脅しの手紙を送る人、あり得ない金額を提示する人……君島十和子が語る、婚約後の騒動への思い

脅しの手紙を送る人、あり得ない金額を提示する人……君島十和子が語る、婚約後の騒動への思い

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「時代が求める“高嶺の花”を演じるべきだったけど……」君島十和子が語る、所在なかった20代の頃 から続く

 28歳、ブライダルの仕事で君島誉幸氏に出会う。彼女をモデルに選んだのは、のちの義父、君島一郎氏だった。

 誉幸氏とは、結婚を決めるまで数えるほどしか会わなかった。それでも、同じ価値観と女性へのリスペクトを持つこの人とやっていこうと誓った。

 女優もメゾンの妻も、片手間では務まらない。後悔したくない時、彼女の踏み出す一歩は普段の何倍にも大きくなる。十和子は引退を決意した。

 その後の喧騒は、先述の通りだ。(全2回の2回目/ 前編 から続く)

■◆ ◆ ◆

■不器用さが強さに変換された瞬間

 当時、スキャンダラスに報じられた後に二人が受けたワイドショーのインタビューがある。十和子は強い意志を宿した瞳で大御所レポーターに言った。

「これから起こることは誰にもわかりませんよね。いまは二人揃って乗り越えていこうという決意のもとで私はこの結婚に乗り出したと思ってますので、その覚悟はしております」

 言葉には、食って掛かるような勢いが静かに漲っていた。

「あの時、目前にいる芸能レポーターの方が何を望んでるのか、顔に書いてあったんです。それに負けたらすべて、私だけじゃなく、私の味方になってくれた人さえも傷つけることになると」

 持て余していた不器用さが、類まれなる強さに変換された瞬間である。

■女子マインドの夫と、職業婦人だった義母

 結婚から23年。夫の姿は、十和子本のあちこちに登場する。瞼に輝くラメのアイシャドーを見て「砂場で転んだの?」と揶揄し、「ロングヘアがイタくなったら言ってあげる」とお節介もする。

「女子マインドですよね。オフィスから帰る時、エレベーターでふと彼の方を向くと、じーっとメイクのよれた私の顔を見ているんです。『うわっ! 劇的ビフォーアフター』って」

 誉幸氏のエピソードで私が最も好きなのは、「ゆで卵が得意料理」と言って憚らなかった十和子が、ご飯を初めて炊いた時の態度だ。「洗剤で洗ってないよね?」とジャブを打ちつつも、たいそう褒めてくれたという。

 十和子はそれを昔の料理下手エピソードとして披露するが、できることが増えたと手放しで褒めてくれる伴侶の存在は心強い。褒めたのは夫だけではない。義理の母もだ。

 義母は職業婦人だった。

「働く女が家庭を整えておく意味を、義母との同居から学びました。働く女は家を空けることが多い。人に任せなきゃいけないことも多い。だからこそ、誰にどこを開けられてもきちんとしていなければというマインドが義母にはありました。会社の誰かが来て雑巾が入っている棚を開けようとも、まったく恥ずかしくない状態だったんです」

 プレッシャーはなかったのだろうか。

「ところが、義母は君島一郎とはまったく別のオートクチュールサロンを経営しており、多いときには15人ほどのお針子さんを抱えていたんです。なにもできない若い女の子というものを知っていた。だから私にも始めから高いレベルを求めてはきませんでした」

■義母と対立する思いも、時間もなかった

 結婚当初は女優の仕事も残っていたが、肌着の洗濯から炊事まで、なにも言わずに義母がやってくれた。

「最初からできるとも思ってないし、やってほしいとも思わない。できるところから学んで、真似したいところだけ真似すればいいわ。結局、あなたが家庭を作るわけだから。そう言われていました。ありがたかったですね」。

 結婚当初は家の中にしか平和がなかった、と十和子は言う。

「半年前に初めて会った人をお義母さまと呼び、手を取り合って生活する毎日。ワイドショーでは懇切丁寧に義母の過去が放送されていましたが、事実に反することがあったら内容証明を送らなきゃいけないからメモしておくようにと弁護士さんに言われていて。知る必要のないお互いの過去が次々とさらされるのを、家族揃ってお茶を飲みながら見ていました。義母と対立する思いも、時間もなかったんです」

 十和子は洗い終わった洗濯物を乾燥機に2〜3分掛けたあと、床の上に敷いたシートに1枚ずつ広げ、しっかりとしわを伸ばしてから干す。これは義母のスタイルをアレンジしたものだ。シルバーと漆器の扱いも義母仕込み。絶対に離婚すると手ぐすねを引く世間とは裏腹に、君島家では有機的な営みが育まれていた。

 嫁姑の諍いや、若い女と中年女の対立。十和子が女優だった頃は、こうした決まったフォーマットが消費され続ける時代だった。

■何度かの転機、そして“役割探し”

 トレンディドラマでは、「オバサンはあっちに行って!」と先輩女優に大きく出なければならないシーンで足が震えたという。

「主演は浅野ゆう子さんでした。当時のゆう子さんは、私にとって時代のトップランナー。でも、そのドラマが転機だったと後にテレビでおっしゃっていたのを拝見して、驚いたんです」

 十和子の転機はいつを指すのか。

「キャンペーンガールになった19歳。求められることと自分の表現したいことが少しずつ一致しだした27歳ごろ。遅いんですけど(笑)。そして結婚と、化粧品をやろうとなった時ですね」

 化粧品事業に本格参入するまでの間も、役割探しに必死だった。

「1歳数か月の娘を抱えて沖縄や……串本ってわかります? 和歌山県最南端の。長年の顧客のマダムからの要望で、各地のお洋服屋さんで行われるKIMIJIMAの受注会に娘を連れてお邪魔していました。

 連れていっても、子どもは先方の社員さんに委ね、私は専らお客様のお相手……と言っても生地や縫製についてはシロウトなので一切立入らず、その代わりに自分にできた着こなしのアドバイス、その服の雰囲気に合うメイクや髪型をオススメしていました」

 十和子の話は好評で、やがて受注会で美容講座を行うようになった。

■結婚した女も女のままでいていい

 ある日を境に、十和子は風向きが変わるのを感じた。

「女性誌『25ans』から美容の取材がきたんです。それまではマスコミとの接触といったら身構えるしかありませんでしたけど、『25ans』の取材は私が独身だった頃となにも変わらなかった。使っているお化粧品の話だけ。主人のことも子どものことも家庭のことも聞かれなかった」

 編集部には問い合わせの電話が殺到したという。

「時代の変わり目にいることが多かったと思います。私が20代の頃は、結婚したら髪を切り、お化粧もしなくなる時代でした。既婚と未婚の友達が集まると、一目でわかるほど外見が分かれていて、お互いが優越感を持っているような……。でも、今ってその境目がないと思うんです。当時は赤ちゃんを抱いてハイヒールを履いていると批判されたけど、今は誰もそんなことを気にしない時代でもあります」

 結婚前、誉幸氏は十和子に「女性にはいくつになっても綺麗でいて欲しい。年齢ごとの美しさがあるから」と語った。十和子はその言葉を信じた。

 結婚した女が女のままでいることが許されなかった時代、十和子はずっと偏見の最前線で戦ってきたのだろう。

■人一倍詳しかったスキンケア

 時を同じくして、誉幸氏は継承したKIMIJIMAの運営に追われていた。

「私が嫁いだ頃は、『お客様、この生地はリントンのツイードで、もう二度と手に入りません。海外ブランドも使っている品です。一生モノです』と言えたんですけど、ファストファッションが流行り、少しずつ『一生もの』という言葉が陳腐になってしまった」

 化粧品事業に参入すると決めたのは、皮膚科医の経歴を持つ誉幸氏だった。

「君島一郎の願いでもありました。クリスチャン・ディオールやシャネルなどのブランドがコスメティックを展開する流れがヨーロッパにはありましたので、主人が皮膚科医になった時点で、いずれという思いはあったと思います」

 キャンペーンガール時代の日焼け肌を回復するのに苦労した経験から、十和子はスキンケアに人一倍詳しかった。「特別なことはしていません」が女優の常套句だった90年代初頭から、二つの手鏡を90度の角度で持ち眉を描く方法や、お気に入りの基礎化粧品を惜しげもなく雑誌で紹介もしていた。

 化粧品業界は完全なる男社会だ。始めは「奥さん、なに言ってるんですか」と取り合ってもらえないこともあったが、元皮膚科医の誉幸氏がすかさず援護射撃をしたという。あきんど物語だ。

「そうなんです(笑)。『昭和枯れすすき』みたいな話になっちゃうんですけど。専門用語では伝えられなくても、求めるものは具体的に頭の中にあった。だから、たどり着けたんだと思います」

■お客様には同じ失敗をしてほしくない

 業界のルールを知らず、商品発表会を季節外れの6月に行う失敗もあった。実売期に発表しても遅いのだ。

「化粧品の価値って、2回目を買うか買わないかで決められると思う。良いと思っていただいても、その価値に納得がいかなければ2回目は買っていただけない」

 試行錯誤の末に完成したUVパーフェクトクリームは、現在4代目となる。

「私が最初に壁にぶち当たる人でありたい。そしてお客様に伝えるんです。同じ失敗をしてほしくないから」

■信用に足りる家族だと世間に証明してきた夫婦

 数年前、テレビに電話出演した誉幸氏は「KIMIJIMAは倒産ではなく、廃業です」と主張した。取引先に迷惑を掛ける倒産と、負債を整理し事業を終了する廃業では雲泥の差がある。事業継承時、誉幸氏はまだ31歳だった。

 二人の結婚後、君島一郎氏は週刊誌のインタビューで「これだけ騒がせたのだから、誰にも迷惑を掛けない夫婦になって欲しい」と言った。そもそもの発端はどこだとツッコミたくもなるが、誉幸氏はその言葉を守ったのだろう。十和子も長女が幼稚園の受験に合格した時、初めて世間に認められたような気がして涙を流したという。

 君島一郎氏の没後からずっと、夫婦は自分たちが信用に足りる家族だと世間に証明してきたように思う。

 類まれなる美貌も恵まれた環境も自ら選んだものではない。しかし、「美人だから」、「御曹司だから」と分不相応な役目を与えられ、同時に「あなたにできるの?」と品定めをされる。

 与えられた環境に感謝し、最善を尽くしたところで世間は簡単には認めない。彼らは証明し続けなければならなかった。

「結婚するしないで騒がれている時に、見ず知らずの人から脅しのような手紙が山ほど来ました。その一方で、独占インタビューや出版を持ちかけられ、あり得ない金額を提示してくる人もいた。世の中の裏と表、日向と日陰を一度に目にすることができ、なんとかブレずに初志貫徹できたなと思うこともあります」

 簡単に別れるわけなどなかった。十和子の座右の書は、障害者郵便制度悪用事件であらぬ容疑を掛けられ、164日間の勾留の末に無罪を勝ち取った村木厚子の『あきらめない』だ。

■「人事を尽くして天命を待つ」から「人間万事塞翁が馬」に

 仕事に没頭し過ぎてしまうこともあるが、朝5時半に起きて、部活の朝練がある高校生の次女の弁当を作るのは忘れない。

 義母はケアホームに居を移した。

「大病を2度も克服し、食事にも制限がある。老いる現実をつぶさに見せてくれるのも義母の愛だと思っています」

 年を経て、十和子の好きな言葉は「人事を尽くして天命を待つ」から「人間万事塞翁が馬」に変わった。

「出会った人と、出会った出来事で成り立っている。そう思えるようになって変わりました。いろいろありましたけど、おかげでいまだに顔と名前を覚えていただいているんですから」

 君島十和子、なんとタフな女だろう。

きみじまとわこ/1966年東京都生まれ。85年、高校在学中にJAL沖縄キャンペーンガールに選ばれデビュー。『JJ』モデルを経て女優として活躍。結婚を機に芸能界を引退。2005年、化粧品ブランド「FELICE TOWAKO COSME(現・FTC)」を立ち上げる。

ジェーン・スー/作詞家・ラジオパーソナリティ・コラムニスト。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で講談社エッセイ賞を受賞。近著に『これでもいいのだ』(中央公論新社)、『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』 (朝日文庫)。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」(月〜金11:00〜13:00)が放送中。

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(ジェーン・スー/週刊文春WOMAN 2019GW号)

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