再びマウンドに戻ってくる日まで。私が岩隈久志を恨み続ける理由

再びマウンドに戻ってくる日まで。私が岩隈久志を恨み続ける理由

岩隈久志

 人間、生きていれば恥をかくこともある。だが、私が岩隈久志にかかされた恥は一生消えないだろう。

 気を持たせるのも無粋なので、あらかじめ言っておく。私の「逆恨み」である。自覚しながらいまだに根に持っているのだから、人間の遺恨はしぶといと実感する。

■超高校級右腕の前で「死ねなかった」無念

 今から21年前のことだ。私は無名の高校球児として最後の夏を迎えていた。私学ながらスポーツ推薦もなく、強豪とは呼べないレベル。それでも監督から常に「甲子園」を意識づけられ、強豪を慌てさせるだけの実力はついたと自負していた。

 夏の西東京大会4回戦で対戦する堀越には、プロ注目の本格派右腕・岩隈がいた。我々は岩隈が投げるであろう140キロ級のスピードを想定して、ピッチングマシンを通常時より前に出して打ち込んだ。

「よく練習した。お前たちなら、明日絶対に岩隈を打てるから!」

 試合前日のミーティングでコーチからねぎらわれ、私たちに怖いものはなかった。

 だが翌日、試合前に堀越のキャプテンとメンバー表の交換をした私は、愕然とした。堀越の先発メンバー表に岩隈の名前がない。つまり、温存されたのだ。

 ナメられてる。一刻も早く岩隈を引っ張り出してやる。意気込む私たちの前に広がっていたのは過酷な現実だった。1対11の5回コールド負け。私はしばらく野球を見るのも嫌になるほど立ち直れなかった。堀越が準決勝で日大三高にコールドで敗れたことは、新聞で知った。

 その後、岩隈はドラフト5位で近鉄に入団し、日本を代表する投手に君臨する。メジャーリーグでもノーヒットノーランをしてしまうような、世界的投手になった。一方の私は大学で野球を続けるだけの実力も度胸もなく、あまつさえ大学デビューにも失敗。落語研究会で堕落した日々を過ごした。

 岩隈の活躍はつぶさにチェックして、同世代として心から応援していた。だが、私には「岩隈と対戦できなかった」という恥ずかしさが、常につきまとっていた。

 日本ではアウトカウントを「1死」「2死」と、「死」という物騒な漢字を用いて表現する。岩隈が今の地位を築くまでには、彼の前に膨大な数の「死」があった。私は、その一体の屍(しかばね)にすらなれなかった。「有名選手との対戦経験を自慢げに語る」という野球部あるあるを、私はしたくてもできない。

 ずっと引きずり続けてきた私に岩隈との接触のチャンスが生まれたのは、2009年のことだった。当時、私は野球雑誌の編集者をしており、上司から東北楽天のエース・岩隈のインタビュー取材に同行するよう命じられたのだ。

 とはいえ、貴重なインタビュー時間を奪ってまで、「高校時代に対戦できなかった話」をされても本人は困るに違いない。夏の亡霊のごとく、野球界隈をふわふわと漂う私と違って、岩隈はスター街道を真っすぐに進んでいるのだ。気安く話しかけるようなことは絶対にするまいと心に誓った。

 岩隈の取材対応はとても丁寧だった。口数が多いわけではないが、ライターから掛けられる一つひとつの質問をしっかり受け止め、自分の言葉で返してくれる。「プロ野球選手はこうあってほしい」と思わせる、お手本のような対応だった。ライターの隣で話を聞きながら、「別世界の人なんだな」とあらためて感じていた。

 岩隈の協力的な姿勢もあり、インタビューは想定した時間よりも早く終わりそうだった。最後に数分残った段階で、ライターが私に「菊地さんからも何かありませんか?」と水を向けてくれた。私は「もう、困惑されてもいいや。言ってしまおう」と開き直ることにした。

■「ということは、堀越がナメていたという……」

「あの〜、ものすごく私事なんですが、実は僕、岩隈投手と同じ西東京で高校野球をやってまして。最後の夏は、岩隈さんの堀越に負けたんですよ」

 すると、今まで平静を保ち続けてきた岩隈は目を大きく見開き、口を半開きにしてこちらを見つめてきた。私は急に恥ずかしさに襲われ、おどけるように「でも、岩隈さんは投げなかったんですけどね」と続けた。

 岩隈は驚いたような表情のまま「じゃあ、同学年?」と聞いてきた。私がうなずくと、岩隈は「じゃあ中学はシニアか何かでやってきたの?」「高校はどこ?」と畳みかけるように質問を浴びせてきた。先ほどまでの丁寧な口調とはうって変わって、「タメ口」になっていた。

 私が母校の名前を告げると、岩隈は「はいはい……」とうなずいてから少し考え込み、こう尋ねてきた。

「球場は……立川?」

 たしかに堀越との試合会場は市営立川球場だった。地面からの照り返しのきつい、暑い日だった。当然、自分の高校野球最後の舞台は記憶しているものの、まさか岩隈が覚えているとは思ってもみず、私は狼狽した。

「その日は僕が投げなくて、Y(当時の堀越の2番手投手)が一日投げた試合だ」

 おぼろげだった岩隈の記憶にみるみるうちに色彩が戻っていくことを感じて、私は「そうです、そうです!」と興奮しながら相槌を打っていた。ただ対戦できなかっただけの話なのに、岩隈が前のめりになって、「同級生」として話してくれるのがうれしかった。すると、岩隈はいたずらっ子のように笑って、こう言った。

「ということは、堀越がナメていたという……」

 一座に笑いが広がった。書き起こしてみると「それを本人の前で言うか」という内容だが、私からすると遠慮なく笑いに変えてくれたことがうれしかった。調子に乗った私は、岩隈に打ち明けた。

「でも僕ら、岩隈さんを打つために、マシンを前に出して打ったりして、すごく対策を練ったんですよ」

 今度は岩隈が手を叩いて笑う番だった。「そうかぁ。そうしたら、僕が投げなかった」と言う岩隈に、私は畳みかけるように「そう、だからみんなで『オイ、岩隈投げねえのかよ!』って。弱い僕らが悪いんですけど」と続けた。

 普段は取材対象者と一定の距離を取るスタンスでもあり、セリフめかした言葉とはいえ「岩隈」と呼び捨てにすることはためらいもあった。だが、今この空間にいるのは「取材対象の岩隈」ではない。「同級生の岩隈」だった。

「いや〜、なつかしいなぁ……」

 そう漏らした岩隈に、私は「はい。僕も今日は10年分の恨み言を言えてよかったです」と返す。岩隈は前にもまして、大きなリアクションで笑ってくれた。

 私はそんな岩隈を見ながら、不意に勝手な使命感に襲われた。いま、このことを言わなきゃいけない。思うより先に、口が動いていた。

「岩隈さんは僕ら同じ年に西東京でプレーしていた者にとっては、誇りなんです」

 すると、岩隈の顔からは緩やかに笑みが引き、口元がわずかに締まったように見えた。

「いやいや……。でも、頑張っていかなきゃいけないですね。河内もいるし」

 河内とは、岩隈と同期入団で当時広島に所属していた河内貴哉のことだ。國學院久我山時代の河内は、ドラフト会議で3球団から重複1位指名を受けた大物だった。

 夢をつかめなかった俺たちの分まで……。そんな青臭い言葉は恥ずかしすぎて言えなかった。だが、岩隈には十分に伝わったように思えた。タイムリミットがきていたため、最後に岩隈に握手をしてもらった。繊細なイメージのある岩隈の手は想像以上に皮が厚く、たくましい質感だった。岩隈はこの手で歴戦の強打者を殺してきたのだ。

 この出来事から、11年の時が経った。

 岩隈はマリナーズに所属した2017年に右肩痛を発症して勝ち星なしに終わり、翌年もMLB登板を果たせず退団。2019年から巨人に移籍したが、昨季の1軍登板機会はなかった。河内は2015年に引退し、岩隈にも少しずつ「その時」は近づいてきている。

 とはいえ、今年の岩隈はブルペンで投球練習を重ねるなど、順調に調整を続けているようだ。新型コロナウイルスの影響で開幕が6月19日までズレ込んだことも、岩隈個人にとっては追い風になるかもしれない。

 11年前の岩隈との邂逅を機に、それまで私のなかにくすぶり続けていたみすぼらしい炎は小さくなった。だが、完全に消えることは一生ないだろう。むしろ、「岩隈を恨ませてほしい」というのが密かな願いなのだ。

 岩隈さんは僕ら同じ年に西東京でプレーしていた者にとっては、誇りなんです。

 偉大な投手の前で死ねなかった男としては、これからも恨み続けることがせめてものエールなのだ。

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(菊地選手)

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