そんなに苦労されるだけの対象じゃないですョ……暴力団の親分が記者に明かした本心とは

そんなに苦労されるだけの対象じゃないですョ……暴力団の親分が記者に明かした本心とは

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 新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「 潜入ルポ ヤクザの修羅場 」(文春新書)から一部を抜粋する。

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■住吉会の「親戚」

 住吉会の人脈を広げてくれたのは、私と同じ鈴木姓の親分だった。この人はどこでも、「おい親戚、元気でやってるか」と声を掛けてくれ、実際にあちこちの親分を紹介してくれた。この関係がヤクザ社会に入国するためのパスポートとなった。今の私があるのはこの人のおかげである。

 そのうち自宅に呼ばれるようになった。家には必ずカレーが用意されていた。医食同源の見地から、完全食としてのカレーが常備されているのだ。

 自宅には暴力団の力を利用しようとする人間たちが毎日のように訪れていた。会社役員、芸能人、政治家、詐欺師、金貸し、事件屋(他人のもめごとや争いごとに介入し、金銭的利益をあげる裏稼業)など、魑魅魍魎のオンパレードである。人懐っこい性格で、空港で路頭に迷っていた外国人を拾い、あれこれ世話をしたり、ジョギング中に出会ったホームレスと仲良くなったこともあった。こうした行為が好奇心からなのか、悪事をしている自覚が生み出す贖罪なのか、その点は判然としない。

■芸能人が参加する暴力団親分の葬儀

 銀座を勢力範囲とする人だったので、4丁目の交差点で寝ころんで写真を撮り、黒山の人だかりになってしまったこともあった。あちこち食事にも連れていってくれた。こんなときは大抵、芸能人が一緒だった。この親分も最後は、自宅で自殺している。深刻なトラブルの責任をとったためで、生前の交流の幅広さからは考えられないほど静かな葬儀だった。

 このとき、一人の芸能人が葬儀に参列していた。黒い交際と騒ぎたいわけではない。そんなもの、どこにでもざらにあって、いちいち指摘するのも馬鹿らしい。私が言いたいのは、この芸能人の義理堅さに感動した、ということだ。

 どれだけの大幹部であっても、暴力団の生存基盤はもろい。暴力団たちはちょっとした不始末で築き上げてきたすべてを失ってしまう。力を失った途端、多くの取り巻きが離れていく。そのなかで葬儀に参列までするのだから、芸能人にしては珍しいと感じたのだ。

■ヤクザを殺すために必要な「紙」

 トップをのぞいて、ヤクザを殺すのに刃物はいらない。たった一枚の絶縁状で事足りる。末端の若い組員なら、偽名を使って他団体に潜り込むこともできるが、それなりに知名度があるとそうはいかない。たとえ建前であっても、それは政治的闘争に利用されるだけの効力を持っている。その認識をおおざっぱに共有することで、暴力団たちは新興団体の成立を拒んでいる。

 芸能界と暴力団のつながりはいまも続いている。売れなくなった芸能人のタニマチとして、演歌歌手の興行主として、あちこちでその姿を見かける。相撲界にせよ、いまさらなにを大騒ぎしているのか、と不思議でならない。

■稲川会総長からの手紙

 友達の友達は友達だ――。

 その論理で取材先はどんどん増えていった。稲川会という大組織でも、とっかかりになった組長を媒介として取材先が増えていった。楽しかった記憶しかない。稲川会のある総長からもらった手紙はいまも机の前に貼ってある。

「鈴木さんのヤクザに対する計りをどこに置くか、そしてヤクザに対する理解を読者にどう伝えたいか、ヤクザの本音をどう引き出すか。ワープロに向かって苦労されていると思いますが、そんなに苦労されるだけの対象じゃないですョ! 昔から『ヤクザは利口でできない、馬鹿でも出来ない、中途半端でなお出来ない』と言われる通り、つかみ所のない連中です。現役バリバリの私が言うのですから、信憑性がありますョ!

 肩から力を抜いて、原稿に向かってください。鈴木さん、過去にいわゆる暴力団と呼ばれる人たちに、嫌な思い出が必ずあるはずです。一般の読者だって同じです。悪を悪と言えない物書きにはならないでください。私もこの世界を変えるんだ、というビジョンは変わりません。是は是、非は非として、正面から向かい合って生きてください」

 この手紙にはしびれた。まだ30歳だった私は、完全にヤクザの肩を持つようになった。

「警官にだって悪徳警官がいる。ヤクザにもいいヤクザがいる」

 当時、そんなことをよく原稿に書いた気がする。せっかく「是は是、非は非」とアドバイスをもらったのに、その言葉は私に届かなかった。暴力団を贔屓する心理には、私が天の邪鬼だったことも大きく影響しているだろう。社会的なマイノリティの代弁者になることは、大きな自己陶酔を生み出した。私は完全に酔っぱらっていた。

■放免祝いで大失敗

 今、思い返しても、この当時、取材で嫌な思いをしたことはなかった。大きな失敗をしても、暴力団はそれを笑って許してくれた。最大の失敗は、放免祝いを撮影したフィルムを盗まれてしまった時である。それも総長の放免で、盗難に気がついたときは青ざめた。

 放免祝いとは、暴力団が刑務所を出所した際、その労をねぎらうために行われる祝いの席のことだ。組織のための犯罪を名誉と考え、堂々と賞賛する行為であり、他の組員に対し、進んで人柱になるようアピールする狙いもあるから、警察は放免祝いに強力な圧力をかけてくる。ヤクザ映画にあるように、刑務所の出入り口にずらりと組員が立ち並ぶことはほとんどない。天下の公道で、堂々と犯罪行為の賞賛をされたのでは、警察のメンツは丸つぶれだ。

 野外で決行する場合、つまり出所したその場で放免祝いをするときは、直前まで場所が明かされず、ゲリラ的に行われる。我々から情報が漏れるのを防ぐため、取材のときも前もっておおざっぱな場所しか教えてもらえない。車で待機し、幹部からの連絡をもらってすぐ会場に向かう。まごまごしていると、撮影に遅れる。

 一時期は高速道路のサービスエリアが頻繁に使われた。儀式自体は10分程度で終わるし、大量の車が集結しても駐車場に困らないからだ。いまはサービスエリアのほとんどに、暴力団の集会を禁止するという看板が設置された。出所は朝方なので、最近では郊外の大規模な店舗の駐車場などが使われる。

 当時も放免祝いという言葉はタブーだった。激励食事会と言い換えるのが一般的だ。呼び方が変わっても、その意義は変わらない。長期の服役を終えた慰労会であり、これからの人生の手助けになるよう、祝儀が集められる。これらの祝儀が当人に渡るかどうかは組織次第で、経費を引いた残りを手渡すケースが多い。

 このときはサッカースタジアムの真横にあった空き地に街宣車が三十数台並び、ステージまで設置されていた。当節、めったにお目にかかれない派手な放免祝いだった。ステージの中央に向かって、2列に組員がざっと100メートルほど立ち並び、出所した総長はその間の花道を通って壇上に進んだ。その周囲にはおおよそ100台以上の高級車が集結し、他団体の参列者が喝采を送っていた。私が取材した放免祝いでは、最大規模だろう。興奮して撮影し、バシャバシャとシャッターを切ったのはいうまでもない。

■大切なフィルムが盗難に……

 車で新宿に戻り、もう一本の取材を行った。夜は連載をしている稲川会若手組長のインタビューだった。待ち合わせは西口のワシントンホテルで、地下の駐車場に車を停め、カメラバッグをそのままにしてレストランまで上がった。

 車に戻ると、車の鍵が壊されており、カメラバッグごと盗まれていた。再撮影のきかない貴重な映像を写したフィルムも、カメラと一緒に盗まれた。

 駐車場の係員に毒づいて、そのまま交番に向かった。

「放免祝いのフィルムが盗まれました! 犯人はまだ近くにいるかもしれません。探してください」

「……あんたヤクザもんなの?」

 警官は私の訴えに怪訝な顔をして、応援部隊を要請した。3分もしないうち、パトカーが数台やってきた。やましいところはなにもないので、すべて正直に話した。

「犯人はたぶん、金目の物だけ盗って、バッグや撮影済みのフィルムは捨てたはずです。この辺り……中央公園に落ちているかもしれません。探すの手伝ってください!」

「無理だと思うよ。それに俺たちも忙しいから、あなただけに関わっているわけにいかないのよ。まずは盗難届を書こう。盗まれたものを正確に教えてくれる?」

 パトカーはすぐに去り、年配の警察官が盗難届を書いてくれた。暴力団を取材するなんて不届きだ、とは一切言われなかった。交番を出るとき、諦めきれずに自分だけでも周辺を探してみる、と息巻いた。

「この時間、公園の中にはへんなヤツらが多くて危ないからやめときなよ」

 警官の言葉を振り切って朝までカメラバッグを探したが、なにも見つからなかった。

■暴力団雑誌編集部の心地よさ

 約3ヶ月後、質屋に入れられたカメラ機材の半分が見つかった。そこから機材を出す金は私の負担だった。質屋はあくまで善意の第三者だったからだ。やりきれない思いはあったが、見つかっただけでもよしとしなくてはならない。犯人も逮捕された。窃盗の前科を多数持つ常習犯で、担当した刑事は、「損害賠償を求めても支払い能力がないから諦めるしかないねぇ」と同情してくれた。

 当事者団体に謝罪に行ったのは私ではない。この取材は『実話時代』のもので、私が責任者ではなかったからだ。叱られるようなことはなかったらしい。間抜けな野郎だ、くらいは言われたかもしれない。

 あのまま編集部を辞めていなかったら、今でも私は変わっていなかったと思う。それだけ暴力団雑誌の編集長は居心地がよかったのだ。

“カタギ”以外の住人が足繁く通う、新宿にあった伝説のバー『ボタンヌ』 へ続く

(鈴木 智彦)

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