『100日後に死ぬワニ』へのモヤモヤを研究者が分析「ファンは『人工芝なのでは』と怒った」

『100日後に死ぬワニ』へのモヤモヤを研究者が分析「ファンは『人工芝なのでは』と怒った」

『100日後に死ぬワニ 完結記念サイト』より

*以下の記事では、4コマ漫画『100日後に死ぬワニ』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。

 漫画家のきくちゆうきがツイッター上で昨年12月から3月にかけて『100日後に死ぬワニ』という4コマ漫画を連載した。この作品はネット上では大きな話題となり、ファンたちは日々ワニの日常生活を垣間見つつ、100日目に何が起きるのかを固唾を飲んで見守った。

 しかし、ワニの死に様が明らかになった連載最終回と同時に複数の営利企業とのコラボレーションが発表され、ファンの間には批判と擁護が巻き起こった。あまりにも性急なコラボに潜む商業主義を批判する者もいれば、作者が自身の作品から対価を得るのは当然だと擁護する者もいた。?

従順な消費者とは違う「ファン」という存在

 この議論はどちらか一方だけが正しく他方が間違っているという種類のものでは無い。『100日後に死ぬワニ』に関して巻き起こった毀誉褒貶はファンという現象について考える良い材料である。

 ファンとは何だろうか? ある作品のファンであることは、単純にその作品の関連商品ならなんでも購入する従順な消費者であることとイコールではない。ファンは時に作品に強い愛着をもち、彼らが作品の本質的な価値と考えるものを作品の作り手や権利保持者が毀損していると考えれば彼らと戦うことすらある。

 だからこそ、商業メディアや営利企業にとって、非営利的な作品への愛着を持つファンとのコミュニケーションは一筋縄ではいかない。私は資本主義社会における文化や芸術についてその受け手側に注目して研究をしているが、今回はファン研究の第一人者の一人であるヘンリー・ジェンキンスの議論を参照して、『100日後に死ぬワニ』騒動を分析してみたい。?

ファンは「価値の門番」である

『100日後に死ぬワニ』ファンたちのコラボ発表への反発は、この作品の中身を考えれば十分に理解できる。自分が死ぬことを知らないワニが送る日常生活をファンたちはツイッター上で毎日目撃し、ついに100日目にワニが交通事故で死ぬ。

 生のはかなさをテーマにしていながら、作品の終了直後に登場キャラクターをモチーフにしたグッズがさまざまな企業から発表されるというのは確かに作品の余韻を削ぐ。

 ジェンキンスによれば、ファンは作品の価値の門番の役割を果たす。作り手があるコンテンツを発表した時に、ファンたちは何でも受け入れるのではなく愛好するコンテンツの根源的な価値に照らし合わせて評価し、時には作り手さえも批判する。これは、アップル社が新製品を発表するたびに、「ジョブズはこんなものを認めないだろう」という反応が出てくることを考えれば理解しやすいだろう。

『100日後に死ぬワニ』で言えば、友人の事故死が作品製作の動機であると作者自身が語っていることからも明らかなように、「メメント・モリ(死を思え)」というメッセージが作品の核にある。だからこそ、作品とそのキャラクターに強い愛着をもったファンたちは死を商品化するような行為に拒絶反応を示したのだ。?

毎日決まった時間に更新、日常に侵入するしかけ?

 架空のキャラクターに強い愛着を持つファンたちを単純にナイーブだと考えてはいけない。『100日後に死ぬワニ』という作品はツイッターというメディアの特性を活かして、意識的にファンたちとの間に強い情緒的なつながりを作り出しているからだ。

『100日後に死ぬワニ』は毎日決まった時間に更新され、ファンはこの作品を日々目にする。目に触れる時間の多さが親近感や信頼の醸成に貢献することは、街中に溢れる広告の多さを見れば明白だ。作品が描く平凡な日常生活が私たちの現実の時間と同期していることも重要だ。私たちがクリスマスや大晦日を経験する時に、作中の動物のキャラクターたちもクリスマス・ケーキを売り除夜の鐘を聞く。


『100日後に死ぬワニ』はファンの日常に侵入し、あたかもこの動物たちが友達であるかのような感覚を作り出す。友達を見ているような感覚がファンを作品に惹きつける力となっているのだから、友達の死の追悼を販促イベントにしてしまえば怒りを買うのも当然なのだ。?

消費者と精神的なつながりが価値になる時代

 ジェンキンスはこのような作品とファンとの間に生まれる精神的なつながりを「情動の経済」と呼び、企業が消費者を自社のブランドに繋ぎ止めるためのマーケティング戦略として議論する。

 テレビが今よりも支配的な影響力を誇った時代であれば、自社の広告がどれくらいお茶の間に侵入できているかを測るには、視聴率が最も有効な指標だった。しかし現代においては視聴率やページ・ビューは影響力を測る特権的な指標ではなく、代わりに企業は消費者との間に精神的な関係性を作り出そうと様々なマーケティング戦略を繰り出している。

『100日後に死ぬワニ』はあまりにも人々の日常にうまく浸透したがゆえに、多くの企業がその潜在的価値に素早く飛びついた。しかし、コラボ企画の露骨な商業主義が反発を招いたことからもわかるように、この精神的なつながりというものは、それが情緒的であったり感情的であったりするがゆえに、企業が思うようにコントロールできるものではないのだ。?

持ち上がった「人工芝」の疑惑?

『100日後に死ぬワニ』のファンたちの怒りにはもうひとつ別の水準が存在する。「電通案件」という言葉が表している通り、この作品の人気それ自体がすべて最初から電通という企業が仕掛けたものではないかという疑惑が持ち上がった。

 ある作品のファンになるとき、普通、人は打算を働かせるのではなく素朴にその作品を好きになるのだ。ツイッターで『100日後に死ぬワニ』をリツイートするとき、ファンたちは経済的利害から離れて、ジェンキンスの好みの用語を使うならば、「草の根」の活動をしているのだ。だからこそ、ファンの活動自体が営利企業によってこっそりと仕組まれていたものであったとわかると強い反発心が発生する。

 ジェンキンスは「草の根」の活動を偽装した営利企業の活動や政治活動を「人工芝」と呼んでいるが、『100日後に死ぬワニ』も電通による「人工芝」ではないかと疑われたわけだ。?

「人工芝」がファンと営利企業の間の信頼関係を毀損するという議論は、しかし、営利企業と作品のコラボ自体が悪だという意味ではない。現在の資本主義体制下では、作者が作品から金銭的利益を得なければ生活ができなくなってしまう。

 電通は過労死事件などの問題を抱えた企業であることは確かだが、きくちゆうきによれば連載を始めた段階で電通は関与していないので、『100日後に死ぬワニ』は電通による「人工芝」ではない。むしろ、「電通案件」という言い方は、少なくとも今回の件では、ネット上で人気を博した「草の根」のコンテンツは必ずどこかの営利企業が目をつけて商品展開を目論むというより本質的な問題から目を逸らしてしまう。?

死の予告は読者の解釈を枠づけた

 ファンの日常に侵入するという点に話を戻すと、あらかじめワニの死が予告されていることも重要な機能を果たしている。死の予告をすることでカウント・ダウン型のメディア・イベントとして作品を枠付け、ゴールに向かってファンたちの関心を維持することに成功している。別の言い方をすると、クリフハンガーのような作劇手法のように、ワニがどう死ぬかという興味で読者をつなぎとめているのだ。

 作品本編では決して死んだワニ自身は描かれなかったのに対して、ロフトの「100ワニ追悼Pop Up Shop」という企画の天使の輪を頭に頂いたワニというイメージは、あからさまにワニの死自体を主要な注目の対象として使っている点で、このようなカウント・ダウン的な興味関心の延長線上にあるものだと言える。?


 しかしこのことは、すべてのファンが『100日後に死ぬワニ』をカウント・ダウン型の娯楽としか考えていなかったという意味ではない。死の予告は「メメント・モリ(死を思え)」というテーマに読者の解釈を枠づける機能も果たしている。

 例えば、ワニはふかふかの雲布団を予約するが、その布団は1年後にしか届かない。我々は布団がワニのもとに届くときには彼はすでに死んでいることを知っているので、この日常的なシーンでさえも緊張感をもった解釈をするように誘導される。


 実際、単にワニの死を娯楽にしたカウント・ダウンだという説明だけではこの作品のツイッター上での人気は説明がつかないだろう。?

 その意味で、『100日後に死ぬワニ』はあまりにも忙しい現代の日本人に向けて、新しいアプローチで作品とファンの関係性を開拓したと言える。ファンたちはどんな環境でこの作品を楽しんだのかほんの少しだけ思いを馳せてみよう。

 おそらく、満員の通勤電車で帰宅するとき、1日の家事が終わったとき、夜勤前の夕食の時間に、あるいは疲れ果てて寝る前の娯楽として、スマホのスクリーンの中で動物たちと生活を共有したのだろう。映画や美術館に飾られる芸術作品が人々の生活との接点を見出すことが難しくなっている時代に、これだけ人々の生活に入り込んだことはそれだけで見事なことだ。さらに、日常の限られた時間の中でファンとの間に情緒的紐帯を作り、死と生について考える内省的な感情を生み出したことは肯定的に評価すべきことだ。

 物語の結末自体はクリシェ(紋切り型)に満ちているが、親友のネズミがワニに対して送った桜の写真がスマホ上に映るという演出は、このネット時代における作品とファン、そして社会と個々人の関係性をも自己言及的に表現している。?

ファンはこれからどうすべきなのか??

 だとしたら、ファンたちはどうすべきだろうか?ジェンキンスに倣うならば、ファンたちは自分たちが感じたことを、真面目なやり方でもちょっと不真面目なやり方でもいいから、ツイッターに書けばいいのだ。

 ジェンキンスは、文化的活動へのファンの主体的で積極的な参加を、本人の成長や満足だけでなくコミュニティーの成熟や民主主義の実践のための重要な契機だと考えている。作者は電通は最初から関わっていないと発言しているが、仮にこれが電通が全てを仕込んだ「人工芝」だったならば、ファンが不快感を感じるのはもっともだ。

 かといって「電通案件」として事態を矮小化することは、この作品がもともと投げかけたメッセージ自体をも毀損することになる。『100日後に死ぬワニ』のファンたちがこの作品の「メメント・モリ」というメッセージに価値を見出すのならば、ファンたちはきっとこの作品によって波だった心の動きをもっと繊細な言葉やもっと機知に富んだパロディーでツイッターに書くことができるだろう。?

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※ヘンリー・ジェンキンスの議論は本年度中に晶文社より刊行予定の著者邦訳『コンヴァージェンス・カルチャー(仮)』(阿部康人、北村紗衣、渡部宏樹訳)をご覧ください。?

(渡部 宏樹)

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