「だよねー」「そやなー」25年前、日本ヒップホップ初100万枚「DA.YO.NE」ブームとは何だったのか?

「だよねー」「そやなー」25年前、日本ヒップホップ初100万枚「DA.YO.NE」ブームとは何だったのか?

EAST END×YURIのYURI(左)とGAKU-MC

 1994年から翌年にかけて、日本のヒップホップシーンから初めて本格的なヒット曲が生まれた。それはまず、1994年3月にリリースされたスチャダラパーと小沢健二による「今夜はブギー・バック」であり、そして同年8月リリースのEAST END×YURIの「DA.YO.NE」である。いずれの曲も、ヒップホップグループと出身ジャンルの異なる者によるコラボレーションであり、また、いきなり売れたわけではなく、地方のFM局などでかかるうち、じわじわと人気に火がついた点でも共通する。「DA.YO.NE」にいたっては、もともとインディーズのレコード会社(ファイルレコード)から出した企画物のミニアルバム『denim-ed soul』(1994年6月発売)収録の1曲にすぎなかった。

■「『だよね』は売れそうだね」「おっ、だよね」

 EAST END×YURIは、ヒップホップグループ・EAST ENDと、アイドルグループ・東京パフォーマンスドール(TPD)のメンバーだった市井由理によるユニットである。EAST ENDは1990年、GAKU-MC・ROCK-Tee・YOGGYの3人により結成された。市井とは所属事務所の関係から親しくなった彼らは、1994年1月、TPDのライブで20分ほどのラップコーナーにゲスト出演する。それを観ていたファイルレコード社長の佐藤善雄の「おまえら良いから、コレやれよ」という一言をきっかけに、EAST END×YURIが誕生した(※1。市井は同年9月にTPDを卒業)。

 ラッツ&スターのメンバーでもある佐藤が設立したファイルレコードは、それまでにも多くのヒップホップアーティストの作品を世に送り出していたが、セールス的にはあまり芳しくなかった。何しろ日本語ラップはウケないと言われていた時代である。ファイル側は、EAST END×YURIの結成にあたり、これで売れなければ、ほかのアーティストからも手を引くつもりだったらしい。YOGGYによれば、《それ聞いて、『やらなきゃ』って思って。そこで今まで自分で思ってたものを否定する……否定まではいかないけど、すげえ普通の人に分かるようなものを作ろうって思って出来たのが〈DA.YO.NE〉だった》という(※2)。

 作詞したのはGAKU-MCと、EAST ENDとは同じヒップホップコミュニティ「FUNKY GRAMMAR UNIT」に所属する仲間だったRHYMESTERのMummy-D。サビには自分たちが普段使っている言葉を持ってこようと考え、最初は「なんだ、そりゃ」にしようと言っていたのが、《でも、「『なんだ、そりゃ』はちょっとなあ」「どうかな」「売れないでしょう」「だよね」(笑)「『だよね』は売れそうだね」「おっ、だよね」って感じで》決まったとか(※3)。

■北海道でブレイクからの「オリコン7位」

 ミニアルバムのリリースから2カ月後には、メジャーレーベルのEPICソニー(現エピックレコードジャパン)よりシングルカットされた「DA.YO.NE」だが、オリコンの週間シングルランキングでは初登場94位だった。

 それが年が明けた1995年冬、FMノースウェーブとタワーレコード札幌店のプッシュによりまず北海道でブレイク。以後、広島、九州、仙台……と地方から人気が広がっていった。2月にはオリコンで最高位となる7位に3週連続で入る。当初、売上目標を1万枚としていたが、結果的に日本のヒップホップ界では初のミリオンセラーとなった。途中2月にはROCK-Teeが方向性の違いにより脱退したものの、EAST END×YURIはその後も「MAICCA―まいっか―」(2月)、「いい感じ やな感じ」(4月)とシングルをあいついでリリース、6月21日には「DA.YO.NE」をはじめこれらヒット曲を収録したフルアルバム『denim-ed soul 2』も発売する。いまから25年前のきょうのことだ。

■「あの曲を越えるヒップホップ作品は、まだ我が国には存在していない」

「DA.YO.NE」は男女、それも恋人ではなく仲間同士での日常の何気ない会話を、日本語でラップに乗せたのが画期的だった。曲中に挟まれるセリフもすべて「ダヨネ」で返し、しかもそれぞれニュアンスが変わるところも面白い。この曲は音楽に造詣の深い人たちからも高く評価された。タモリは『笑っていいとも!』で、《ラジオで『DA.YO.NE』という曲を聴いたけど、あれいいよね。日本語への置き換え方が知的だ》というような言い方で褒めたという(※4)。ミュージシャンの近田春夫は、のち2003年の時点で《あの曲を越えるヒップホップ作品は、まだ我が国には存在していないともいえる。少なくとも中年以上の人が、ワンフレーズでもいいから口ずさめるアレ以外のものはないだろう》と書いた(※5)。それに続けての《あの曲の一番の価値は、日本語であることが、ちゃんとラップの面白さにつながっていた点である。語呂合わせ(ライミング)の都合で意味が判らなくなるようなこともなかったし、日本語の妙な便利さに対する批評的ともいえる構造も持っていた》との評は、自らもヒップホップバンド・ビブラストーンを率いた近田ならではであり、タモリの発言とも通じる。

 EAST ENDが所属した「FUNKY GRAMMAR UNIT」には、前出のRHYMESTERのほか、RIP SLYME、KICK THE CAN CREW、MELLOW YELLOWなどが集まり、「FG NIGHT」というクラブイベントを開催していた。RHYMESTERの宇多丸は、EAST ENDの「DA.YO.NE」によるブレイクを後年振り返って、《お客が全然いない中から一緒にやっていた仲間が、みるみる売れてしまっていったという。(中略)その現象の最初でしたね》と語っている(※4)。EAST END×YURIは、1995年暮れには、この曲をもってNHK紅白歌合戦にヒップホップグループでは初出場も果たした。

■「そやなー」「だべさー」「そーたい」

「DA.YO.NE」のヒットを受けて、各地方の方言バージョンも登場した。

 まず、大阪弁バージョンであるWEST END×YUKIの「SO.YA.NA」が1995年2月に発売されたのに続き、4月には北海道弁による「DA.BE.SA」(NORTH END×AYUMI)、東北弁による「DA.CHA.NE」(NORTH EAST×MAI)、名古屋弁による「DA.GA.NE」(CHUBU END×SATOMI)、広島弁による「HO.JA.NE」(OYSTER END×YUKA ※YUKAの「U」は上に「‐」がつく)、博多弁による「SO.TA.I」(SOUTH END×YUKA)が一斉にリリースされた。これはEPICソニーが企画し、同レーベルを擁するソニーミュージックの各地方の営業所が制作したもの。きっかけは社内の酒の席で、「大阪だったら『だよね』じゃなくて『そやな』って言うんだろうな」という話になったことだった。ここからまず『SO.YA.NA』がつくられ、その出来がよかったので、さらに各地方へと企画が広がったという(※6)。

■博多華丸もサンド伊達の妻も熱唱していた

「SO.YA.NA」を歌うWEST ENDは当時全国区になりつつあった今田耕司と東野幸治、YUKIは大阪パフォーマンスドールのメンバーだった武内由紀子である。そのほかのバージョンも、各地で若者に人気のあったタレントなどがユニットを組んで収録された。北海道のNORTH END×AYUMIは、地元の劇団「OOPARTS」の鈴井貴之・伝野隆介・伊藤亜由美によるユニット。鈴井と伊藤はすでに事務所・CREATIVE OFFICE CUEを設立しており、やがて大泉洋らTEAM NACSの面々を売り出すことになる。東北のNORTH EAST×MAIは、当時、岩手めんこいテレビのアナウンサーだった横山義則と熊谷麻衣子、青森の弘前出身の“高橋君”によって組まれた。熊谷はのちにフリーに転じ、サンドウィッチマンの伊達みきおと結婚している。

 名古屋のCHUBU END×SATOMIは、CBCテレビの情報番組『ミックスパイください』に出演していた地元タレントの鉄崎幹人・戸井康成・原田さとみによって組まれた。ユニット名に地元名産の牡蠣を冠した広島のOYSTER END×YUKAは、元広島県職員でクラブDJの中村道生と、当時RCCラジオの番組の学生スタッフだった三浦優佳によるコンビ。さらに福岡のSOUTH END×YUKAは、福岡吉本の芸人・鶴屋華丸とおタコ・プー、地元出身ですでに東京で雑誌モデルとして活動していた板谷由夏がメンバーだった。鶴屋華丸は現在の博多華丸で、おタコ・プー(現在はおたこぷー)もその後プー&ムーというコンビで東京に進出している。板谷も現在、女優として活躍しているのは周知のとおり。

 いわゆる方言萌えやゆるキャラ、B級グルメなど、後年、地方文化がさまざまな形で注目されていったことを思えば、この企画には先見の明も感じる。ヒップホップはそもそも地元意識の強い音楽だから、こうした展開はきわめて正当だろう。

 本家のEAST END×YURIは、その後1997年に市井由理がソロデビューアルバム『JOYHOLIC』をリリースしたのを機に実質的に活動を終了した。EAST END自体もしばらく活動休止を経て、2003年、一旦は脱退したROCK-Teeも含めオリジナルメンバー3人が再結集し、シングル「ココロエ」、アルバム『Beginning of the Endless』をリリースした。同アルバムには「DAYONE(デイワン)」という曲も収録され、そのタイトルや「残った人生の日の今日が最初の日」といったリリックからは、これまでのことを一度リセットして再スタートを切ろうという彼らの決意がうかがえる。

■市井由理、2017年の「ダヨネ」

 市井ものちに留学するなどしばらく表立った活動はなかったが、2017年、メンバー全員が10代というヒップホップグループ・MAGiC BOYZのアルバム『第一次成長期〜Baby to Boy〜』「コラボしてたの!?盤」の1曲「パーリーしようよ」に参加している。MAGiC BOYZは“新たな道を切り開いた先輩”として市井にコラボをオファーしたという(※7)。楽曲は彼女の希望により、EAST END×YURI時代からの知り合いであるRIP SLYMEのPESがプロデュースし、曲中には「ダヨネ」のフレーズも登場した。

 EAST ENDに続き、先にあげた仲間のラッパーたちもあいついでブレイクし、ヒップホップは日本に浸透していった。最近ではラップバトルが流行し、才能ある若手も次々と台頭している。「DA.YO.NE」のヒットから25年が経った今年、GAKU-MCはあるニュースサイトのインタビューに応え、こうした現状について《とにかくうれしく思う。自分たちのやり方でどんどん走ってほしい》と期待を寄せた(※8)。かつて日本のラップは売れないと言われていたのを、自分たちなりのやり方を見つけて打開していった彼だからこその言葉だろう。

※1 EAST END HOT NEWS「EAST END STORY」
※2 『音楽と人』2003年10月号
※3 『週刊プレイボーイ』1995年4月11日号
※4 宇多丸・高橋芳朗・DJ YANATAKE・渡辺志保著、NHK-FM「今日は一日“RAP”三昧」制作班編『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』(NHK出版、2018年)
※5 『週刊文春』2003年9月18日号
※6 『FLASH』1995年5月9・16日号
※7 「音楽ナタリー」2017年8月14日配信
※8 「ORICON MUSIC」2020年4月24日配信

(近藤 正高)

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