私のゲーム人生は『アートディンク』が作り上げた

私のゲーム人生は『アートディンク』が作り上げた

写真はイメージ ©?iStock.com

 好きなことを書いていいらしい。連載の仕事を頂戴していると、どうしても読者の顔がちらついてしまう。ましてや、文春オンラインとなればなおさらだ。芸能界から政治まで、世の中のちょっと変わったすごい話を最先端のかぶりつきで鈴なりになって見物したい、それでいて土俵には絶対に上がりたくないナイスミドルの男性を中心に読者が構成されているのが文春ブランド。

 そこにポップカルチャーや古いPCゲームの話を連載枠にもってくることなど禁忌中の禁忌。いまやこの世はオンライン媒体の天下であり、各メディアが読者数とPV数を巡ってしのぎを削っているところに、少数民族である我ら古き良きPCゲーマーの趣味の記事などきっと誰もクリックしてくれないに違いない。そう思って、こんな記事は本来絶対に文春には寄せないのである。

 だがお前ら聞いてくれ。私はPCゲームが好きなんだ。

■プログラムを打ち込む小学生の頃、そして『信長の野望(初代)』

 いまでも深夜、妻子が寝静まった後で仕事を終えてゲーミングPCに電源を入れsteamを立ち上げる時が最高の喜びだ。はるか37年前、小学生だった私が親父にせがんでPC-8001mkIIを買ってもらい、『マイコンベーシックマガジン』に掲載されているクソゲーのプログラムを打ち込んで、全然面白くないけど自分が苦労して打ち込んだゲームなのだから楽しいと自分を納得させながらも、N-80 BASICが貧弱なグラフィックでゲームの世界に連れて行ってくれるという興奮を呼び覚ましてくれる。

 技術は進歩して、ゲームもそれと共にどんどん表現力を強化していったのだが、ゲームが描き出す世界を自分の認識野に置き換えてのめり込むという作法はいまと変わらない。当時、光栄であった日吉の会社が紡ぎ出した『信長の野望(初代)』が私を戦国の世に誘(いざな)い、旧システムソフトが『大戦略II』を、T&Eソフトが『ハイドライド』『DAIVA(ディーヴァ)』シリーズを、潰れたスタークラフトは『MIGHT&MAGIC』や『PHANTASIE』を、ハミングバードソフトが『ラプラスの魔』や『ロードス島戦記』を、そしてハドソンが名作『サラダの国のトマト姫』を、そしてリバーヒルソフトが『琥珀色の遺言』を……。四半世紀以上のときを超えて、いまなお私の脳裏に鮮明にPCゲームの名作が蘇る。

 いまでも思い出す、クリスタルソフトの快作『夢幻の心臓II』で時を進めるリターンキーのうえに重しを置いたままダンジョンの中でパーティーを放置し自動戦闘を進めて経験値を稼ぐ技をやろうとして、友達の家に遊びに行って帰ってきてみたときにパーティーがなぜか全滅していた時の悲しさ。呆然とし、憮然とし、愕然とする、若き日の思い出がそこにはあるのだ。

■時代はパソコン通信からオンラインへ

 やがて時代はパソコン通信を超えてオンラインが当然の時代となり、元祖超傑作MMOとも言える『ウルティマ・オンライン(UO)』が登場するまで、スタンドアロンPCゲームは私の中ですべての人生の時間をぶっ込んでも惜しくない存在であり続けたのである。『UO』や『エバークエスト(EQ)』の話をし出すと10万字では語り尽くせないのでここでは触れない。

 一方、私が子どものころは、著作権が緩い時代であった。いや、緩いのではない、それが何たるかをまったく認識していなかったのである。

 渋谷にある「ゲームソフト貸し出し屋の『マックスロード』」という、いま思い返せばどう考えても適法性が怪しいでござると思える店に、学校や塾の帰りに毎週足を向けてはめぼしいゲームソフトを漁り、『WiZARD』や『File Master』を駆使してコピープロテクトを破って「いや、これは違法コピーではない、ゲームソフトのバックアップなのだ」と言い張り、中学生・高校生のときはコンピュータオタク野郎の集う「数学研究会」の先輩や同期、後輩と片っ端から買ってきたりどこかから調達してかき集めてきたゲームというゲームをやり倒した。

 広尾に住む先輩の家に「数学研究会の会合」と称して入り浸り「大戦略」対戦ばっかりやっていた。

 また、当時はまだ建て替え前の秋葉原ラジオ会館のうえのほうにNEC(昔は普通に日本電気だった)のショウルームがあり、PC-6601から高価だった98シリーズまで当時の新鋭機種が使い放題であった。そこに目を付けた我々は、後輩を連れて光栄『三國志』シリーズの多人数プレイに興じた。学校中のパソコン野郎の間では『三國志』と『信長の野望』『蒼き狼と白き牝鹿』は共通語となり、かの「オルド」がセックス子作りコマンドであることにも気づかないまま、ピュアにゲームを楽しんでいたのだ。

■『A列車で行こう』でアートディンクに出会う

 PCゲーマーのバイブルはやがてアスキー『月刊ログイン』へと移り、掲載されるゲーム広告を見ては「どんなゲームなのだろう」と胸を膨らませた。初代『WIZARDRY』、『Ultima III』などの洋ゲーも徐々に入り、スタークラフトも冴えていたが、まぶたが動く美少女のアートが鮮烈な印象をもたらした当時のスクウェア社が『Will』のあとに出した『クルーズチェイサー ブラスティ』は、最高の期待をもってリリースを待っていた子どもたちの財布に大きな痛手をもたらした。あと『ザ・スクリーマー』(創現)お前もだ。クソゲーを掴んではファルコムのゲームで口直しをする、の繰り返しだった。

 そんな私がアートディンクに出会ったのは名作『A列車で行こう』である。見た目はシンプルなパズルゲームのように見えて、いまでいうトレイン経営シミュレーターの骨格を備えている作品であり、中学生の私には衝撃であった。適切に施設を建設し、鉄道会社を経営しながら、ホワイトハウスからなぜか大陸の反対側にある大統領別邸まで大統領列車を線路でつないで送り込むという画期的なタイトルだ。テーマが渋すぎる。

 その後、実はこの「A列車で行こう」はジャズの名盤「Take the 'A' Train」(デューク・エリントン;1939年)のもじりであることを知り、私自身もジャズに興味と関心を持って、アメリカ遊学に行く動機にもなった。お陰でいまでも作業中に時折ジャズを聴く。

 アートディンクの作品は、高いゲーム性と素人お断りのハイブローなテーマが特徴だ。「こんなのPCゲーム好きしかやらんだろう」というようなゲームタイトルを躊躇なく出してくる。

■江戸時代が舞台の『天下御免』

 例えば『天下御免』。舞台は江戸時代。徳川幕府の治世のお陰で世は泰平を謳歌する中、プレイヤーは選択した商品を扱う貿易商・問屋としてこの時代の物流を担う。ちょうど大量輸送に適した千石船から、船足が早くタイムリーに輸送できる高速船へと移り行く豪華絢爛の江戸が面白い。

 ほかの商人との談合、取引の妨害なんでもあり、誰かから送られる刺客から身を護るために護衛の武士を雇ったり、より良い取引を求めてお奉行様のところへ伺い「山吹色のお菓子」を振る舞う。雇った番頭は仕事に慣れるとタメ口をきく増長ぶりを示し、あぶく銭ができると博打を打ちに行ったり、吉原に繰り出して遊女と戯れ、茶屋落ちする女性を身請けして愛人にする。そして最期は閻魔様の前に行き、どういう人生だったか関わった人による多数決で極楽浄土にいくか地獄に落ちるか決まる。欲望に忠実に生きていれば、ほぼ確実に地獄へ行くんだよ。

 私は素晴らしいゲームだと思うのだが一般的にこんなゲームがウケるわけねえだろ。

 なんだ、この日本のベンチャー界隈が騙してかき集めてきた出資金を盛大にばら撒いて女子アナや芸能人と合コンするような設定は。いまも昔もたいして変わらんじゃないか。

■私が愛した、生産性などないのPCゲーム『THE ATLAS』

 さらには『THE ATLAS』。舞台は大航海時代。ポルトガル王から勅命を受け、プレイヤーは船をしたて冒険者を雇って大海原へと派遣する。

 最初は誰もが知るヨーロッパ・イベリア半島なのだが、毎回自動生成される不思議な世界地図は、冒険者から「こんな場所がありました」という報告を受けるたびに信じる・信じないの選択をし、どんどん未知の領域が象のいる地域になったり、タバコの産地だったり、原住民の町があったりする。そこに貿易船を送り込み、交易をしながらカネを貯めては冒険に船を出し世界の秘密を解き明かしていくのである。そして、たまに見つかるムー大陸。いい加減にしろ。

 最初から最後まで、わき目も振らずにすべてのゲームの行為そのものが作業。作業の連続。作業作業作業。これもう貿易管理という仕事のゲームだよね。作業以外の要素ゼロという壮大な割り切りと大航海時代という激しくそそられるロマンの間で、クソゲーとも何とも言えぬ微妙過ぎるゲーム感覚がそこに広がっているのである。

 私は素晴らしいゲームだと思うのだが一般的にこんなゲームがウケるわけねえだろ。

 なんだ、この怖ろしいほど大量の作業を伴う、それていて中毒性も特になく、貿易管理も面倒くさく、カネが溜まり次第次々と船を仕立てて冒険者を雇って海に送り出すだけのゲームは。

 だがそれがいい。いいのである。これが私の愛したPCゲームなのだ。生産性など始めからないし、ゲームが紡ぎ出す架空の世界に没入してナンボのゲーム群。『栄冠は君に』はクソダルく、遅く、自動でやるとみんなバントしてしまう高校野球の世界で見事に駄目高校の監督とはどういう仕事かという没入を示した。

■『トキオ〜』『関ケ原』『地球防衛軍』『天下統一II』

『トキオ 〜東京都第24区〜』ではクズしか住んでいない宇宙にある東京都の24個めの特別区の駄目区長という立場から「転んでも泣かない」などの条例を次々と定めて没入を強いる。

『関ケ原』では、ヤバい狸の徳川家康と茶坊主の石田三成が織り成す天下分け目の戦いで諸国大名に空手形を切ったり脅したりうまいことやって西軍か東軍の陣営に引き込んで多数派を作り、最終決戦である関ケ原でどれだけ有利な大名や兵力を揃えられたかでほとんどすべてが決まるという陣営ヘッドに没入を求める。

 私は素晴らしいゲームだと思うのだが一般的にこんなゲームがウケるわけねえだろ。

『地球防衛軍』にいたっては簡単なプログラムをプレイヤー自らが組んで、それを搭載した戦闘艇で迫りくる外敵を撃ち落とし撃退するという地味ゲーである。これはもう、アートディンクにプレイ時間を捧げた人しか納得してプレイしないよね。これでいいならシステムソフト『天下統一II』でいいじゃん。死ぬまで遊べるぞ。

■ここから本題、アートディンクの『ルナティックドーン』

 前置きはこのぐらいにして本題に入ると、そんなアートディンクの神回とはすなわち『ルナティックドーン 前途への道標』である。最高だ。

 伏線はある。まず、システムソフトが自動生成の架空世界で魔王を倒す的な壮大な実験作『ティル・ナ・ノーグ(初代)』がある。これはなかなか傑作であった。次回作は大いに期待されたが、続編は世界観のスケールは倍になったがゲームとしての完成度は半分になって失敗作に終わってしまったものの、自動でストーリーが組まれ、プレイヤーが自由に世界を構築できて魅力的な仲間と共に漫遊するという仕組みは非常に秀逸であった。

 その後、満を持して登場したのが『ルナティックドーン(初代)』である。こちらも自動生成のマップで構成され、とにかく大容量のデータを使うゲームだということで高い期待を集めた意欲作だったが、ゲームという点ではとても遊べたものではなかった。何しろ、マップの端から端まで歩くのに8時間以上かかる。適当にランダムで作られた王国はどこも常に滅亡の危機に瀕していて、王子は王を裏切り、姫は必ずどこかに誘拐されていて、山という山は噴火していて、すべての酒場には闇の紳士が常駐しているのである。こんなファンタジーは嫌だ。

 そして、うっかり王国に踏み入りクエストでも受任しようものなら、容赦なく「さらわれた姫を救出して欲しい」とか言われるのである。初めて会った人に頼むべき仕事とはとても思えない。もっとこう、小さなクエストをいくつもこなして信頼関係ができてるとか、偉そうな魔物を倒した武勇伝を聞いて頼む気になったとか、そういう前振りがあってほしいのである。

■壮大すぎる世界に比べて……

 しかし『ルナティックドーン』の世界は容赦はしない。常に本番なのである。仕方なく王国の依頼を請け、怪物を倒し、ついに「さらわれた姫」を救出した。やったぞ母ちゃん。これでワイは英雄だ。その「姫」を連れて王国に凱旋してみると、いつの間にか頼んできていた王国は滅亡しており、そこには別の王国が建国されているのである。何それ。困惑を隠せない。どういうことなの。行き場のなくなった「姫」は、キャラクターの持ち物欄に記載されており、そのまま街の道具屋に「姫」を売り払って換金しましたとさ。めでたしめでたし。

 私は素晴らしいゲームだと思うのだが一般的にこんなゲームがウケるわけねえだろ。

 なんだ、壮大すぎる世界に比べて仕上がってない感じで破綻したゲームシステムは。この期待感と、ハードディスク容量と、世界を探検するのにかかった時間を返せ。そんな風に考えていた時期も俺にはありました。

 そんな『ルナティックドーン』シリーズの続編として出たのが『ルナティックドーンII』である。ここでルナティックドーンは驚異的な進化を遂げる。何故進化したのかというと、ちゃんとゲームになっているのである。面白い。おお、これぞファンタジーだ。マップは大幅に改められ、ポインティングで移動でき、仲間との信頼関係もリーズナブル、信頼を高めていくとやがて国王になるクエストが開かれる。やればできるじゃないかアートディンク。こういうのを待ってたよ。

■進化を続けた『ルナティックドーン』シリーズ

 そして、さらに『ルナティックドーン』シリーズの進化は続く。その続編にあたる『ルナティックドーン 開かれた前途』では、善悪、混沌と秩序各々に4つの国家があてはめられ、国家の勢力が道で繋がれた各都市に影響を与えている。

 プレイヤーに与えられているのは、限りない自由。国のために戦うもよし、街の道具屋や武器屋から商品を盗んで生計を立てるもよし。仲間を募って住民のためにダンジョンに巣食うモンスター退治に繰り出したり、重要アイテムを持つ人物を町の広場で見つけて盗んだり、暗殺したり。お尋ね者になって街に入ろうとしたら「いたぞ!!」と追いかけ回される。街にいるイモータルさんというボケた爺さんが実は神であって、彼から授けられるイベントを抜けると神エンドがあってみたり、あるいは地球のリセット装置を起動させると世界が破滅エンドになってしまったり。

 その最終形が、次回作になる『ルナティックドーン 前途への道標』なのですよ。広大なファンタジー世界。築き上げられた王国、人々の息づく街、そして得体のしれないモンスター。プレイヤーの行動は、ひたすらに『自由』。

 いまでいう、オープンワールド系ゲームと言われれば『Elder Scrolls』シリーズや『モンスターハンター ワールド』『グランドセフトオート』など数多あるけれど、本当の原型はここにすでに完成していたと思うんだ。綺麗な映像で美男美女がキャッキャウフフしながら世界を救うファイナルファンタジー的なRPGが王道だとするならば、私が愛した『ルナティックドーン』はファンタジーをより精密に実現しようとし、何度も失敗し、試行錯誤を繰り返しながら磨き上げられた一作。

 私は素晴らしいゲームだと思うのだが一般的にこんなゲームがウケるわけねえだろと思いながら、そのテーマは実はゲーム史の中でも語り継がれるジャンルの草分けとして評価されるべきだと思う。アートディンクももっと商売がうまかったなら、美麗なグラフィックで優れたゲームテーマで「一般的にこんなのウケねえだろ」と物好きに馬鹿にされながらも支持者の野太い声援で盛り上がったのに、と残念な気持ちになるのだ。

 PCゲームからのクリエイティブで言うならば、光栄の『信長の野望』や『三國志』シリーズがこぢんまりとナンバータイトルとして再生産される一方、埋もれて行ったシステムソフトやアートディンク、ハドソンといった残念ながら伸びなかった会社、惜しいタイトル、もったいないゲームテーマを思い返す。

 いやー。あのころはゲームが楽しかったなあ。いまでも楽しいけど。

(山本 一郎)

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