三浦春馬のSNS炎上と演劇への「感染リスク」という烙印 舞台が復活する日は来るのか?

三浦春馬のSNS炎上と演劇への「感染リスク」という烙印 舞台が復活する日は来るのか?

ブロードウェイミュージカル、『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』主演の三浦春馬 ©?時事通信社

 2020年3月27日はある意味において、日本の戦後演劇の第一幕が降りた日だったのだと思う。僕は日生劇場で三浦春馬と生田絵梨花が主演するミュージカル、『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』の昼公演の入場列に並んでいた。

 並ぶ、と言っても観客と観客の距離は慎重に空けられ、ロビーでは観客の体温を計測する機器がスピードガンのように入場者に向けられていた。観客の全員がアルコール消毒液で入場前に手の消毒を求められたが、それに不満を言うものはなかった。

■突然の“千秋楽”アナウンス

 その公演は本来、東京から始まり富山・福岡・愛知・大阪を回るツアー、長いロングラン公演の序盤の一公演にすぎないはずだった。だが僕が激しい競争の末にどうにか手に入れることができた金曜日の昼のチケットは、その前日に東京公演の千秋楽に変わることが突然アナウンスされた。

 その前々日、3月25日に小池百合子東京都知事は他4県の知事と連携し、「このまま行けばロックダウン(都市封鎖)を招く、今週末には不要不急の外出の自粛を」というメディア向けアナウンスを打ち出した。そのたった1日前、3月24日に東京五輪の延期が発表されるまでの作られた楽観ムードとはまるで一変した、仮面を脱ぎ捨てたように強い「要請」だった。

 メディアも一斉にそれにならい、「三連休で国民の気が緩んだ、このままでは大変なことになる」と、五輪延期まではなぜかほとんど言及のなかった都市封鎖、緊急事態の可能性がほのめかされた。

■「感染症のリスク」という烙印を押された演劇

 それは日生劇場だけで起きたことではなかった。関西の宝塚から下北沢の小劇場まで、あらゆる演劇公演が次々と公演自粛に追い込まれた。サラリーマン社会を支える満員電車がそのまま継続する一方、「週末」「夜」「不要不急」に属すると見なされた業種や文化が自粛要請の標的となった。「感染が広がったらどうする気だ」「人殺し」というSNSの非難は、平日に都心に向け出勤する膨大な駅の人波の矛盾を埋め合わせるように、企業社会からはみ出した自営業者や演劇人たちに向けられた。

 そのたった2ヶ月前まで、演劇の未来は輝いているように思えた。のん、能年玲奈や草g剛と言った地上波テレビから遠ざかった、しかし才能ある役者たちが舞台に立ち、また阿部サダヲや宮藤官九郎という小劇場出身の才能が大河ドラマに上り詰めた。新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』では伝統芸能と漫画文化が融合した新しい表現が生まれ、2・5次元と呼ばれるアニメやゲーム原作の舞台が圧倒的な興行力を見せていた。

 だがその未来は、新しい感染症によって瞬く間に変わってしまった。生きた人間が声の限りに舞台の上でエネルギーをぶつける演劇の醍醐味は、そのまま感染症のリスクとして致命的な烙印を押された。演劇は一転して「人を殺すもの」として社会から指弾される存在となっていた。

■3月27日の日生劇場はというと……

 2020年3月27日、日生劇場で上演された『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』の公演は、実を言えば満席ではなかった。先行予約から落選が続発し、当日券の電話回線がパンクして繋がらないほどの人気公演にいくぶんの空席があった理由は、感染を警戒してチケットをキャンセルした観客の存在、そして恐らくはそのキャンセル分を再度当日券に回すことを避け、少しでも劇場の密度を下げて安全性を保とうとする公演側の配慮を感じさせた。

 三浦春馬や生田絵梨花をはじめとするキャストたちの演技には、本来なら2ヶ月数十公演を演じるはずだったエネルギーをたった8日で終わる公演に燃やし尽くそうとするような切迫感が満ちていた。

 おそらく彼らは、この状況で一度幕が降りてしまえば、東京公演だけではなく地方公演までも上演が困難になること、この日がこの舞台を演じる最後の日になる可能性が高いことを予感していたのではないかと思う。そして実際に、『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』は二度とその幕を開けることなく、全公演がキャンセルとなったのだ。

■生田絵梨花の大きな転機となったであろう舞台

 乃木坂46に所属する生田絵梨花は、10歳から音楽と舞台に魅了され、多くのキャリアを積んできた女優だ。『ロミオ&ジュリエット』『モーツァルト!』『レ・ミゼラブル』などの大舞台を重ね、2018年度の菊田一夫演劇賞を受賞した彼女は、時にその生真面目さと受けた教育の厳格さを映すように、あまりに正しく、教科書通りに演じすぎると観客に評されることもあった。

 だがこの舞台でスワローを演じた生田絵梨花には、アメリカの信仰篤い田舎町で育ったヒロインの抑圧と葛藤を表現する情熱と能動性が溢れていた。『キャッツ』『オペラ座の怪人』を生み出したアンドリュー・ロイド=ウェバーらによって、生田絵梨花が生まれる1年前に作られた名高いウエストエンドのミュージカルは、まるでこの日の彼女のために当て書きされたように役と演者の魂がシンクロしていた。

 それは日本を代表する演出家の一人である白井晃の手腕なのかもしれない。あるいは、昨年に生田絵梨花が演じた舞台、『キレイ』からずっと彼女の中で起きはじめた化学変化が花開く瞬間だったのかもしれない。「もっと野性的に、猫のように動いて」と『キレイ』の演出家松尾スズキに求められ、私生活でも形を崩して座ってみた、と語る生田絵梨花の演じるスワローには、「こう演じなくてはならない」という100点満点の責任感を、「こう演じたい、演じてみたい」というしなやかな情熱と欲望が半歩だけ追い越すような瞬間があった。

 それは昨年「演技については永遠に悩むのだと思う」とインタビューで語った彼女に訪れた変化と飛躍の季節であり、全公演を演じていれば、おそらくは女優として生田絵梨花の代表作と呼ばれ、大きな転機となるはずの舞台だった。だがその舞台は、たった8日間11公演、限られた観客の前のみで幕を閉じた。

■舞台の公式アカウントには公演を批判する書き込み

「ザ・マン」、ただ「その男」と劇中で呼ばれる主人公を演じた三浦春馬は、この戯曲のテーマと同じように、社会の中の鋭い視線の中で主演を務めることになった。自粛要請から休校要請の解除が語られ始めた時期に他の舞台と歩調を合わせてこの舞台が幕を開けた時、SNSの舞台の公式アカウントには公演を非難する書き込みが相次いだ。

 信仰心の強い田舎町に流れてきた謎の男は脱獄した殺人犯なのか、それとも少女スワローが信じるようにキリストなのか、という『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』のテーマは、「演劇は人を救うものか、それとも人を殺すものか」という問いかけとして舞台に投げ返されているように見えた。

 演劇はこの国に戻ってくるのだろうか。時が経つにつれ、この新型感染症は最初に多くの人が考えていたような、夏になり暖かくなればインフルエンザのように収束するものではないということが明らかになりつつある。

 感染拡大による自粛要請だけでなく、ロックダウンがもたらす巨大な経済的被害や、それなりに経済的利益で繋がっていた米中という超大国がなりふり構わず互いを非難しあう国際的断絶が始まっている。世界はもう元に戻れないかもしれない。国家の強い統制と、貧富の差に分断される新しい世界に演劇の戻ってくる場所があるのか、誰もまだ答えることができない。

■年明けに三浦春馬が経験したSNS上の炎上

 主演の三浦春馬はこの新型感染症が本格化する前、1月に小さなSNS炎上を経験した。


「どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか…」というTwitterの書き込みは、ある人々には既婚俳優のスキャンダルを擁護していると捉えられたが、別の人々には「国力」というその言葉選びから、彼が与党の政権スキャンダルを擁護しているのではないか、彼は「右派」なのではないかという解釈も生んだ。

 その後、新感染症の拡大にともない政治的な分断は激しさを増していく。三浦春馬はSNS上ではそれ以上の説明を重ねず、真意は今もわからない。あるいは彼の中にはある種の「愛国的」な感情があるのかもしれない。だが、僕があの日に日生劇場で見た三浦春馬は、国家の自粛要請が生み出す「早く公演を中止しろ」「そもそも幕を開けるべきではなかった」という世論の風に反する形で舞台に立っていた。

 終演後のカーテンコールで主演として観客に公演の打ち切りを説明する彼の言葉には、少しでも不用意な発言をすれば「公衆衛生に反した」と公演そのものが指弾されかねない、鋭い刃の上を歩くような緊張感があった。それは映画『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』で米国の象徴的ヒーローであるキャプテン・アメリカがパブリックエネミーとして社会から追われ、安全との矛盾の間で自由の側に立つ姿を僕に思い起こさせた。

 カーテンコールでキャスト一人一人に気を配り、小学生の子役にまで「君はこの昼公演が東京のラストになってしまったから」と挨拶の場を与えようと心を砕く三浦春馬が、この国の中枢部で、自粛要請で困窮する貧困層の問題に冷たく他人事のような答えを返す人々と同じ側にいるようには思えなかった。

 その後4月に出版されたエッセイ集「日本製」の中で47都道府県を回り、沖縄で伝統芸能に、福島で農業復興への試みに、広島で『ヒロシマを語り継ぐ教師の会』から被爆の記憶と反戦の思いに耳を傾ける三浦春馬は、かき消される小さな声を聴き取ろうとする繊細で生真面目な青年に見えた。

■舞台や大衆が生田絵梨花にもたらしたもの

 あるいはそれは僕の願望にすぎないのかもしれない。舞台『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド』で、少女スワローが三浦春馬演じる「その男」をキリストだと信じようとするように、分断する世界の中で、演劇という文化が富裕層の膝の上で遊ぶ愛玩犬ではなく、「人々の側」にいてほしいという期待なのかもしれない。

 名高い音楽プロデューサーを遠戚に持つ生田絵梨花はドイツのデュッセルドルフに生まれ、中学3年生の時にグランドピアノを買い与えられ、自宅の防音室で練習を許された。経済的に分類するなら紛れもなく富裕層の階層に生まれた彼女は、本来なら大衆と交わらない道を歩いていたのかもしれない。

 しかし彼女は15歳から所属したアイドルグループで、出会うはずのない多くの他者と出会った。弟の学費を稼ぐために芸能界に入り、目的を果たすと引退し二度と戻らなかった友人や、外国籍の母を持ち小学校から不登校を経験した仲間、そして『レ・ミゼラブル』で演じたコゼットや『キレイ』で演じた暗い地下室で忌まわしい記憶と共に育った少女ケガレの魂、そうした他者との交わりは生田絵梨花に何をもたらしたのだろうか。

 ウイルスが単純に宿主を殺すだけの存在ではなく、時には生命情報を変え、進化に影響を与えるという仮説のように、成長の季節を迎えた生田絵梨花の声と演技に、僕はその変化の向こうにある彼女の魂について考えていた。

■いつか来る演劇文化の「復活の日」

 この状況下で演劇を守ろう、とする試みも始まっている。4月24日には演劇プロデューサーの松田誠氏により、舞台専門プラットフォーム『シアターコンプレックス』が立ち上がった。舞台公演の映像配信や今後の舞台のライブ配信、独自番組の制作によって演劇界を支援しようというプロジェクトで、5月1日からクラウドファンディングも開始される。それはいつか来る演劇文化の『復活の日』に向けた生存戦略のひとつだ。

 あの3月27日以来、東京近郊の劇場で大きな公演は行われていない。演劇がもう一度、この国に戻ってくる日のことを、『ホイッスル・ダウン・ザ・ウインド』最後の舞台の観劇以来、僕はずっと考えている。貧富の差に分断された社会に、生きた肉体を持つ役者たちがもう一度、自由と安全の矛盾の中で舞台に立つことができる日のことを。三浦春馬はあの日、最後の舞台挨拶で「この産業はとても血の通った仕事だと自負している」と語っていた。

 彼が演じたザ・マン、ただ「その男」と呼ばれる正体不明の男は、閉塞した田舎町で魂の救済を求める少女スワローに答えようとキリストを演じ始める。ウエストエンドでロングランを重ねた名作戯曲、罪人がキリストの代わりになる物語は、「演じる」という人類の古い行為そのものについての寓話であるように僕には思えた。

 三浦春馬や生田絵梨花たちが舞台に戻る日、変わってしまった新しい世界に演劇が戻り、この国に新しい舞台の第二幕が上がる日を僕は待っている。僕がこの国で見た最後の舞台、それでもあなたは殺人者ではなく人を救う存在になりえるはずだ、と「ザ・マン=その男」に訴えるスワロー、生田絵梨花の、演劇そのものに対する問いかけのような声を記憶の中で思い返しながら。

(CDB)

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