忘れられた「お笑い第2世代」 60歳山田邦子はテレビから“消えて”何をしていたか?

忘れられた「お笑い第2世代」 60歳山田邦子はテレビから“消えて”何をしていたか?

6月13日に60歳の誕生日を迎えた山田邦子

 日本テレビ系『笑点』では前半、落語や漫才、コントなどジャンルを問わず、芸人がネタを披露する演芸コーナーが設けられている。このコーナーに今年1月、山田邦子が芸歴40年にして初めて出演した。そこでは、まずバスガイドに扮して「右手をご覧くださいませ、一番高いのが中指でございます」というデビュー当時のギャグでジャブをかましたかと思えば、さらには中村玉緒、天龍源一郎、瀬川瑛子など話が聴き取りにくい人のモノマネで昔話「桃太郎」を語るなど、いくつかのネタを畳みかけるように披露する。その間とテンポのよさは、芸人として健在ぶりをうかがわせるに十分だった。その山田はきょう6月13日、60歳の誕生日を迎えた。

■“お嬢様学校の優等生”が芸人デビューするまで

 1960年、東京に生まれた山田は、学校では優等生で通し、小学3年から短大2年まで級長を務めたという(※1)。中学から短大はお嬢様学校として知られた川村学園に在籍する。お笑いを始めたのは短大時代、親友と早稲田大学の寄席演芸研究会に入ったときだった。研究会主催の落語会で漫才を演じるとすぐに人気を集め、テレビへの出演依頼が来るようになる。だが、相方だった親友には断られ、ピンで出演した。彼女としても当初はテレビ出演はあくまでバイト感覚で、短大卒業前には父の知り合いの会社に就職も内定していた。それが前後していくつかの芸能事務所からスカウトを受け、デビューの方向で話がどんどん進んでいく。ついにはドラマのレギュラーが決まり、収録は1週間に4日はかかると知って、就職をとりやめた(※2)。

 こうして1981年、山田はドラマ『野々村病院物語』(TBS系)で芸能界にデビューする。同年にはフジテレビでバラエティ『オレたちひょうきん族』がスタート。女芸人で同番組に初期から1989年の終了まで出演を続けたのは彼女ぐらいだろう。そもそも女性のピン芸人からして珍しい時代だった。男だらけの番組にあって、女を捨てて下ネタをやることも少なくなかった。1985年には坊主頭にして驚かせる。いまならファッションとして世間にもすんなり受け入れられそうだが、当時としてはさすがに突飛すぎた。それでも本人は、坊主にした理由を訊かれ、肩まであった髪を手入れするのが面倒臭くなっちゃってと、あっけらかんと答えている(※3)。どこか醒めたところのあった彼女を、『ひょうきん族』で共演していた事務所(太田プロダクション)の先輩のビートたけしは当時、《神経質な人みたいだね。頭も悪くないし、開き直って芸するってことを自覚してる人だ》と評していたという(※1)。

■見落とされた“お笑い第2世代”

『ひょうきん族』の終了から間を置かずして1989年10月には、同じくフジテレビで冠番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(『やまかつTV』)がスタートする。このころから90年代にかけては、『やまかつTV』のほか『MOGITATE!バナナ大使』(TBS系)など多くのテレビ番組でメインを務め、女性タレントとして頂点をきわめた。前年の1988年には、NHKの「好きなタレント調査」で初めて女性タレント1位となり、以来8年連続でトップに立ち続ける。1990年に30歳を迎えたときには、『やまかつTV』で、誕生日が同じ森口博子(当時、バラエティもできるアイドル=「バラドル」として人気を集めていた)とともにレギュラー陣から盛大に祝われていたのを思い出す。

 お笑いの歴史において80年代末から90年代初めというと、マンザイブームの産物である『ひょうきん族』が終わり、とんねるず、ダウンタウンやウッチャンナンチャンらいわゆる「お笑い第3世代」の台頭した時代として語られる。だが、一方で、この時代が山田邦子(お笑い史では「第2世代」に位置づけられる)の全盛期だったという事実は、見落とされがちな気がする。いまにして振り返れば『やまかつTV』は、コントだけでなく音楽やドラマなども盛り込んだ、字義どおりのバラエティで、テレビ史的にもきわめて重要な番組だと思う。

■「愛は勝つ」「それが大事」「さよならだけどさよならじゃない」……

 音楽の面では、KANの「愛は勝つ」、川村かおり(のちカオリ)の「神様が降りて来る夜」、大事MANブラザーズバンドの「それが大事」など、主題歌や番組内の連続ドラマで使われた曲があいついでヒットしている。このうち「愛は勝つ」は、KANのアルバム『野球選手が夢だった』から1990年9月にシングルカットされ、この番組で流されたあたりから徐々に人気を集めた。翌年末には日本レコード大賞も受賞する。

 番組からはユニットも続々と生まれた。山田をメインボーカルとして、サックスにMALTA、ドラムに村上“ポンタ”秀一、ベースに伊藤広規、ギターに原田喧太、そしてバックボーカルとパーカッションには永井真理子と豪華メンバーを集めた「やまだかつてないバンド」に始まり、山田が当時の人気アイドルデュオWINKのモノマネをするにあたっては、一般から相方を募集してオーディションも行なわれた。こうして選ばれた広島の高校生・横山知枝と「やまだかつてないWINK」が結成される。1991年2月には、KANが作曲、山田が作詞したやまかつWINKによる卒業ソング「さよならだけどさよならじゃない」、さらに翌月には番組の使用楽曲を収めたアルバム『やまだかつてないCD』がリリースされ、いずれもヒットした。同アルバムを企画した番組プロデューサーの小畑芳和は、《視聴者に『この曲、いいと思わない?』と提案するような形で音楽を取りあげてきました》と語っている(※4)。ちょうどこのころ、『やまかつTV』の前番組であった『夜のヒットスタジオDELUXE』のほか、『ザ・ベストテン』や『歌のトップテン』といった各局で長らく続いた歌番組が軒並み終了していた。『やまかつTV』はその穴を埋める役目も担ったともいえる。

 番組内のドラマは、劇団「自転車キンクリート」の劇作家・演出家だった飯島早苗と鈴木裕美などが脚本を担当し、当時の若手俳優が多数出演した。1990年2月に始まった「十二単衣に着がえたら」では真木蔵人が登場し、さらにベテラン俳優でこれがバラエティ初出演となった高橋英樹などが脇を固めた。続く10月からの「タイムパトロール牛若丸子」では、江口洋介がレギュラーに加わった。これらはコメディタッチのドラマだが、他方で、笑い抜きのショートラブストーリー「贈り物シリーズ」には毎回、東山紀之、高嶋政宏、高嶋政伸、織田裕二、吉田栄作、阿部寛といった俳優がゲスト出演し、山田の相手役を務めている。当時流行っていたトレンディドラマを思わせるキャスティングだ。江口洋介もこのあと、『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』などに出演し、トレンディ俳優の代表と目されるようになった。

■「裸や暴力なんていう時代ではないと思います」

『やまかつTV』のレギュラーはこのほかにも、俳優の渡辺徹、お笑いの関根勤、所ジョージ、アイドルだった高岡早紀、西田ひかる、ミュージシャンの大江千里、振付師のラッキィ池田、ロサンゼルス五輪・体操の金メダリストである森末慎二、バレーボールからビーチバレーへと転向したばかりだった川合俊一などバラエティに富んでいた。出演者たちのファミリー的な雰囲気も人気の一因となったのだろう、視聴率は最高で20.4%を記録する。だが、他方で当時のテレビ誌では、小学生にウケるようなちょっとHだったり、暴力的な要素がないところに不安もあると評された。これに対しプロデューサーの小畑は、《裸や暴力なんていう時代ではないと思います。それがない時代は新鮮だったけれど、今の人はそんなモノ欲しがってないと思いますヨ》とまるで意に介さなかった(※5)。このあたり、最近よく言われる「誰も傷つけない笑い」を先取りしていたようにも思える。

『やまかつTV』において山田は自らアイデアを出し、絵コンテまで描いて、収録は深夜どころか朝まで続くこともしばしばだったが、けっして弱音は吐かなかったという。《毎週皆で何か面白いことをやろうよ、見たことのないものをやろうよって、アイデアを出し合って。歌って踊って、ネタやコントをやって。泣いたり笑ったり。思い出すと本当に楽しかったなあ》とは、番組終了から17年後の2009年、DVDがリリースされた際の彼女のコメントだ(※6)。

■テレビから“消えて”山田邦子が挑戦してきたもの

 もっとも、山田がテレビで頂点をきわめた時期は短かった。その後、90年代半ばを境にレギュラー番組が減っていくうち、手のひらを返したようにバッシングも受けた。それでも彼女は新たな挑戦を続ける。2000年代にはCS放送で、女性たちの性の悩みに答える番組『パーフェクト・H』(「・」は正しくはハートマーク)に出演した。テーマがテーマだけにオファーを受けた当初は迷ったが、女性スタッフから「悩んでる女性は多いのに、それに答えられるのは邦子さんしかいない」と言われては、引き受けるしかなかった。すでに結婚もして40歳もすぎ、《いまの山田邦子ならできるかなって決意しましたね》という(※1)。

 1960年、昭和35年生まれの彼女は、昔から5や10というキリのよい数字が好きだったという。40歳になった2000年には、結婚だけでなく、長年の夢だった舞台で座長デビューを果たし、合唱団への参加も始めた。同時期にはまた長唄の杵屋勝之弥に入門し、稽古を重ねた末に芸能生活40周年を迎えた昨年、名取となり「杵屋勝之邦」を襲名した。『笑点』で見せた、いまだ衰えない芸も、こうした元優等生らしい努力のたまものなのだろう。昨年にはまた、40周年記念舞台『山田邦子の門』も開催し、前後してデビュー以来所属してきた太田プロも退所している。さらに60歳を前に今年2月には、YouTubeに「山田邦子 クニチャンネル」を開設、芸能界の裏話などフリートークを中心に配信をスタートさせた。

 山田はデビューまもないころより、レコードもたびたび出してきた。当人は歌謡曲路線を志向していたにもかかわらず、プロデューサーに大瀧詠一や細野晴臣ら先鋭的なミュージシャンがついたため、「邦子のかわい子ぶりっ子」「哲学しよう」などラップの元祖のようなとんがった楽曲に挑戦するはめになる。これについて彼女は後年、《どうせやるからには「そうなんだ、これが新しいんだ」と思って、勉強だと思って当時は楽しくやりましたけど。……でも結局、誰か後からついて来た?(中略)だから孤独よ(笑)》と振り返った(※1)。音楽活動だけでなく、山田は女芸人としても、短大時代に親友から一緒にテレビに出るのを断られて以来、ひとりで道を切り拓いてきた。いまや女芸人と一口にいっても、そのあり方はじつに多彩だ。それもやはり、お笑いに軸足を置きつつ活動の幅を広げ続けてきた山田邦子の存在あってこそだろう。

※1 『ダカーポ』2002年9月4日号
※2 山田邦子『邦子の「しあわせ」哲学』(海竜社、2003年)
※3 『週刊朝日』1985年4月5日号
※4 『週刊明星』1991年5月2日号
※5 『ザテレビジョン』1990年2月16日号
※6 『女性自身』2009年11月24日号

(近藤 正高)

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