「シェイプ・オブ・ウォーター」は、インテリぶるには格好の映画だ

「シェイプ・オブ・ウォーター」は、インテリぶるには格好の映画だ

©2017 Twentieth Century Fox

 作品賞、監督賞などアカデミー賞4部門を受賞した、公開中の映画「シェイプ・オブ・ウォーター」。ギレルモ・デル・トロ監督を「オタク界の巨星」として敬愛する小石輝は、本作を「映画通ぶりたい人や、インテリぶりたい人が誉めるには格好の作品」と断じます。その言葉の真意と、作品に込められた本当の意図とは?

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■タカ派軍人・ストリックランドのキャラ立ちが半端ない

恋ちゃん(映画が大好きな大手マスコミ若手社員)「小石さん、『シェイプ・オブ・ウォーター』は観ましたか? アカデミー賞4部門受賞。しかも、小石さんが大好物の、オタクっぽさ満点の映画じゃないですか」

小石輝(恋ちゃんの先輩で、面倒くさいオタクオヤジ平社員)「いやあ。確かにオレも、『これをネタに、宮崎駿や庵野秀明も絡めつつ、オタク恋愛映画論を展開するんや!』と張り切っていたんやけどな。実際に観たら怖くて怖くて。少なくともオレにとって、あの映画は恋愛映画じゃなくて恐怖映画やったな」

恋「えー! やっぱり、半魚人がグロテスクで怖かったんだ!」

小「いやいや。半魚人の造形はちょっと見にはえげつないし、ネコを○○しちゃったりもするけど、見慣れるとだんだんイケメンでかっこよく見えてくるから不思議や。性格も基本的にはエエ奴やしな。このあたりはさすが自他共に認めるクリーチャー(怪物)愛の権化、ギレルモ・デル・トロ監督の面目躍如、といったところや」

恋「へー、じゃあ何が怖かったんですか?」

小「半魚人を軍事利用のために生きたまま解剖させようとするストリックランドというタカ派軍人が出てくるんやけどな。こいつのキャラ立ちが半端ないんや。マッチョでサドで女性差別、人種差別、職業差別の三拍子がそろっていて、ヘビのような粘着質で、パワハラでセクハラで、それでいて頭は結構切れるという、まさに悪役の鑑みたいな男。演じるマイケル・シャノンも『ダークサイドに堕ちたフランケンシュタインの怪物』みたいなゾッとする雰囲気を湛えている。こいつが序盤に半魚人を拷問しようとして、逆に指を2本食いちぎられるんや。その指を医者が何とかくっつけるんやけど、うまく治らずに化膿して、だんだん指が腐ってくる。で、指が腐臭を放つにつれ、本人の狂気度もどんどんアップして、半魚人をかくまうヒロイン・イライザとその友人たちを追い詰めていくという……」

恋「うわー、やめてくださいよ! 聞いているだけで気持ち悪くなってきた」

小「まあ、このグロさもデル・トロ作品のデフォルトやけどな。『ちょっと風変わりだけどロマンチックな恋愛映画』と思い込んで観に行くと、心臓の弱い人はエラい目に遭うでえ、と言いたかったわけ。付き合い始めたばっかりの恋人と一緒に観に行くには、ちょっとリスキーな映画かもしれんよ」

恋「だけど、アカデミー賞に加えてヴェネチア国際映画祭の金獅子賞も受賞しているし、すでに『名作』という評価は揺るぎないんじゃないですか」

■この映画は一種の「踏み絵」的なポジションにある

小「それについて言えば、この映画の特徴のひとつは『映画通ぶりたい人や、インテリぶりたい人が誉めるには格好の作品』ということやね。この映画を誉めれば『映画のことがよく分かっているリベラル系インテリ』というポジションは保証される。だからこそ、映画人たちはこぞってこの映画を誉めている、というか、ハリウッドでは『この映画を誉めないと自分の立ち位置が危うい』ということにまでなっていたんやないかな」

恋「それってどういうことですか? 例によってひねくれた見方なんでしょうけど」

小「政治的な文脈からこの映画を観れば、半魚人は言うまでもなくマイノリティー、被差別者の比喩的表現や。そして、赤ん坊の時の虐待が原因で話すことができないヒロインも、監督自身の言葉を借りれば『意見を封じられた人々の象徴』となっている。ヒロインと共に半魚人を救おうとする人びとも、黒人の清掃員だったり、ゲイの老人だったりと、社会的弱者ばかりや。

 一方、悪役・ストリックランドの愛読書は『積極的考え方の力』(原題:『The power of positive thinking』)という、パワーエリートが好みそうなベタな本。映画評論家の町山智浩氏によれば、実在するこの本の著者は、トランプ大統領が師と仰ぎ、最初の結婚式を挙げた教会の牧師さんだそうや。

 要するに、映画全体が『トランプ的マチズモに対する社会的弱者や女性、性的マイノリティーの抵抗物語』という非常に分かりやすい構図になっている。デル・トロ自身、『1962年という舞台は現在のアメリカの鏡。でも、現在を舞台にしたら、政治討論が始まってしまう。だから〈昔むかし……〉とおとぎ話にすれば、みんな聴いてくれるというわけなんだ』と話しているぐらいやしな」

恋「監督自身がそんな種明かしするようじゃあ、『これは政治的な作品です』と公言しているようなものですね」

小「うがった見方をすれば、反トランプ・反セクハラ運動がこれだけ盛り上がっているハリウッドでは、この映画は一種の『踏み絵』的なポジションにあるんやないかな。しかも、単なるゲテモノ作品じゃなくて、フレッド・アステアらのミュージカル映画に対する敬意とオマージュにも満ちている。ハリウッドの『表の伝統』と、怪物映画という『裏の顔』との絶妙なマリアージュとは、いかにもインテリ映画人の喜びそうな構図やないか。オレがアカデミー賞の審査員だったとしても、絶対にこの映画に受賞させるな。そうせんと、自らの見識や政治姿勢を疑われかねんからな」

恋「ふーん。賞狙いで意図的にやっているとすれば、デル・トロ監督も相当したたかですね。で、そういうハリウッドのお家事情とはどう転んでも縁のない小石さんは、この映画をどう評価するんですか」

■「パンズ・ラビリンス」と同じモチーフで挑んだ“リベンジマッチ”

小「見どころの多い、一見の価値ある映画やと思うけど、映画としてのバランスはどうかなあ。半魚人とヒロイン・イライザの関係がメーンになるはずが、悪役・ストリックランドのキャラが立ちすぎていて、ロマンチックな気分になってしかるべきシーンでも『ああ。いつ、あいつがこの幸せを壊しにくるんやろうか』ということばっかり気になってしまい、心ゆくまで楽しまれへんねんからなあ」

恋「それは単に、小石さんが小心者だからじゃないんですか?」

小「いやいや、君も映画を観れば分かるよ。やっぱりこの世で一番怖いのは、怪獣よりもクリーチャーよりも、ただの人間やで。それで興味深いのはな、デル・トロ監督のファンタジー映画『パンズ・ラビリンス』(2007年)にも、こいつとそっくりの悪役が登場するんや」

恋「ああ、あのおっかない大尉ですね。確かにあの映画でも、一番印象に残る人物でしたよ」

小「この映画は内戦直後の1944年のスペインが舞台やねんけど、大尉はフランコ独裁政権の手先で、マッチョで強権的で拷問が大好きで、絶望的な抵抗を続ける反政府ゲリラたちをじわじわと追い詰める。使用人の中年女性をなめきっていたために手痛いしっぺ返しをくらうという点まで、ストリックランドとまるっきり一緒や。映画全体の構図も、『主人公と反政府ゲリラが属する理想とファンタジーの世界』を、『過酷な現実を象徴する大尉』が圧殺しようとする点で、『半魚人とヒロインの側 vs. ストリックランドと軍』という『シェイプ・オブ・ウォーター』と同一と言ってええやろう」

恋「『シェイプ・オブ・ウォーター』はデル・トロにとって、『パンズ・ラビリンス』のリメークということですか?」

小「リメークというよりは、『同じモチーフを用いたリベンジマッチ』やないかな。ここでちょっとデル・トロ監督について語らせてもらうと、彼の本当のユニークさ、凄さはそのオタク的感性や博識にあるのではなく、『自分の内面のタマネギ構造=多層性を非常によく自覚していて、それぞれの階層を自由に行ったり来たりして作品作りに活かしていること』だ、とオレは思っているんや」

恋「はあ? それってどういう意味ですか」

小「デル・トロ監督の一番根っこにある『自己』は、本人が言っている通り『テレビの中の怪獣だけが友達』という孤独なオタク少年やろう。近々続編が公開される『パシフィック・リム』(2013年)は、デル・トロ少年がふけっていたであろう『おもちゃを使った怪獣ごっこの妄想・ファンタジー』を、ものすごいカネと技術を使って、思う存分スケールアップさせた映画やな」

恋「小石さんも大喜びしていましたからねえ。私は絶対に観ない映画だけど」

小「これだけやったら、デル・トロは単に『子どもの心を失わないオタク監督』という位置づけや。だけど彼は『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』の顔も持っている。これらの作品は、『こっそりと妄想の世界にふけりつつも、いつ怖い怖いオヤジに見つかって怒鳴りつけられ、おもちゃや本やテレビを全部取り上げられて現実に無理やり引き戻されないかとビクビクしているデル・トロ』という、『パシフィック・リム』よりも、もう一段上の階層の自己を反映しているように見えるんや」

恋「妄想にふける自分を客観的に観察しつつ、現実からの脅威におびえるもう1人の自分、ということですか」

小「そういうこと。デル・トロの実際の父親がそういうおっかない人だったかどうかは分からん。だけど、悪役のストリックランドや大尉が、ヒロインを食ってしまいかねないほどの生々しい存在感とリアリティーを醸し出しているのは、これらの恐ろしい連中が『父親的なるもの=過酷な現実』の象徴として、今もデル・トロの内面に存在し、ファンタジーの心地よい世界に浸ろうとするデル・トロを脅かし、苦しめ続けているからやないやろうか。こいつらにどう立ち向かい、ファンタジーの世界を守り抜くか、ということがデル・トロ自身の生きるテーマであり、創作意欲の源泉にもなっていると思うわけ」

■ファンタジーは現実を凌駕できたのか?

恋「『パンズ・ラビリンス』は、現実の過酷さを見せつけるビター・エンド(苦い結末)でしたね」

小「『ファンタジーは個人の魂を救えるかもしれないけど、現実に対しては無力』という結論やからな。リアルでクールな認識やし、それゆえに作品としての完成度も高いけど、デル・トロ自身の『魂の救済』にはならんかったんやないかな。だから彼は、『シェイプ・オブ・ウォーター』で改めて、『ファンタジーの世界を現実の脅威から守り抜く』というテーマを展開するとともに、『過酷な現実をファンタジーの力で変革する』というさらに野心的な挑戦を試みたんやないやろうか。

 デル・トロが作品の中に過剰なまでの政治的メッセージを潜ませたのも、賞狙いだけが目的やなくて、そういう明確な意図があると考えれば納得がいく。デル・トロのこういうしたたかさは、『妄想に耽る自己を見守りつつ現実に脅える自己』のさらに上層にある『現実と折り合いをつけ、過酷なハリウッドの世界で映画作りを続ける強い〈大人〉としての自己』のなせる業やろう。つまり、デル・トロの自己は三層構造を成しており、彼はそれらの自己を時と場合に応じて自由自在に使い分けることを通じて、本気で『自分の紡ぐ物語の力で現実を変える』ということに挑んでいるんや。そして、それ自体が彼自身の自己救済への道なんやろう」

恋「その試みは、『シェイプ・オブ・ウォーター』で成功したんでしょうかね」

小「うーん。観る人によって評価は分かれるやろうし、最終的には『デル・トロ自身が救われたかどうか』で、それは決まるんやと思う。だけど、作品自体の結末はともかくとして、キャラクター自体の説得力や存在感で判断する限り、オレはやっぱり今回も、『ファンタジー(半魚人)を守ろうとするヒロイン・イライザ』よりも『ファンタジーを圧殺しようとする過酷な現実の象徴であるストリックランド』の方に軍配を上げざるを得んわ。つまり、今回も『ファンタジーは現実を凌駕できなかった』と思う。デル・トロ自身も、実はそのことには気づいているんやないかなあ」

恋「小石さんは、よっぽどストリックランドが怖かったんでしょうねえ。私も逆に、怖い物見たさの気持ちが湧いて来ましたよ」

小「どうしても、イライザのキャラ立ちがストリックランドよりも劣ってしまうのは、ストリックランドがデル・トロの内面にデフォルトで存在するのに対し、イライザは『こういう女性やったら半魚人に惚れても不思議はない』という逆算的な手法で作り出された面が多いキャラクターだからやないかな。もちろん、イライザの核心的な部分は、『パンズ・ラビリンス』の主人公の少女と共通するし、それもデル・トロの内面に元々住んでいるキャラクターやと思う。だけどそのままでは、とうてい大尉やストリックランドには勝たれへんから、色々と設定上のお化粧が必要やったんやないかな。心の中に元々住んでいるキャラは、頭の中で作り出された部分が多いキャラよりも強い、というわけや」

恋「そういえば、『パンズ・ラビリンス』の主人公の少女は、イライザを演じるサリー・ホーキンスとどことなく雰囲気が似ていましたね。彼女が成長すればイライザっぽくなるのかも」

小「オレは『シェイプ・オブ・ウォーター』は『前向きの失敗作』やと思う。いつの日かデル・トロは、『今度こそファンタジーの力で現実を打ち負かす』ために、もう一度同じモチーフの作品作りに挑戦するんやないやろうか。宮崎駿作品もそうやと思うけど、作り手が何度も何度も同じテーマ・モチーフに挑戦し、挫折を繰り返しつつも作品を深化させていく様を見守り続ける。それも映画を観る大きな喜びのひとつであり、観る側の教養にもなっていくと思うんや」

INFORMATION

『シェイプ・オブ・ウォーター』

3月1日(木)全国ロードショー

http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/

(小石 輝)

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