「60歳になったらアルバムでも出すか」 還暦を迎えた?ロックのカリスマ”氷室京介に期する「有言実行」

「60歳になったらアルバムでも出すか」  還暦を迎えた?ロックのカリスマ”氷室京介に期する「有言実行」

BOOWY解散コンサートで熱唱する氷室京介 ©共同通信社

 いま40代のお笑いタレントがトークをしていると、ときどきBO?WYが話題にのぼることがある。

 たとえば、バナナマンはMCを務める乃木坂46の番組で、設楽統が唐突にBO?WYの「B・BLUE」のイントロをくちずさみ始めたかと思うと、相方の日村勇紀も一緒に絶妙のタイミングで歌に入ってみせ、乃木坂のメンバーたちを驚かせていた。

■BO?WYが後進たちに与えた影響力の大きさ

 もちろん、お笑い以上に後進のミュージシャンにBO?WYが与えた影響は大きい。バナナマンとほぼ同年代であるGLAYのTAKUROは、14〜15歳のころ友達の家で「B・BLUE」を聴き、腰を抜かすくらい衝撃を受け、そのまますぐにレコード屋へCDを買いに行ったという。BO?WYのメンバーでも、とくにボーカルだった氷室京介はカリスマ的存在として、ソロに転身してからもずっとリスペクトを集め続けてきた。

 TAKUROは、氷室がBO?WY解散後初めてリリースしたソロデビューアルバム『FLOWERS for ALGERNON』(1988年)について、《人生であれほど美しいアルバムを聴いたことがない》と語っている(※1)。

 その氷室は、2014年にライブ活動無期限休止を宣言、翌々年の4大ドームツアーの最終地・東京ドームでの公演をもってステージから去った。このとき、《60(歳)くらいになったらアルバムでも出すか》と、今後も時間をかけてアルバムをつくっていくと宣言し、会場は拍手と歓声に包まれたという(※2)。あれから4年、氷室はきょう10月7日、ついに60歳の誕生日を迎えた。これに合わせて、今夜9時からはオンラインイベント「KYOSUKE HIMURO 60th ANNIVERSARY ONLINE HANABI LIVE “DISTANCE”」も予定されている。

■ライブハウスを中心に活動し、ライブは常に酸欠状態

 群馬県高崎市出身の氷室は高校在学中、同級生の松井恒松らと「デスペナルティ」というバンドを結成し、本格的に音楽活動を始めた。当初、氷室はドラム、松井はサイドギターを担当していたが、やがて氷室がギターを持ってリードボーカルを務めるようになり、松井はベースに回った。高校卒業後、デスペナルティはアマチュアバンドのコンテストの関東甲信越大会に出場し、決勝でギタリストの布袋寅泰率いるBLUE FILMと争っている。それから2年後の1981年、氷室・松井・布袋を中心にBO?WY(レコードデビュー前の表記は「暴威」)が結成され、新宿ロフトでライブデビューする。このあとドラマーの高橋まことが加入し、翌1982年に1stアルバム『MORAL』をリリースした。

 初期はライブハウスを中心に活動していたBO?WYは、1984年にはライブは酸欠状態となるのが常となり、音楽業界でも注目され始める(※3)。3rdアルバム『BO?WY』リリース直後の1985年6月には、渋谷公会堂公演を敢行。このとき彼らはまだレコードセールスでは大々的なブレイクはしておらず、渋谷公会堂でのライブはかなり思い切った勝負だった。しかし見事に成功を収め、これを機にホールでの活動に移行する。1986年の4thアルバム『JUST A HERO』は初めてチャートにランクインし(最高位5位)、同作を引っ提げての全国ツアーの最終日には、初めて日本武道館のステージに立った。いまなお伝説的に語り継がれている氷室の「ライブハウス武道館へようこそ」というMCは、このとき飛び出したものである。

■突然の解散、そして氷室のソロデビュー

 しかし、BO?WYは人気絶頂にあった1987年12月、渋谷公会堂でのライブで氷室の口から解散を宣言。翌1988年4月、オープンまもない東京ドームでの2日間にわたる“LAST GIGS”をもってすべての活動にピリオドを打つ。その後、氷室はいち早くソロ活動を開始し、解散からわずか3ヵ月後にはソロデビューシングル「ANGEL」、さらに9月には前出のアルバム『FLOWERS for ALGERNON』をあいついでリリースした。

 ソロになってからも氷室の歩みはさまざまな伝説で彩られている。たとえば、1993年のアルバム『Memories Of Blue』リリース時の全国ツアー「L'EGOISTE」における“やりなおしライブ”。これは1月の大阪城ホールでの公演中、氷室が突然、きょうは体調が悪くて満足のいくステージができないかもしれないと観衆に明かしたうえ、後日行なう東京公演に「ここにいる全員を招待する!」と宣言したのが発端であった。彼はこの日、公演前からマネージャーにきょうはやめさせてくれと訴えていたが、認められなかったので、途中でやめてもいいとの条件でステージに上がったという(※4)。結局、氷室は途中降板することなく全曲を歌い終えるも、約束は守った。東京・代々木体育館でのツアーファイナルの翌々日(5月12日)、同じ会場で、大阪公演に来ていた観客を無料で招待してあらためてライブを開催したのである。

■氷室が貫く「自分の美学」とは?

 しかし、これについて周囲のスタッフが美談のように語るのを、氷室はよしとしなかった。後年、以下のように忸怩たる思いを吐露している。

《これはもうプロとしてあってはならない、忘れてはならない、自分を戒めなくてはならないひとつのエピソードとして解釈しています。やりなおしといっても、悪いコンディションになってしまったのは自分の責任であるし、今日調子が悪いからお前明日またこいよっていう(苦笑)。お金を頂いておきながら、その勝手さ。それはもうエンタテインメント・ビジネスの風上にも置けない、自己満足というか、若気の至りというか、非常に恥ずかしい思い出ということでこの事実を受け止めています》(※1)

 氷室はべつのところでも、「自分の感情や価値観に流されてしまうという意味で、プロとしては自分は最低だと思う」という趣旨の発言をしていた(※5)。そこで例として彼があげたのが、2007年夏にGLAYと一緒に行なったライブである。このとき彼は新曲中心のセットリストでのぞんだ。ファンを喜ばせるなら、往年のヒット曲のオンパレードで盛り上げる手もあったはずだが、それはダサいという頑固な自分の美学を優先させてしまったのだという。もちろん氷室のなかにも、オーディエンスと盛り上がり感動を共有したいという部分はあるので、毎回自分のなかでバランスを取りながらやってはいる。それでもどうしても譲れないところがあるらしい。

《ただ絶対的に一番大切なのは、あまりパブリックなイメージだとか、相手の要求していることに流され過ぎてはいけないということだと思います。常にこっちが発信側であり、届かない人には残念だけれど外れていってもらう。その基本的な、一番大切なところで軸がブレてしまうと、今度はどこに住んでいても周りに流されて、音楽を作ること自体が辛くなってしまうと思うので。いつもいい意味での勝手さは大切にしなきゃいけないと思いますよね。そもそもそれは性格的にも譲れないところだと思いますし》(※5)

■「マニアックなことをやりつつ、ポップなバランスを取る」

 この姿勢は、氷室の発言に一貫して見出せる。90年代後半、メガヒットを出すアーティストがあいついだ時期には、そうした流れを否定こそしないものの、《でも、僕が300万枚売ることはテーマじゃないですよね。そんなこと考えて作ってないし。100万枚のクォリティーを作るっていうのかな。その中で、カッコいいなと思われるものを作ること。そうやって100万枚をキープすること。マニアックな新しいことをやりつつポップなバランスを取っていくというのかな。(中略)それがやれてるのは日本じゃ俺くらいしかいないんじゃないかと思いますよ》と語っていた(※6)。

 実際、彼は常に新しいことに挑戦しながらも、「SQUALL」(1996年)や「ダイヤモンド・ダスト」(1999年)といったシングルをヒットさせるなど、セールス的にもきちんと実績を出してきた。この間、1997年にはロサンゼルスに拠点を移している。

 インターネットを介してのファンサービスにも、同様の姿勢がうかがえる。2006年には期間限定で自宅スタジオからポッドキャスト配信を開始して注目された。しかし結局、ファンクラブのコミュニケーションツールのような形になってしまったあげく、「いかに自分が大変な人生を送っているか」を氷室にわかってほしいという人ばかりが集まってくるので、この企画は中断せざるをえなかったという。こうした体験を踏まえ、彼はネットとの距離感を考えなければならないと、2013年の時点で次のように持論を展開した。

《俺らの仕事って宿命的に大勢を相手にしている職業なわけだよね。そこで相手がどんな得体の人なのかもわからず、いい加減にコミュニケーションをとってしまうことの危険性に目を向けないといけないと思うんです。たぶんみんなもっと真剣に考えなくちゃいけない時代が近い将来くるんじゃないかと思います》(※1)

 ファンと感動を共有したいと思いながらも、自分が流されないためには必要以上のサービスはせず、いい意味での勝手さを貫く。そうしたバランス感覚こそ、氷室がカリスマと目されるゆえんなのかもしれない。

■最後の東京ドーム公演での「宣言」の行方は?

 冒頭に記したとおり、氷室は2014年の全国ツアーをもってライブ活動の無期限休止を発表した。耳の不調がその理由であった。しかし、このときのツアーの最終公演(横浜スタジアム)は氷室にとって、リハーサルでの骨折に加え、落雷によるライブ中断とアクシデントが重なり、満足いく内容ではなかった。そこで終演時には「このリベンジは必ずどこかで」と観客に約束してステージをあとにする。この約束は、翌々年、ファイナルライブとなった4大ドームツアーという形で果たされた。彼を不調を押してでも最後の最後にライブへと駆り立てたのは、かつてのやりなおしライブのときと同じく、忸怩たる思いではなかったか。

 有言実行の氷室のことだから、最後の東京ドーム公演での「時間をかけてアルバムをつくろうと思います」との宣言も、きっといずれ実現させるに違いない。そのとき、彼はどんな新しい音を聴かせてくれるのだろうか。

※1 『氷室京介ぴあ』(ぴあ、2013年)
※2 「ORICON NEWS」2016年5月24日配信
※3 『ミュージック・マガジン』2013年3月号
※4 『VIEWS』1996年11月号
※5 『SWITCH』2007年1月号
※6 『スコラ』1998年1月8日号

(近藤 正高)

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