ゾンビ学を通じて見た『鬼滅の刃』のヒットの理由とは

ゾンビ学を通じて見た『鬼滅の刃』のヒットの理由とは

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『鬼滅の刃』に描かれた名作漫画との共通点とは? から続く

 作品を通じてさまざまな社会風刺が行われてきた一大コンテンツである「ゾンビ」もの。その影響は多岐にわたり、「ゾンビ的」な存在が人間と対峙するコンテンツはいまや決して珍しくない。年内に最終巻の発売が予定される大人気漫画『鬼滅の刃』も、そんな作品群の一つであるといえるだろう。ここでは近畿大学で「ゾンビ学」の講義を開催する大学教員、岡本健氏の著書 『大学で学ぶゾンビ学〜人はなぜゾンビに惹かれるのか〜』 (扶桑社)より、『鬼滅の刃』の画期的な特徴に迫る。

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■「引きこもり」と「決断主義」を調整する

『鬼滅の刃』は、これまでのジャンプ漫画との連続性を有するとともに、かなり特徴的な作品でもある。以下は、『ワールド・ウォーZ』の分析を行った第3章の「1-5.『引きこもり』と『決断主義』」で整理した、ジャンプ漫画の時代の変化を思い出しながら読んでいただきたい。

 まずは、主な登場人物の特徴を整理しておこう。主人公の竈門炭次郎は強い「優しさ」を持つ。また、嗅覚が異様に鋭く、さまざまな「匂い」をかぎ分ける。この時の「匂い」は単に物理的な匂いだけではなく、相手の性格や感情を「匂い」として感じることができる。炭次郎と行動を共にする我妻善逸(あがつま ぜんいつ)は聴覚が発達しており、ほかの人には聞けない「音」を聞くことができる。炭次郎同様、この「音」も物理的な音はもちろん、感情や心理状況も含む。そして、非常に臆病でマイナス思考である。女性が大好きで、炭次郎の妹である禰豆子に惚れている。そして、炭次郎と善逸の鬼殺隊員の同期である嘴平伊之助(はしびら いのすけ)は触覚が鋭い。イノシシに育てられた野生児で、頭にはイノシシの頭巾をかぶっており、上半身は裸。好戦的な性格で、自分より強い対象に挑みかかる「猪突猛進」を信条としている。

■それぞれの登場人物が生きる世界のあり方

 炭次郎、善逸、伊之助は、鋭敏な感覚がそれぞれ異なるだけでなく、自分たちを取り巻く「世界」に対する態度があまりに違っている。炭次郎は、家族を鬼に惨殺され、妹を鬼に変えられているにもかかわらず、世界に対する優しさや信頼感、前向きさを失っていない。その対象は、人間だけでなく、鬼にもおよび、自分が殺した鬼の最期を看取り、鬼の魂は浄化されて成仏し、涙を流しながら消滅していく鬼もいる。一方の善逸にとって、世界は生きづらい。初登場時からずっと「自分はどうせすぐに死ぬ」と言い続けており、鬼殺隊に入隊する前段階の訓練でも泣き言ばかり言っていたようだ。全集中の呼吸「雷の型」の使い手だが、九つある型のうち一つの型しか身に付けられなかった。とにかくマイナス思考で、任務に対して後ろ向きな、いわば「引きこもり系」である。伊之助は、幼いころに山に放置されてしまい、イノシシに育てられた。自分を取り巻く世界には自分より弱いものか強いものしかいないと考え、強いものには「猪突猛進」で立ち向かっていく。まさに弱肉強食の世界をサヴァイヴしてきたキャラクターだ。

 このように、主人公と同じく鬼殺隊に所属している同期でも、価値観がかなり異なっている。特に、善逸が世界に対して「引きこもり」的な態度で、伊之助が「サヴァイヴ感」のある世界を生き残ってきた点は興味深い。

■一蓮托生ではない「鬼」の存在

 さらに、こうした特徴は、同じ鬼殺隊の最強の剣士たちである「柱」を見ても同様だ。この「柱」は、一般の鬼殺隊員と比べて戦闘能力が高く、鬼の中でも強力な鬼を屠っている。常人とは異なる強さを身に付けた先輩格の登場人物たちであれば、思慮も深そうなものだが、初登場シーンでは性格が偏かたよった人物として描かれる。また、柱同士でも価値観はかなり異なり、「鬼を殺す」ことを目的にし、隊の「お館様」である産屋敷耀哉(うぶやしき かがや)を慕っているという点以外は、共通点より相違点が目立つ。会話も成立しているようで、お互い伝わっているのか怪しいことも多い。一方の鬼のほうも、まとまっているとは言い難い。そもそも、鬼はもともと人間であり、鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)が血を分け与えた者が鬼となる。鬼は群れないとされ、それぞれが独自に行動している。ただ、無惨が多く血を分け与えた特別に強い十二人の鬼「十二鬼月」がおり、無惨の命令に従い行動する。十二鬼月には、下弦の鬼が六人、より上位の上弦の鬼が六人いる。鬼殺隊で柱として認められるには、十二鬼月に勝つことが条件となる。

■厳しい世界に持ち込まれる「優しさ」

 炭次郎は、この中にあって「優しさ」というノイズを持ち込む存在だ。とはいえ、炭次郎とて、単に優しいだけではいられない。物語冒頭で、炭次郎を鬼殺隊に導く二人の登場人物のセリフを見ておこう。人間としての意識をなくして鬼となった禰豆子に襲い掛かられた炭次郎は懸命に「鬼なんかになるな」と何度も呼びかける。炭次郎を襲いながらもその声に涙を流し始める禰豆子。その時、突如切りかかってくる者が現れる。とっさに禰豆子をかばって避ける炭次郎。切りかかってきたのは、鬼殺隊の「柱」の一人である冨岡義勇(とみおか ぎゆう)だった。義勇は禰豆子を殺すと言って聞かない。炭次郎は土下座をして懇願する「やめてください……どうか妹を殺さないでください……お願いします…お願いします……」その様子を見て義勇は次の言葉を強い調子で投げかける。

■激しい言葉がぶつけられる

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」「惨めったらしくうずくまるのはやめろ!!」「そんなことが通用するならお前の家族は殺されてない」「奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が」「妹を治す? 仇を見つける?」「笑止」「千万!!」「弱者には何の権利も選択肢もない」「悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!」「妹を治す方法は鬼なら知っているかもしれない」「だが」「鬼共がお前の意志や願いを尊重してくれると思うなよ」「当然俺もお前を尊重しない」「それが現実だ」「なぜ」「さっきお前は妹に覆い被さった」「あんなことで守ったつもりか!?」「なぜ斧を振らなかった」「なぜ俺に背中を見せた!!」「そのしくじりで妹を取られている」「お前ごと妹を串刺しにしても良かったんだぞ」

 炭次郎と禰豆子が、引きこもっていても何も解決せず、弱い存在を誰も助けてくれない、そんな世界に投げ込まれたことが印象的に描かれている。この後、義勇の予想に反して禰豆子は、重度の飢餓状態にありながら炭次郎を食うどころか守ろうとし、義勇は二人の可能性にかける判断をする。炭次郎に、鬼殺隊の剣士を育てる役割を担っている鱗滝左近次(うろこだき さこんじ)を紹介する。

 初対面で左近次は炭次郎に尋ねる。「妹が人を喰った時お前はどうする」。すぐに答えられない炭次郎を左近次は平手打ちにして、次のように言う。「判断が遅い」「お前はとにかく判断が遅い」「今の質問に間髪入れず答えられなかったのは何故か?」「お前の覚悟が甘いからだ」「妹が人を喰った時にやることは二つ」「妹を殺しお前は腹を切って死ぬ」「鬼になった妹を連れて行くというのはそういうことだ」。

■ゼロ年代的想像力の一つである「決断主義」が明確に提示される

 まさに決断主義である。義勇と左近次によって、この世界は、引きこもっていても誰も助けてくれず、とにかく自分の責任において何らかの決断を瞬時に行っていかなければ生き残っていけないサヴァイヴ感に満ちたバトルロワイヤルの世界であることが示される。映画『ワールド・ウォーZ』の世界で主人公が対峙する世界と同じだ。

 炭次郎は、この後、鬼殺隊に入隊し、前述した我妻善逸や嘴平伊之助、そして、柱の面々とともに、鬼を殺す任務を遂行していく。善逸は引きこもりの象徴であり、伊之助は弱肉強食の体現者だ。善逸はとにかくマイナス思考で口を開けば自分は死ぬと言って聞かず、守ってほしいと懇願する。伊之助は自分より強いものに挑んで打ち倒すことしか考えておらず、鬼に襲われている子どもを踏みつけにして鬼に猪突猛進していく。炭次郎はこの二者に対して、少しずれたツッコミを入れながら調整しつつ、任務を遂行していく。その過程でこの二者も変化し始め、チームプレイも見られるようになっていく。

■「鬼」は必ず殺される

 ただし、注意しておく必要があるのは、炭次郎は、鬼を「殺さない」という選択は基本的にしないことだ。あるエピソードでは、とある理由で鬼の首をはねる際に痛みをなくす技を使うシーンが出てくる。ただし、「鬼」であり、人を食った存在を殺すことはやめない。この点は、炭次郎は「引きこもり」を卒業し、「決断主義」のルールを徹底していることをあらわしている。また、善逸も「引きこもり」を体現するキャラクターではあるが、受忍限度を超えた緊張状態に達すると眠ってしまい、その状態では強力な技を使って鬼を屠る。

 つまり、このように構造で見てみると、2010年代に連載が始まった『鬼滅の刃』は、90年代的想像力である「引きこもり」と、ゼロ年代的想像力である「決断主義」をどのように調整して生きていけるのか、について描いた作品だと捉えることができる。主人公は心根は優しい少年だが、社会がそのままでは生かしておいてくれない。力を得て、自分の責任でスピーディーに決断し、鬼を殺す存在となる。とはいえ、元の「優しさ」は消えてはいない。残酷なバトルロワイヤルの「決断主義」の世界にあって、その「優しさ」や「思いやり」「人間性」が、事態を変えられるのかを問うた、現代社会の問題を考えさせる「リアル」な物語として読むことができる。

■複雑化する「間」の存在

 人間と鬼の「間」の存在として、主人公の妹である竈門禰豆子が登場する。そうすると、これまでの『進撃の巨人』『東京喰種 トーキョーグール』『亜人』とは構造が異なっていることになる。主人公の炭次郎は鬼の要素はないため「間の存在」ではないように見える。この「間の存在」に着目して、さらに分析を進めてみよう。

 実は、「間の存在」は禰豆子だけではない。物語が進むと、珠世(たまよ)と愈史郎(ゆしろう)(*4)という鬼が登場する。

*4 実は、この二人のキャラクターは、『鬼滅の刃』の前身である短編『過狩り狩り』にすでに登場している。

 この二人もほかの鬼と同様に、元は人間だったがとある理由で鬼となっている。鬼は通常、鬼舞辻無惨の支配下にある。離れていてもその生殺与奪の権は無惨が握っており、場所も把握されている。ところが、この二人は、その支配から逃れて、無惨とは敵対しており、むしろ鬼殺隊の味方をする。珠世と愈史郎は、「存在としての間の存在」と名づけることができる。基本的な性質は鬼でありながら、人間に襲い掛かる性質を克服し、人間の味方をする。

■人間、鬼、そして「間」の存在

 一方で、『鬼滅の刃』には、「力としての間の存在」と言える人々が登場する。鬼殺隊員は、人間でありながら、鬼と戦うために、常人では到達不可能な力を手に入れる。炭次郎の師である鱗滝左近次のような育手(そだて)と呼ばれる剣士を育てる人々が各地にいて、個別に弟子を取り、鍛えていくが、その過程で、「全集中の呼吸」と呼ばれる呼吸法を教えられる。この呼吸には、それに伴って火や水、雷、愛といったさまざまな剣技の型がある。また、鬼殺隊の隊士が持つ刀は日輪刀(にちりんとう)と呼ばれる特殊な刀で、鬼はこれで首を切断されるか、太陽の光に当たらないと死なない。鬼殺隊員の中にも、特異な「間の存在」がいる。それは、鬼を食うことで鬼の力を発揮することができる不死川玄弥(しなずがわ げんや)だ。彼は、全集中の呼吸が使えず、その代わりに、鬼の体を食べ、瞬時に消化、吸収することで鬼の力を得て戦う。

 そして、存在としても、力としても間の存在となってしまったのが、炭次郎の妹である竈門禰豆子なのだ。『進撃の巨人』『東京喰種 トーキョーグール』『亜人』などでは、主人公が否応なく、身体的に、異人間になってしまい、間の存在となる。『鬼滅の刃』では、その「身体的に」「否応なく」間の存在となる役割を担っているのが禰豆子だ。炭次郎は、禰豆子という「間の存在」の兄であると同時に、力としての間の存在となり、かつ、前節で確認した通り、性格として持っている「優しさ」によって、鬼にも同情の気持ちを忘れない「気持ちとしての間の存在」にもなっている。

■ゾンビ作品特有の視座が構造・特徴を明らかにする

 以上、見てきたように『鬼滅の刃』は、人間と鬼、双方の陣営でも価値観が多様であり、かつ、さまざまな意味での「間の存在」が登場するコンテンツになっていることがわかる。このことが、個性的で多様なキャラクターを生みだすことにつながっている。このように『鬼滅の刃』は、ゾンビ・コンテンツでこれまで描かれてきた「価値観の対立」の問題を中心に見てみると、その構造や特徴がより鮮明に見えてくる。炭次郎は、無事に禰豆子を人間に戻すことができるのか、鬼殺隊員たちは、鬼たちはどうなるのか、このバトルロワイヤルな世界はどのように終焉を迎えるのか、あるいは、迎えないのか、その結末が実に楽しみである。

(岡本 健)

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