豪華過ぎる別荘、本当の初ヒット曲…朝ドラ『エール』で描かれなかった“意外なポイント”とは?

豪華過ぎる別荘、本当の初ヒット曲…朝ドラ『エール』で描かれなかった“意外なポイント”とは?

『エール』に出演した(左から)佐久本宝さん、窪田正孝さん、唐沢寿明さん、菊池桃子さん ©共同通信社

 ついに「エール」が終幕を迎えた。朝ドラといえば、ロケ地巡りや関係スポットの観光も盛んだ。

 今回の場合、福島市の古関裕而記念館は外せない。同館は、主人公・裕一のモデルとなった古関の関係資料を多数収蔵し、作曲家の記念館として日本有数の規模を誇る。コロナ禍が収まれば、訪問を考えているひとも多いだろう。とはいえ、それだけで済ますのはもったいない。

 そこで以下では、古関の評伝を執筆した著者が、「3密」にならない屋外中心に、意外と知らない“身近な”観光地を紹介したい。

■本当の初ヒットは「船頭可愛や」ではなく……

 まずは、茨城県の潮来市に行こう。ここは、古関裕而がヒットメーカーへ躍進するきっかけになった、「利根の舟唄」の誕生に大きく関わっている。

 一般に、古関メロディー最初のヒット曲は「船頭可愛いや」と言われる。朝ドラでもそのように描写された。だが、本当の初ヒットは、1934年にリリースされた「利根の舟唄」だった。この成功により、古関は契約解除に怯えず、曲作りに専念できるようになったのである。

 作詞者は、「船頭可愛いや」と同じく、高橋掬太郎。「酒は涙か溜息か」で名を挙げた高橋は一念発起し、勤めていた新聞社を辞め、コロムビアの専属になっていた。ヒットを求める気持ちは誰より強く、1934年の春、古関に取材旅行を持ちかけた。その行き先が、潮来だった。

■「私にはすぐにメロディーが浮かんだ」

 潮来といえば、十二橋めぐり。古関たちも、船を雇い、娘船頭の竿さばきで、水郷地帯をくまなく見て回った。「私は初めての潮来でもあり、ことに十二橋をくぐるたびに小さな水路から突然船が出てきたりしたのには驚かされた。まだ、あやめの季節には早かったが、木々の新芽も美しく、純農村地帯、特に米産地として有名なこの地方の風物に何か引かれるものがあった」(古関裕而『鐘よ鳴り響け』)。

 現在、潮来に行くと、「加藤洲十二橋めぐり」と「前川十二橋めぐり」の2コースを選べるが、古関たちが経験したのは前者。船を雇い、常陸利根川を渡り、閘門を抜けると、往時のように、千葉県香取市の新左衛門川に架かる十二橋を見物できる。

 実に狭い水路で、小舟が行き交うのがやっと。両辺には民家が並び、小さな橋がいくつも渡されている。女性の船長が、かつては一枚板の簡素な橋だけで人々が行き交っていたと教えてくれた。

 古関たちが訪問したときはまだ観光客も少なく、寂しい雰囲気だった。それでも、ヒット曲のメロディーを生み出すのに十分だった。「あのひっそりとした潮来や静かな木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、私にはすぐにメロディーが浮かんだ」。古関は、取材から約1週間後、高橋から歌詞を渡されたときのことをそう振り返っている(前掲書)。

 この水郷がなければ、昭和の大ヒットメーカーも芽が出ず、歴史に名を残さなかったかもしれない。

■“久志”の実家にある「豪華すぎる別荘」

 つぎは、福島県本宮市へ。ここは、久志のモデルとなった、伊藤久男の故郷。その生家のほか、大地主であった父・伊藤弥が整備した、約10万坪の庭園が残されている。現在一般公開中の、「花と歴史の郷 蛇の鼻」がそれである。

 四季折々の花が咲き誇る庭園も見事だが、やはり見るべきは、高台に建てられた、蛇の鼻御殿。伊藤弥は、天下の銘木を集め、約10年もの歳月を費やして、この豪華絢爛たる別荘を明治末期に築いた。現在、国の登録有形文化財に指定されている。

 立派な欅の一枚板が2階の廊下に使われているのは序の口。樹齢約600年の山葡萄は落掛に、樹齢約400年の枇杷は床柱になり、黒紫色の縞が美しい黒柿は、階段や落掛だけでなく、トイレの床にさえ惜しみなく使われている。

■狩野派の襖絵、明治の元勲の書……

 このような木材は、今日いかに大枚を叩いても入手しがたい。贅を尽くした作りに思わず溜息が出る。しかもそこを、狩野派の襖絵、仏具師の彫刻群、そして伊藤博文、三条実美、木戸孝允ら明治の元勲の書が飾っているのである。伊藤久男の実家がどれくらい裕福だったのかが、いやでもわかろうというものだ。

 古関の母方にあたる武藤家も、地元の川俣町では「四方の山は全部武藤家の所有」とうたわれたほどの資産家だったが、邸宅などはほとんど残っていない。その意味で蛇の鼻御殿は、福島の素封家の歴史をいまに伝える、貴重な証言者なのである。

■「軍歌の覇王」を生んだ運命の地

 今回の朝ドラでは、軍歌の扱いにも注目された。であれば、下関市と北九州市が向かい合う関門海峡にも足を運ばなければならない。

 1937年の夏、日中戦争の戦火が上がる最中、古関は妻とともに満洲を旅行した。そしてその帰路、大連から神戸までの船上で、コロムビアから「急ぎの作曲があるから神戸で下船しないで門司から特急で上京されたい」との電報を受け取った。そのため古関夫妻は、言われるがまま北九州の門司で下船し、フェリーで下関に渡り、駅前旅館で1泊して、翌日の特急列車に備えた。

 せっかくの船旅が中途半端になってしまったわけだが、これが運命の出会いをもたらした。あくる朝、古関がひさしぶりに内地の「大阪毎日新聞」を取ると、そこに軍歌の歌詞が書いてあったのである。のちに「露営の歌」と名付けられるそれだった。

 当時、東京までは特急でも10時間以上を要した。古関は暇に飽かせて、朝方見た歌詞に作曲してみた。先日までの満洲旅行も、そこにインスピレーションを与えた。

「“土も草木も火と燃える”とか“鳴いてくれるな草の虫”など、詩は旅順で見たままの光景で、私には、あの戦跡のかつての兵士の心がそのまま伝わってくるのであった。夏草の揺れ、虫の声もそこにあった。汽車の揺れるリズムの中で、ごく自然にすらすらと作曲してしまった」(前掲書)。

■半年で60万枚も売れる大ヒットに

 このときは、あくまで暇つぶしだった。ところが、東京について会社に顔を出すと、果たして「露営の歌」に作曲してほしいとの依頼。古関は驚いた。「あッ、それならもう車中で作曲しました」。今度は、ディレクターが驚く番だった。「どうして分かりました」「そこはそれ、作曲者の第六感ですよ」。

 こうして誕生した「露営の歌」は半年で約60万枚も売れる大ヒットとなり、古関が「軍歌の覇王」と呼ばれるきっかけとなった。その絶妙なメロディーも、門司で下船し、下関から特急に乗っていなければ、別のものになっていたかもしれない。

 そんな歴史を刻む関門海峡周りには、歴史的な建造物が数多く残っている。化粧煉瓦が鮮やかで美しい、大阪商船の門司支店もそのひとつ。建物の角に屹立する八角形の塔は、1917年の竣工当時、門司で一番高い場所だったという。古関夫妻が満洲旅行で利用した「吉林丸」も、同社の所有だった。

 なお当時の門司港は、大陸航路の一大拠点であっただけではなく、やがて出征兵士を送る場所にもなった。桟橋近くには現在、「門司港出征の碑」が建てられている。いわく、200万人の将兵がここから旅立ち、その半数が還ってこなかったと。ここでも「勝ってくるぞと勇ましく」と、「露営の歌」が盛んに歌われたことだろう。

■古関メロディーが発信された“内幸町の円”

 最後に、東京・内幸町の交差点に向かおう。あまり知られていないが、ここから半径200メートルの円内で、古関メロディーの多くは発信された。

 日比谷公園の市政会館はそのひとつ。古関がコロムビアと専属契約を交わした当時、同社の文芸部(レコードの企画を決定する重要部署)と吹込所は、この建物内に置かれていた。つまり、「福島行進曲」「紺碧の空」など初期の作品は、ここで吹き込まれたことになる。

 この文芸部と吹込所は、1933年12月、日比谷通りを挟んですぐ右隣の、東洋拓殖ビル内に移された。こちらは現存しておらず、みずほ銀行内幸町本部ビルがそびえ立っている。ここからは、「利根の舟唄」「船頭可愛いや」「露営の歌」など、輝かしいヒットの数々が送り出された。

 そしてもうひとつ見逃せないのが、市政会館の真向かいにあった、東京放送会館。現在、日比谷シティになっているが、1973年に渋谷の放送センターができるまで、ここはNHKの本拠地だった。

 古関が、戦中から戦後にかけて、ラジオで盛んに仕事していたことはドラマでも描かれたとおり。「英国東洋艦隊潰滅」「比島決戦の歌」、また「とんがり帽子」「君の名は」もまた、この建物が発信源だった。

 このようなオフィス街にも、意外に「エール」関連スポットは隠れている。みなさんは、いくつ知っていただろうか。もちろん、以上はほんの一例。昭和史とともに歩んだ古関の足跡は、あちこちで発見できるはず。以上がそのきっかけともなれば幸いだ。

(辻田 真佐憲)

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