私たちは「善良」だったか? 『エール』の終戦が“被害者意識”の日本人に突きつけるもの

私たちは「善良」だったか? 『エール』の終戦が“被害者意識”の日本人に突きつけるもの

NHKテレビ小説『エール』公式HPより

 アウシュビッツ以後の世界で詩を書くことは野蛮な行為である、という20世紀に死んだ哲学者の古い言葉を、朝の連続テレビ小説『エール』で窪田正孝が演じる昭和の名作曲家を見ながら思い出していた。

 ハイデガーの哲学やワーグナーの音楽を生んだ文化の国ドイツで、その文化が戦争を止めるどころかナチスの政治に加担したことを断罪するその言葉は、自分の作った戦争歌謡が招いた戦争の惨劇を目の当たりにし、「僕は音楽が憎い」と吐き捨てるようにつぶやく主人公とどこか重なって見えた。

「戦争が憎い」という言葉は、これまで何度も朝ドラの中で発せられてきた。戦争は自由を抑圧し、表現を検閲し、主人公の夢を阻むものとして描かれ、終戦の玉音放送はその抑圧からの解放として、美しい青空とともに描かれるのが定番だ。

 だが『エール』では「僕は音楽が憎い」という言葉が象徴するように、戦争は主人公の夢の達成そのものが招き、実現したはずの夢が悪夢に変わる光景に主人公は立ち尽くす。

 これまでの朝ドラが「表現の自由」を戦争の反対側に置いてきたとしたら、『エール』は戦争に加担した側のクリエイターの『表現の責任』について、この時代の自分たちへの問いかけとして置いているように見える。?

■『二十四の瞳』に対する大島渚の激しい批判

 1954年に公開された『二十四の瞳』という美しい反戦映画がある。1928年、瀬戸内海の小さな島に赴任した新しい時代の価値観を持つ若い女教師が、12人の子どもたちに「おなご先生」と慕われながら保守的な島を変えていく。やがて戦争の統制が島におよび、軍国主義的な教育に疑問を持つ女教師は退職し、子どもたちは戦争に飲み込まれていく。戦後、深く傷ついた教師と子どもたちは再び集まり、島での美しい日々を思い返す。

 戦後民主主義を支える国民的な寓話として映画は大ヒットし、日本人の戦争観に大きな影響を与えた。その数年後、1961年に第一回が放送され現在まで続く朝の連続テレビ小説の戦争観も『二十四の瞳』のそれに近い。「戦争は間違っていた、軍部のせいでひどい目にあった」それは民衆にとってひとつの真実、風化させてはならない記憶ではある。

 だが、その美しい反戦映画を撮った木下恵介監督に対し、彼を尊敬する後輩の大島渚は激しい批判を加えた。是枝裕和監督は2014年の朝日新聞のインタビュー「二分法の世界観」で当時を知らない読者に説明する。

■「いまの日本の問題は、被害者意識から出発していること」

「いまの日本の問題は、みんなが被害者意識から出発しているということじゃないですか。映画監督の大島渚はかつて、木下恵介監督の『二十四の瞳』を徹底的に批判しました。木下を尊敬するがゆえに、被害者意識を核にして作られた映画と、それに涙する『善良』な日本人を嫌悪したのです」

 ドイツの哲学者が「アウシュビッツのあとで書かれる詩」を野蛮と呼んだように、大島渚監督は美しい国民的反戦映画からこぼれ落ちる加害と責任の意識を強く指摘した。

■戦時歌謡の詞にメロディをつけたことへの悔恨

 朝の連続テレビ小説『エール』は、主人公の戦争への加担責任、それも表現者としての責任を描いている。重要なのは、この物語で描かれる主人公、古関裕而をモデルにした古山裕一という人物が、作詞家ではなく作曲家であるということだ。

「勝って来るぞと勇ましく」と書いたのも、「いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄に逆落とし」と書いたのも作詞家であって主人公ではない。彼はただ西洋音楽を手本に美しいメロディを作っただけなのである。だからこそ、その美しいメロディをその時代を支配する言葉と接続した、それを止めることができなかった主人公の不作為責任、その間接的な加担への悔恨をドラマは描く。

『エール』で描かれるのは「美しい文化を踏みにじる野蛮な軍部」ではなく、美しく繊細な文化、楽しい娯楽が戦争に加担し巻き込まれていくプロセスである。朝の連続テレビ小説の歴史の中でも、政治に対する文化の責任を「戦時歌謡の詞につける作曲」という形で象徴的に表現した『エール』の手法は際立っている。

 窪田正孝は、これまでの多くの作品で演じてきたキャリアをこの作品に集約するように、ナイーブで繊細な主人公、二階堂ふみが演じる妻にリードされる少年のような作曲家が、その優しさのゆえに戦争の力に逆らえず巻き込まれていくプロセスを鮮やかに演じている。

 今年の初め、主演映画『初恋』が公開されたころ、彼は『PICT-UP』という雑誌のインタビューに答え「いつかは他の誰かが自分の今いる場所に座る、その時、『初恋』の共演者なら(先輩俳優の)大森南朋さんや内野聖陽さんのようになっていたい」という意味の内容を答えている。

 優しくナイーブであるだけでは強い政治の力に飲み込まれてしまうという『エール』で演じた役柄、そして残された放送回でそこから立ち上がる新たな主人公の人物像は、俳優としてのこれまでの集大成、そして今後への転換を象徴する代表作になるだろう。

■「国民的物語」を作ることの困難さ

 朝の連続テレビ小説や大河ドラマを作ることは、年々困難になっている。SNSの普及は、それまでとは比較にならない数の視聴者の意見に場を開いた。だがその意見が常にフェアな、的確な意見とは限らない。集団心理や同調圧力に取り憑かれた、離れた場所から見れば常軌を逸したようなバッシングがネットに渦巻き、その波に乗って大きなアクセスを獲得しようとするメディアがそれに拍車をかける。

 作り手たちはいまや「上からの圧力」だけではなく、ネットからの攻撃に翻弄されながら物語を作り、演じなくてはならない。しかも視聴者の信条や感性は同一ではない。SNSでリベラルな意見が可視化される一方で、ここ何年も与党の支持率は過半数をこえ、対する野党の支持率ははるかに低いのだ。その分断状況の中で、多数の視聴者に向けて「国民的物語」を作ることは困難をきわめる。

 15日、先週木曜の『エール』のあとを受ける情報番組『あさイチ』では、「朝からリアルすぎないかという声も多少あったみたいですが、実際はもっと悲惨な…」というコメンテーターの「朝ドラ受け」もあった。それはインパール作戦を描いた回に対する視聴者からの反応の複雑さを思わせた。

■『歴史の正しい側』が見えているとは限らない

 アメリカの超人気歌手、テイラー・スウィフトを描いたドキュメンタリー「ミス・アメリカーナ」はNetflixで公開され、その中で彼女が故郷テネシー州の選挙でトランプ陣営に反対し、民主党候補を支持する声明を出した舞台裏を撮影したシーンがある。「私は歴史の正しい側にいたい(I need to be on the right side of history.)」という言葉は日本でも大きく報道され、左右の陣営からそれぞれ称賛と反発を呼んだ。

 だが、その後に続くテイラー・スウィフトの言葉を伝えた記事は少ない。「たとえ(自分の応援する候補が)勝つことが出来なくても、少なくとも挑戦したい」(And if he doesn’t win, at least then I tried ) インスタグラムのフォロワーが1億人を超えるスーパースターでありながら、彼女は故郷テネシー州で敗北の可能性を予感していた。

 そして彼女の予感通り、テネシー州の選挙で勝ったのはトランプ側の候補だったのである。

 一方ではアイス・キューブのようなアフリカ系のヒップホップアーティストが、支持層から激しい反発を受けながらトランプキャンペーンへ参加しはじめる現象も起きている。BLM運動を支持し、激しく現政権を批判してきたアイス・キューブの『ローリング・ストーン』でのインタビューを読むと、そこにあるのはトランプ個人への共感や賛同ではなく、それ以上にバイデンが象徴する白人的富裕リベラルの欺瞞に対する反発に見える。

『歴史の正しい側』にいたい、そう思わない表現者はいない。だが歴史の正しい側が、歴史の中にいる人間から常に見えているとは限らない。『エール』で窪田正孝が演じる作曲家、古山裕一も、ミャンマーの森で戦争の現実をみるまでは、自分の音楽が歴史の正しい側にエールを送っていると信じていたのだ。

■薬師丸ひろ子が提案した、讃美歌を歌うシーン

 終戦後を描く第19週『鐘よ響け』では、歴史の正しい側から追放された主人公が描かれる。終戦まで主人公と同じように戦争に加担していた民衆からの「よくのうのうと生きていられるもんだ」という非難は、容赦なく主人公に突き刺さる。「もう音楽はいいかな」19日月曜の放送回で主人公はつぶやく。アウシュビッツの後の世界で、もはや詩を書くことはできないと語ったドイツの哲学者のように。

 だがその前週のラストでは、薬師丸ひろ子が演じる主人公の妻の母、光子が焼け跡の廃墟で賛美歌を歌う場面が描かれる。これは当初の脚本では「戦争の、こんちくしょう! こんちくしょう!」と光子が地面を叩いて叫ぶ場面だったのだが、演じる薬師丸ひろ子の提案で賛美歌を歌うシーンに変わったのだという。

 脚本家ではない薬師丸ひろ子が、どういう思いでその提案を切り出したのかは本人の言葉を待つしかない。だが演出スタッフの同意も得て、一切の伴奏なく、ただ薬師丸ひろ子の声のみで歌われるその賛美歌は、その直前に主人公が吐き出す「僕は音楽が憎い」という言葉と対比される、何度踏み消しても民衆の中から湧き上がる音楽を象徴するシーンになっていた。

 エールの第1回放送は、あまり評判が良かったとはいえない。窪田正孝と二階堂ふみが1万年前の人類に扮して木を叩くその場面は、まるでコントのようじゃないかとネットでは揶揄された。だがその後の戦争を経て見返す初回のその場面は、政治利用される前の音楽の起源、この物語が立ち返る場所を描いた原点になっている。

『エール』が描くテーマには2つの側面がある。表現の責任と表現の自由。表現することの責任と重さ、そしてアウシュビッツのあとに再び詩を書き、歌を歌い始めるような民衆の野蛮なまでに自由で原始的なエネルギーである。第1回のシーンはエールのもう一つのテーマ、その音楽のエネルギーに立ち返るシーンになっている。

■野蛮でも、詩は書かれ、歌は歌われるべきなのだ

 18週のラストから19週にはじまる戦後編には北村有起哉が演じる劇作家、池田二郎が登場する。窪田正孝の演じる繊細な主人公とは対極の、スリの戦災孤児の腕をつかんで「お前たちの物語を書いてやる」と笑うタフでしたたかな男は主人公の家を訪れ、俺の脚本のために曲を書いてほしい、と頼み込む。それは戦後の物語の幕開けを告げる野蛮なエネルギーを持つ男だ。

「NHKだもんね、ウソはつきませんよ」「15分じゃ短すぎる!」北村有起哉が演じるタフでしたたかな脚本家のセリフは、分断とアクシデントの中、先の見えない歴史の中で、「それでも何度でも、自分たちは作り続ける」という朝ドラの作り手たちの自己言及に見える。

 テイラー・スウィフト、アイス・キューブ、そして無数のクリエイターたち。今日も人々は正義が揺れ動く世界で詩を書き、歌を歌い始める。それがどれほど野蛮だとしても、やはり詩は書かれ、歌は歌われるべきなのだ。歴史の正しい側はどちらかと自問しながら、アウシュビッツ、広島や長崎や911の後、そして次の戦争が起きる前の世界で。?

(CDB)

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