督の『アス』(2019年)、同じ韓国映画からは、村上春樹の短編を原作とするイ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2018年)、そしてイタリアからはアリーチェ・ロルヴァケル監督の『幸福なラザロ』(2018年)も、「貧しき者たちの歴史」を圧縮して描いてみせた近作としてこの列に加えることができる。

 とりわけ『バーニング』や『パラサイト』は、むき出しの暴力でしか解決できないようなすさまじい貧富の差が印象的である。

 このような映画が韓国から出てくることは、例えば金敬哲『韓国 行き過ぎた資本主義』(講談社現代新書、2019年)が活写する、韓国のし烈な新自由主義的競争社会のありようから説明もできるだろう。だが本稿では、『パラサイト』のような「格差社会」の物語とその解決が共有する限界について考えたい。

 そこで、ひとつ提案したいのが、「格差社会」と「階級社会」を別物として、違う「社会のイメージ」としてとらえることである。大まかに言って、「格差社会」とは階級に分断された社会を外側から記述し、場合によってはその中での競争を煽るための概念であり、「階級社会」は階級に属する人間がそれを意識して社会化し、うまくいけばその意識を階級の中での連帯の根拠とし、さらには社会構造そのものの変化を求める根拠としていくような概念である。(この論点については河野 「格差社会でいるくらいなら、日本は『階級社会』を目指した方がいい」 を参照。)

 『パラサイト』は、この二つのうち「格差社会」を描くことには成功しているが、「階級社会」に到達し得ていない。どういうことか、具体的にみていこう。

■「勝ち組」の論理で入りこんでいくキム家

 物語の前半は非常にテンポ良く痛快に展開する。そこでは、半地下の住宅に住むキム家が、スーパーリッチ家族パク家の「人脈」への信念を逆手に取ってこの家族の内部に「パラサイト」として入りこんでいく。

 息子のギウは友人の紹介で家庭教師になって信頼を得て、妹のギジョンを、アメリカ帰りの芸術療法士として引き入れる。ギジョンはパク家のお抱え運転手を計略によって解雇させ、父をベテラン運転手の伯父さんであると偽って紹介する。さらには、雇われた父ギテクは、(架空の)会員制の家政婦斡旋業者を紹介し、妻を家政婦として家に引き込むことに成功する。

 先ほどの記事でも論じたが、近年の新自由主義的な「競争社会」は、純粋な競争社会であるどころか、縁故主義(クローニズム)がはびこった、階級が固定され、勝者は勝ち続け、敗者は負け続けるような社会になっている。そのような社会での「勝ち組」であるパク家は、「人脈」の重要性をよく知っている。半地下の家族キム家は、そのような勝ち組の論理をうまく利用して、「人脈」をたぐる/たぐらせる形でパラサイトとなるのだ。

■キム家は、リッチなパク家と敵対しない

 これは単に、「あえて利用する」というところに留まるものではない。キム家は決してパク家に対する階級意識を抱き、敵対することもなければ、格差社会の論理(勝ち組の論理=縁故主義)を否定することもない。むしろその論理に飲み込まれている。

 そのことは、物語の後半でパク家の隠された地下に住む男グンセの存在が明るみに出た後に、あからさまになっていく。そもそもキム家は運転手や家政婦(グンセの妻のムングァン)を陥れて排除することでパラサイトになることに成功していた。忘れられた核シェルターの中で密かにパラサイト生活をしていたグンセの存在が明らかになった後も、キム家は彼と「パラサイト」の地位を巡る闘争・競争に入る。

 ここで起きているのは、一種の分断統治だ。本来は、貧しき者たち(キム家とグンセ)は連帯をして資本家(パク家)に対抗すべきである。しかし、闘争線は貧しき者たち同士の間に引かれる。

 この点についてこの作品は非常に皮肉な眼差しにあふれている。終盤の大雨と洪水の場面で、地下室で便器の中に嘔吐するムングァンと、下水から汚物があふれるキム家の半地下のトイレのリンクは、二つの貧しき家族が同じ立場を共有していることを示唆する。だが、その二つの家族はあくまで対立=競争させられる。ここまで、『パラサイト』はあくまで競争社会=格差社会として社会を見ている。

■最後まで「地下の男」との連帯が生まれない理由

 では、物語の大団円において、キム家、とりわけ父のギテクは、「階級意識」に目覚め、グンセと連帯してパク家との階級闘争に入った、という風に読めるだろうか。どうもそれは難しそうだ。地下室の住人グンセとキム家の対立は最後まで解消されず、グンセはキム家の娘のギジョンを刺し、キム家の母チュンスクに刺される。

 ギテクによるパク氏の殺害は、非常に衝動的なものだ。確かに彼は、娘と息子が傷ついた姿を目にし、一方で自分の息子の発作のことしか考えないパク氏に対する義憤にかられてはいる。だがそれは一方では冒頭に述べた通り、「悪臭」に対するパク氏の不随意の拒絶反応に対する、かなり身体的なリアクションなのだ。十分に社会化され意識化された「階級意識」の結果ではない──そのような意識を抱くチャンスは、彼にはずっと前からあったのだから。

 この映画が、「格差社会」を超えて「階級社会」の意識へと向かわないことは、結末のシークエンスでの息子の語りにも表れているだろう。そこで語られるのは、大金を稼いで、父が地下室に幽閉されることになったパク家の元邸宅を買い取り、父を救い出したいという希望である。それは、格差社会の勝ち組になりたいという希望だ。決して、格差社会の構造そのものをひっくり返すといったことは想像されない。

 だが、暴力だけはある。この、十分に社会的な意識をともなわない暴力の存在は、『パラサイト』、『バーニング』、そして昨年大ヒットし『パラサイト』とともにアカデミー賞にノミネートされている『ジョーカー』の中心にあるものだ。

 この暴力は二面的なものだ。『ジョーカー』のラストシーンを考えていただければよいだろう。主人公アーサーの暴力は、民衆の蜂起を煽動する。それは、ある視点から見れば、権力の抑圧に対する民衆の抵抗を引きおこすものであり、「左派ポピュリズム」と呼びうるものに見える。

 だが、同じ煽動が、トランプとブレグジットの現在の政治的空気の中では、外国人やマイノリティに対する排外的な感情と暴力──右派ポピュリズム──に結実してしまうこともまた容易なのである。実際、アーサー自身は障害者・貧者として社会から排除された恨みを暴力として発現させているだけだ。そこに社会化された意識はない。

■偏見を描くことが、偏見を強化する?

 冒頭のジョージ・オーウェルからの引用に戻ろう。この引用において悪臭への嫌悪を抱く「私たち」とは、オーウェル自身が属する中流階級だ。オーウェルはここで、その中流階級が持つ偏見について述べている。決して、下層階級には悪臭がするという「事実」について述べているわけではない。

 ところが、『ウィガン波止場への道』を出した後、オーウェルは下層階級、または労働者階級に対する偏見を表明した咎で批判された。

 このことは、格差や貧困を描くこと一般について大きな問題を投げかけている。もちろん、オーウェルの意図を尊重して、彼は労働者階級に対する偏見を批判的に記述したと主張することは可能だ。だが、「そういう偏見がある」ということを正確に、活き活きと記述することが、かならずそのような偏見をなくすことにつながると言えるだろうか。それどころか、そのような記述は偏見を強化することにもつながり得るのではないか?

■「格差」を扱う映画は、脱出の可能性を描かない

 このことを、一連の「格差」を扱う映画作品に当てはめて考えてみよう。『パラサイト』もそうであるし、イギリスのケン・ローチ監督の『家族を想うとき』でさえもそうなのだが、近年の作品は貧困や貧者の生活を赤裸々に、容赦することなく、そこからの脱出の可能性を安易に与えることなく描いてみせる。そこでは、労働者階級やアンダークラスが連帯して自分たちの苦境を解決する、そしてさらにはそのような社会を変える可能性は描かれない。

 もちろんこれは、現実にそれが無理だから、という説明もできる。こういった作品はその厳しい現実を描いているのだと。

 しかし、「格差社会」を描く映画が、自動的に格差社会に反対しているとは言えない。観客が、「このような不平等な社会は変えなければならない」と思う可能性があるのとまったく同様に、「分かった、このような社会で負け組にならないように頑張って競争しよう」と思うことだってできるのだ。その「競争」には外国人や障害者、性的マイノリティといった社会的弱者の排除も含まれるだろう。

 「格差社会」について語ることの難しさはここにあると思う。ある作品が、格差であれ階級であれ、分断された社会を肯定しているのか否定しているのか。これはかならずしも、制作者の意図の水準で決定できる問題ではない。与える効果の問題でもあるからだ。

■『パラサイト』の限界は、現代政治の困難そのもの

 そして、あくまで概念的に区別すれば、排他的な競争(椅子の取り合い)が強調される「格差社会」は右派ポピュリズムの温床となり、各々が階級に属して団結し、他の(支配する)階級と敵対する社会である「階級社会」は左派ポピュリズムの苗床である、ということはできる。

 だが、これは概念的な操作による区別であり、現実にはそのような区別は見定めがたい。暴力の火種となる不公正の感覚、恨みの感覚そのものには、右派も左派もない。『パラサイト』の結末で爆発する暴力が左派ポピュリズムの暴力なのか、右派ポピュリズムのそれなのか──これは、ここまで述べたことにもかかわらず、根本的な水準では決定不可能なのである。そしてこれが決定不可能であることが、現在の私たちの政治的な困難の中心にある。

 本稿で述べたような意味での「階級社会」を思い描くことは、もちろん現代では非常に困難であり、それが描けないことは『パラサイト』などの作品の限界というよりは、現代社会の限界だと言った方がよい。

 だがそれゆえにこそ、そのような決定不可能なものを決定しようと努力することはすなわち、現代社会の限界を乗り越えようとする努力となるはずだ。そこに描かれる暴力がいかなるピープル=人びとに共有されるものとして想像できるのか、それは真剣に考えるべき問題なのである。

※2月10日2時32分に内容を更新しました。

(河野 真太郎)

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