「時代が求める“高嶺の花”を演じるべきだったけど……」君島十和子が語る、所在なかった20代の頃

「時代が求める“高嶺の花”を演じるべきだったけど……」君島十和子が語る、所在なかった20代の頃

吉川十和子だった頃 ©?共同通信社

 表参道に面して建つメタリックなビル。ここに君島十和子のオフィスがある。真っ白な扉を開くと大きな熊手が目に入った。どこのものだろう。

「これは(新宿の)花園神社なんです」

 十和子が柔らかい笑顔で答えた。長い髪はハーフアップにまとめられ、ヒナゲシのような朱赤のリブセーターがよく似合っている。

 商人には馴染みの深い酉の市。11月になると神社仏閣へ参拝し、商売繁盛と家内安全を祈り熊手を買い求める。商売が大きくなるように、毎年少しずつ大きくするのが流儀だ。(全2回の1回目/ 後編 に続く)

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■世界に誇るメゾンの御曹司と、金屏風の前で婚約会見

 1980年以前に生まれた女なら、君島十和子のことは少なからず知っている。美容家として認識する人もいれば、90年代半ばの喧騒で記憶が止まっている人もいるだろう。

「神様にお願いするとか、宗教に関心がある環境で育ったわけではないんです。でも、長く人生を重ねていると、もう人の努力だけではどうにもならないことって本当にあるなって」

 1995年12月。女優の吉川十和子はファッションデザイナー君島一郎氏の息子である君島明氏(のちに改名し君島誉幸)と金屏風の前で会見を行い、世界に誇るメゾンの御曹司と美人女優の婚約は大々的に報道された。

「一緒に人生を生きていくと決めたのだから、一番の味方であり同志であるということは、忘れないでいようと思います」

 大勢の芸能記者を前に、29歳の十和子は控えめな笑顔で語った。彼女にとっては事実上の引退会見でもあった。

 私には、そのあとのことが強く記憶に残っている。のちに十和子は自著で「母が庭で洗濯物を干していると近所の人から『娘さんをあんな家に嫁がせてはダメ』って言われるような、日本中誰一人賛成してくれない結婚だった」(『十和子道』)と記した。

■連日ワイドショーを賑わせた、君島家の複雑な家庭事情

 君島誉幸氏の複雑な家庭環境について報道されたのは、婚約会見の数日後。両家の親や十和子の所属事務所社長を巻き込んだ壮絶な応酬が連日ワイドショーを賑わせたが、彼らは周囲の騒音をよそに約二週間後に入籍する。

 入籍の7か月後には義父の君島一郎氏が急逝。まもなく、正妻の息子と誉幸氏の対立が取りざたされた。

「KIMIJIMAはパリコレに何度も出たことがある上流階級や皇室の御用達ブランドだ」、「吉川十和子は玉の輿に乗った」。そう持ち上げていた人々が、手のひらを返しねっとりと二人の凋落を待ち望む。誰もがすぐ離婚すると信じて疑わない結婚だった。

 大方の予想に反し、幸せな結婚は現在も続いている。十和子の名を冠したコスメブランドは今年で創立15年。社長は誉幸氏。十和子は商品開発担当のクリエイティブディレクターであり、メディアでは広報的な役割も務める。

 JALのキャンペーンガールに選ばれた時、十和子は19歳だった。あの頃から雑誌や画面越しに見ているが、彼女の美は常に更新されている。ゴージャス一辺倒だった時代とは違い、現在の十和子からは茶目っ気すら感じる。

■所在ない顔をした美人だった20代

「これまでは本来の自分を出す場所もなかったですし、出して良い立場でもなかったように思います。表面的なキレイだけを見せていても人はついてこないでしょうし、そんなのはもうタイムリミットがとっくに過ぎている。もっと本音のところ、人間としての面白みを出していかないと」

 右も左もわからぬまま商家に嫁いだが、今や立派なビジネスウーマンだ。よく手入れされた庭に咲く花のようなたおやかさは昔と変わらないものの、それは風に揺れる可憐な花でも、支柱なしでは倒れてしまう人工的な花でもない。土中にしっかりと根を生やし、自らの力で咲き誇る大輪の花だ。

 芸能人だった頃の吉川十和子は、所在ない顔をした美人だった。

「20代って、若くて綺麗な時期のはずですよね。でも、その頃の写真を見ても、自分らしいとも綺麗だとも思わないんです。写真の向こう側、カメラマンやスタッフの表情ばかりが思い出されて。どんな気持ちでスタジオに行ったとか、不安だったことばかり」

 52歳になった十和子の顔には明瞭に「私には伝えたいことがある」と書いてある。居場所を見つけた者の顔だ。

■宝塚歌劇団にあこがれた女子校時代

 1966年5月、十和子は豊島区で生まれ、幼稚園から高校までを日本女子大学の付属校に通った。

「女子校の良いところは、ひとつの目的に向かって、全員で同じスタートラインに並び、自分が何をすべきか夢中で考えるところ。男女の役割分担も当然ながらない」

 小学校高学年になり、宝塚歌劇団に出会った。『ベルサイユのばら』や『風と共に去りぬ』に胸を焦がし、いつかあの舞台の一部にと願うようになる。

「子どもの頃から様式美が好きなんです。私の根底には、決まった形式の中の表現に共鳴するなにかがあります」

 母からはもう間に合わないと言われたが、諦めきれず宝塚受験の教室へ電話を掛けた。「一度、見学にいらっしゃい」と言われたが、行けなかった。

 思春期の十和子には、大切な決断をすべき場面で二の足を踏む癖があった。

 引っ込み思案になったのには理由がある。いつからか、皆と同じことをしても自分だけが目立つようになったからだ。

 こんなこともあった。

「知らない人に道を尋ねられ答えていると、最後には『お名前教えて』と言われるようなことが一度ではなかったので」

 小学校6年生のことだったと言う。人より美しく生まれると、時に他者と分かち合いづらい残酷な経験をひとりで抱えることにもなる。

 その後、「一歩踏み出さなかった後悔」が拭い去られることはなかった。だから、両親の反対を押し切り大学進学を諦め、キャンペーンガールになった。

カッコよく言えば不器用だし、ありていに言えば馬鹿だった

 のちに雑誌『JJ』の専属モデルになった十和子は、バブルの好景気に乗り女優の道を進む。

「いま思えば、時代が求める見た目どおりの女性を演じるべきだったんでしょう。ちょっと華やかで、贅沢で、高嶺の花みたいなものを。でも、そこには内面の自分と相当な乖離があったので、なかなかできませんでした。不器用だったなって、思いますねえ」

 著書でもインタビューでも、十和子は自身を「不器用」と評す。

「カッコよく言えば不器用だし、ありていに言えば、馬鹿だったんでしょう。理解が足りず、掘り方が甘かった」

 私がまだ10代だった頃のこと。テレビをつけると深夜番組に吉川十和子が出ていた。司会者の男は遠慮なく十和子を誉めそやし、露骨に好意を示した。

 十和子は戸惑いを隠さなかった。画面からぎこちない空気が染み出してきたのをはっきりと覚えている。美しい女はそういう場面で軽口をたたき、いなすのが通例だったので驚いた。

 私見ながら、彼女の挙動不審は典型的な女子校育ちのなせる業とも言える。学生時代に美貌によるアドバンテージを享受したことがない美女は、社会に出てから苦労するのだ。仕事が終われば真っ赤なスポーツカーが迎えにくるのが吉川十和子だと思っていたが、実際には小田急線で帰っていたという。

■1年の半分以上が舞台の仕事で埋まる女優に

「私より美しい人なんてたくさんいるじゃないですか。でも、そんなことを言えばぶりっこと言われてしまう。そこも乗り越えなきゃいけないのに、できませんでした。素人感覚が抜けなくて、芸能人と同じ場に立っていることを引き受けられなかった。いつも及び腰だから、どこにも到達できない」

 根が真面目なのだ。やるなら真剣にと、演劇研究所にも1年半通った。外郎売の台詞から始まり、古典芝居を一から十まで覚えた。その甲斐あって、20代後半に十和子は舞台の仕事に目覚める。舞台好きの血が騒いだか。

「みんなで同じスタートラインに立ち、目標に向かう欲求が常にありましたから。男も女も演者も裏方さんもみんなで作る。毎日の積み重ねで作りあげる喜びです」

 27歳になると、1年の半分以上が舞台の仕事で埋まるようになった。与えられた役割がある限り、人の何倍も努力し、周りの助けを借りてでも全力でやり遂げよう。十和子はそう決めた。

 仕事を辞める気はなかった。結婚するなら女優業を理解してくれる同業者だろうと思っていた。

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きみじまとわこ/1966年東京都生まれ。85年、高校在学中にJAL沖縄キャンペーンガールに選ばれデビュー。『JJ』モデルを経て女優として活躍。結婚を機に芸能界を引退。2005年、化粧品ブランド「FELICE TOWAKO COSME(現・FTC)」を立ち上げる。

ジェーン・スー/作詞家・ラジオパーソナリティ・コラムニスト。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で講談社エッセイ賞を受賞。近著に『これでもいいのだ』(中央公論新社)、『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』 (朝日文庫)。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」(月〜金11:00〜13:00)が放送中。

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脅しの手紙を送る人、あり得ない金額を提示する人……君島十和子が語る、婚約後の騒動への思い へ続く

(ジェーン・スー/週刊文春WOMAN 2019GW号)

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