楠木建の読書遍歴と「芸論」への偏愛

楠木建の読書遍歴と「芸論」への偏愛

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■カラダかアタマか

 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 スポーツが好きな人は「じっとしているとイライラする。あー、体を動かしたい!」というようなことを言う。僕は運動が嫌いなので、その辺の爽快感がよく分からない。

 ただ、そういう気分は類推できなくもない。僕は頭を動かしていないとイライラする。頭を動かしたいという欲求が湧き上がってくる。で、頭を動かすとスカッとする。

 ようするに理屈っぽいだけなのだが、こうした性分は理屈ではなく気分というか生理の問題だ。自分の頭に引っかかることについて、「これはようするにどういうことなのかな」と考えずにいられない。論理で本質がつかめないとどうも落ち着かない。「ようするにこういうことか」と、自分なりに得心するとスカッとする。モヤモヤが解けて腑に落ちる。いったん腑に落ちると、俄然そのことについて考えるのが面白くなる。さらに思考が触発される。

 僕にとって、この生理的欲求に正面から応えてくれるのが読書なのである。ということで、 前回 、 前々回 に引き続き、読書の話をする。

■はじめは普通に小説から

 子供のころ、夏を過ごす家が軽井沢にあった。隣が北杜夫さんの別荘だった。北さんのお嬢さんが由香ちゃんという僕の少し上のお姉さん(現在はエッセイストの斎藤由香さん)で、ときどき遊んでもらっていた。で、お父さまが小説家だということを知り、 『どくとるマンボウ小辞典』 を読んでみた。これが自分で買った初めてのハードカバーの本だった。北さんにサインしていただいた。次に読んだのが名作 『船乗りクプクプの冒険』 。これは文庫で読んだ。

 当時の中学生に人気があったのが筒井康隆。例に漏れず僕も好きだった。 『バブリング創世記』 を本屋で立ち読みして、その言葉遊びのあまりの面白さにゲラゲラ笑っていたら、本屋さんに叱られた。40年も前の話だが、いまだにありありと思い出す。

 中学、高校時代はそんな感じで、読むのはほとんどが日本の小説だった。夏目漱石とか、芥川龍之介とか、三島由紀夫とか、太宰治とか、石原慎太郎(前回も話したけれど、この人のエンターテイメント小説は滅法面白い)とか、ようするに普通の中高生(当時)の読書傾向だった。

 とくに好きだったのが武者小路実篤の一連の作品だ。筋はもちろん、文章、とくに話し言葉が綺麗で、読んではうっとりしていた。話はとんでもなく単純、というかある意味で狂気の世界なのだが、当時の僕にとってはちょうどよかった。大人になってから、高橋源一郎が 『文学なんかこわくない』 の中で武者小路実篤について本質的な評論をしているのを読んだ。抱腹絶倒の名文で、実篤ファンとしてはホントに面白かった。

■フィクションからノンフィクションへ

 大学に入るともう少しアタマを使うものを読むようになった。大きな影響を受けたのはゼミで友達になった青島矢一君(現一橋大学大学院教授)だ。青島君の下宿に遊びにいくと、クロード・レヴィ=ストロースの 『野生の思考』 とか西部邁の 『ソシオ・エコノミックス』 とか、それまで僕が読んだことがないようなムツカシイ本が本棚に並んでいた。なにせこっちは武者小路実篤の 『若き日の思い出』 とか 『幸福な家族』 である。こういう読書世界があるのか、とびっくりした。

 20歳の頃になると読書のほとんどがノンフィクションになってきた。大学の講義の影響で、デュルケームの 『自殺論』 とかトクヴィルの 『アメリカのデモクラシー』 、バークの『フランス革命の省察』といった古典も読むようになった。ウェーバーの 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 を読んだときは、その論理構成の面白さに感動した。本を読みながらアタマを回すことの快感がわかってきた。

 以来30年、フィクションよりもノンフィクション、とくに人間と社会についてのノンフィクション、という好みは変わっていない。

 フィクションはハマると最高、完璧にトリップできる。いつだったか、年末年始に宮部みゆき 『模倣犯』 に手をつけたときは、あまりの面白さに2日間ベッドから離れられず(僕は本は必ず横になって読む)、初詣にも行けなかった。

 ところが、僕にとってはフィクションには難点がある。面白ければ面白いほどその世界に没頭してアタマを使えなくなってしまうのである。しかも、小説などのフィクションは自由度が高すぎる。ロジック抜きのやりたい放題になってしまう。当然のことながらロジックを追うのには適していない。ノンフィクションであればいくら面白くてもアタマが働く。面白ければ面白いほどアタマが回る。

■知識よりも論理

 ノンフィクションを読む動機は、ありていに言えば好奇心なのだが、僕の場合、それは「知識欲」というのとはだいぶ違う。「森羅万象について知らないことを知りたい」という意味での知識欲はむしろ乏しいほうだと思う。僕にとってのノンフィクションの愉しみは知識の獲得よりも、その背後にある論理なり因果を自分なりに追っていくことにある。

 したがって、ノンフィクションでもサイエンス系は苦手である。ブラックホールが大きくなっているとか、超ひも理論とか、その手の話もときたま読むのだけれど、科学的な知識に制約があるので、自分できっちりと論理を追っていくことができない。アタマを動かす快感が得られない。

 好きなジャンルでいえば、歴史モノや社会評論、人物論。とくに評伝や自伝を好む。たまらなく面白かったものをぱっと挙げると、白川静 『回思九十年』 とか吉田茂 『回想十年』 、リ・チスイ 『毛沢東の私生活』 、ロバート・マクナマラ 『マクナマラ回顧録』 、カート・ジェントリー 『フーヴァー長官のファイル』 、ギュンター・グラス 『玉ねぎの皮をむきながら』 、エリック・ホッファー 『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 、この手の「面白い人物についての面白い話」に目がない。

 仕事とも重なってくるが、経営者の評伝や自伝もよく読む。最近読んだ中では、馬場マコト・土屋洋 『江副浩正』 が抜群に面白かった。これ以上ないほどの事業構想力だけを武器に、ゼロからリクルートを創った稀代の経営者がなぜあのような危機と迷走に陥ったのか。読んでは考え、考えては読む。僕のいちばんスキな読書スタイルにぴったり。経営者の本格評伝としては、佐野眞一 『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』 と双璧を成す傑作だと思う。

■芸論が大スキ

 こだわって読みつづけているジャンルに芸論がある。そもそも広い意味での芸事全般がスキで、音楽、随筆、評論、映画、落語、文楽、歌舞伎などを味わうのがスキということもあるのだが、それ以上に、芸論にこだわる理由がある。それは、自分の仕事のありようと深く関わっている。

 自分の考えを書いたり話したりして人さまに提供し、願わくはいくばくかの役に立てていただく。これが僕の仕事である。分野は経営、もう少し特定していえば競争戦略だが、自分で商売や経営をやっているわけではない。ただ考えているだけ。提供できる商品は自分の考えオンリーである。やたらとフワフワした仕事。舌先三寸、口舌の徒、机上の空論といわれても仕方がない。普遍の法則を探求する自然科学のような「学問」というよりも、「学芸」といったほうがしっくりくる。学芸大学に移籍したほうがいいかもしれない。

 僕の仕事は広い意味での「芸事」に他ならない。芸論は芸能人やアーティストに限らない。「人間の芸」全般についての論として読むことができる。仕事に対する自分の構えを固める上で、先人の「芸」を論じた本はまたとない洞察を提供してくれる。

■芸論傑作選

 芸論として誰もが認める最高傑作の一つに世阿弥の 『風姿花伝』 がある。芸は特定の人に体化されるものなので、芸論は必然的に評伝や自伝になる。人物論の部分集合としての芸論、といってもよい。『風姿花伝』にしても、本質的には自伝である。

 芸論の傑作はたくさんある。音楽の分野で言えば、『ローリング・ストーン』誌上のロングインタビューをまとめた 『グレン・グールドは語る』 。不世出のピアニストの芸風が、ストイックに練り上げられた思想と行動の原理原則として余すところなく語られている。

 とくに興味がある人物については、裏を取るというわけではないが、同じ対象について異なる人が書いたものを読む。これを僕は基本動作にしている。その人の芸の本質についての理解が格段に深まる。グールドに関する本はたくさんあるが、なかでもミシェル・シュネデール 『グレン・グールド 孤独のアリア』 を読むと、なぜグールドが多くのものを失ってまであのようなスタイルに突き進んでいったのかがよく分かる。

 ネルソン・ジョージの 『モータウン・ミュージック』 。芸の美しさ、爆発力、哀しさ、はかなさは、洋の東西を問わず普遍的なものだと痛感する。モータウンの歴史は芸の群像劇として興味が尽きないのだが、これにしても、創業者で社長だったベリー・ゴーディーの 『モータウン、わが愛と夢』 を合わせて読むと理解が立体的になる。本人による 『ウォーホル日記』 は滅多やたらと面白いが、これにフレッド・ガイルズ 『伝記 ウォーホル パーティのあとの孤独』 を合わせると一段とコクが出る。

 当然のことながら、芸論はその人の芸が濃いほうが面白い。その点、キティ・ケリーが書いたフランク・シナトラの評伝 『ヒズ・ウェイ』 はクラクラするほど面白かった。モータウンものではマーヴィン・ゲイもはずせない。シャロン・デイヴィス 『マーヴィン・ゲイ 悲しいうわさ』 とデイヴィッド・リッツ 『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル』 はどちらも秀作。この人に固有の「マーヴィン芸」はもちろん最高なのだが、背後に非常に複雑な人格形成のプロセスがある。知れば知るほど不思議な人だ。

 芸が濃いといえばエルヴィス・プレスリー。評伝も無数に出ている。エルヴィスは僕にとっての「トータル・メディア」といっていいほど大好物なので、20冊以上読んだ。本格評伝の決定版、ピーター・グラルニックの 『エルヴィス登場!!』 と 『エルヴィス伝 復活後の軌跡 1958-1977』 の2冊はもちろん、アラナ・ナッシュ 『エルヴィス・プレスリー メンフィス・マフィアの証言』 も邪道を行くエルヴィス評伝として最高に面白い。

■芸論の天才

 日本を代表する芸論の名手に小林信彦がいる。芸論の天才といってもよい。初期の傑作 『日本の喜劇人』 を始め、 『名人 志ん生、そして志ん朝』 『世界の喜劇人』 『笑学百科』 『森繁さんの長い影』 『喜劇人に花束を』 『天才伝説 横山やすし』 『テレビの黄金時代』 『おかしな男 渥美清』 などなど、多くの傑作芸論がある。僕はそれぞれ何回も繰り返し読んでいるのだが、その中でも『日本の喜劇人』にはとりわけ深い影響と感動を受けた。

 「芸人への賛嘆は、その芸人(の人間性)への幻滅の果てにくるものではないだろうか」と小林は言う。芸で生きる人たちの中でも、喜劇人はとりわけアクが強く、芸が濃い人ばかりだ。人間性がそのまま芸に出る職業の最たるものだろう。芸論のまたとない素材である。

 小林芸論の迫力は、著者の喜劇と喜劇人に対する思い入れと洞察はもちろんだが、「自分の目で見たものしか信じない」という一貫したスタンスによるところが大きい。『日本の喜劇人』は、著者が小学生のころから見てきた古川ロッパをはじめとする喜劇人たちの芸風を、直接的な経験や観察のみに基づいて考察する。その考察と洞察は、書かれている芸人の舞台を一度も見たことがない人にも「なにがどうすごいのか」がヴィヴィッドに伝わってくるほど深い。

■生命線は芸風にあり

 ギリシャ人のジャーナリスト、タキ・テオドラコプロス(通称タキ)に 『ハイ・ライフ 上流社会をめぐるコラム集』 という随筆集があって、これがまた大変に面白い。そのなかに「スタイルとは何か」という名文がある。

 タキに言わせれば、スタイルとはこういうことだ。第一次世界大戦の直前に、ある晩餐会があった。その席でさるフランスの貴婦人は気分が悪くなり、もうこのまま死ぬのではないかという予感がした。そこで彼女はウェイターを呼んで囁いた。「急いでデザートを持ってきてちょうだい」

 もちろん死ぬ前にデザートが食べたかったからではない。自分がここで死んでしまうと、晩餐会が台無しになる。そこで食事の進行を急がせる。これぞスタイル、とタキは言う。

 彼の本から直接引用すると、「だれも知らない。が、見ればそれとわかるのがスタイルだ」「抽象的な性格のもので、持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない」「見せかけの反対」「深みのある人格が知らず識らずのうちににじみ出て、なにもしなくてもいつの間にかまわりの人間の関心を集めている」「本物たらんと意識的に努力しなくても本物たりえている人間は、だれでもスタイルを持っている」のである。

 オスカー・ワイルドはさすがにうまいことを言う。「初対面で人を判断できないのは底の浅い人間だけである」。これもスタイルを問題にしている。

 スタイルとはようするに「芸風」である。芸風というのはまことにつかみどころがない。タキが言うように「とらえどころのない資質」としかいいようがない。ところが、これこそが芸事稼業の死活を決める絶対の生命線なのである。芸風とは、生まれ育ち、キャリア、発想、技能、才能、信念、美意識などなどを全部ひっくるめた総体であり、これこそが芸を仕事にする人にとっての拠りどころになる。自分の芸風を意識的に育て、それが活きる仕事(だけ)をする。ぼちぼちと学芸の道を歩んできた僕にとって、芸風は死活問題なのである。

 僕にしても、「芸風探して三千里」というか、ま、それはちょっと言いすぎだが、自身の芸風をつかむのにはわりと長い時間がかかった。最初の10年間は試行錯誤の連続だった。自分の芸風に若干なりとも確信が持てるようになったときには40歳を超えていた。

 自分のセンスはどこにあるのか。自分のスタイルとは何か。自問自答の日々を過ごしていたころ、行き詰まると必ず開いたのが『日本の喜劇人』だった。僕にとって目からうろこが何枚も音を立てて落ちるような記述の連続。この本に繰り返し励まされてきた。もうカバーがとれて、しわくちゃのヨレヨレになるまで読みこんでいる。これからも読み続けていくだろう(ビロウな話だが仕事場のお手洗いに常備し、用を足すたびに読んでいる)。

 死んだら『日本の喜劇人』を棺桶に入れて一緒に焼いて欲しい。そういう本があるということは、確かに幸せなことだと思う。

(楠木 建)

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